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弁証法的発展の社会学

2006-09-13 11:16:59 | 私見アウフヘーベン
意見対立や考えの違い、価値観の相違・・・などという言葉を聞きます。

振り返ると、歴史はその連続でした。

それが嫌でしょうがない人は、独裁的な力を求めました。
それを不可避と考える人は、多数決を良しとしました。

弁証法的発展とは、対立の次に生まれる両者の妥協案・調停案を期待するものと考えます。(この進化は止揚、揚棄、アウフヘーベンという言葉で説明されます)

ここまでの、私のブログは、通常考えられる認識に「はたしてそうだろうか?」というような疑問の余地を探る方法で書いてきたつもりです。対立意見を想定するというディベートにも似た考え方かもしれません。

この弁証法的発展論と、現象学的認識方法を組み合わせることを、次に考えました。
現象学的認識とは、はじめに判断することをやめよう、あるがままの現象、事象、事実をあるがままに認識することから始めよう・・・という、私にとっては中立的、無機質な思考を装うことでした。
物事の認識において、人は何かしらの予備知識、先入観を持って結論の想定(判断)をして、そのものを観察するものですが、それをやめましょうと意識的に努めることができるかどうか、という意味での「装う」です。

さらに、説明がしやすいように、〇X△論を述べました。
全ての事には〇X△があって、はじめから全てが〇であるもの、全てがXのものもない、と考えて、物事を観察してみましょう。そうすると、Xや△を認識してそれを〇に変えようと努力する行為が〇であろう、という説明もしました。
全ての人が、自らの存在に悲観することがないように思えるかもしれないと考えたからです。

いじめられる人、いじめられていると関係妄想する人、尊敬されたいのに蔑まれている人、どうしようもない犯罪者と思われる人、・・・、自らのXを認識しない、例えば・・優劣双方のコンプレックスから他人を従わせたいと潜在意識している自分に気が付かない人、怠けを弁解する人・・・
全ての人が、「はたしてそうだろうか」と自分を内省し、〇にするにはどうすればいいのだろうかと考えることで、前進する・・・という考え方はできないものか。

対立概念から折衷案を論理する・・・対立論双方は自らの〇X△を内省し妥協案を探るはず・・・〇に変えようとする行為を双方で認め合うという関係・・・

私見アウフヘーベンのはじまり・・・