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高慢はXなの?

2006-09-28 14:58:27 | 高慢の定義
ここまでに、「高慢」は悪しきもの、良くないもの、Xという前提で書いてきているように思います。「怠惰」もそうです。

はたして・・・そうなのか?

いじめや傷害事件の根っこには、優越感や劣等感を潜在意識として、「高慢」があるかもしれないと思いました。
この場合、「高慢」という言葉は良くないものとして使いました。もちろん「高慢」は偏見や差別に繋がる意味の言葉で、良いものではありません。

しかし、褒める、哀れむ、慰める、恵む、施す、励ます・・・・など、対人関係の好ましい行為として使われる言葉は、意識として、優位の者から劣位のものに対して行われるのかもしれないと思うとき、それを高慢と言わないし、思わない。

また、精神的に優位になる願望は、意識・無意識かかわらずあるものでしょうし、それがなければ、競争は起こらない、従って発展や進歩、向上も見込めない。
「高慢」という言葉の意味をここまで広げると、人の心の「高慢」は、多面的。

いじめの心理どころでなく、あるときは、人種や国の優越感情、民族主義と言われるものまで大きく広がると、戦争にまで至る「高慢」もあります。

誰もが、その心にあるものとして認識する・・・現象学で言うところの「客観的に認識することから始めましょう」という教えに習って。

そう、「高慢」は誰もがあるのです。
名誉欲と「高慢」は重なる部分を持つことを知らなければならないでしょう。尊敬されたいという思いは、そのために何をなすべきか考えることに意味があります。でも、それって名誉欲と重なるし、名誉欲は「高慢」と重なる・・・

わっかるかなぁ・・・言いたいこと。

感情的に持論を押し付け説き伏せようとする人を見ると、この人の性格、何とかできないものかと考えることがありますよね・・・
一方的な理解で当然のように使われる、たった一つの単語・言葉も、その中には立場、利害関係などで実は意味が異なることもある。
当然と思われることを「はたしてそうだろうか」と省みることも・・・
・・・意味がなくはない・・・チャンチャン♪


高慢とイジメ

2006-09-11 10:54:35 | 高慢の定義
いじめる人といじめられる人がいます。

いじめる人は、自分が「えらい」と思っているのかもしれません。
その自覚がある人、又は自覚がある時は反省するので、いじめないと反問できますが、多くのケースでは無意識に近い心理かも。
「何故そんなことをしたの?」
「あいつが生意気だったからさ!」
生意気≒高慢、と言葉を変えると分かりやすいですね・・・君も高慢だよね。

事の大小問わず(個人のケンカから国の紛争まで)、高慢が紛争の心理の、おそらく根であるかもしれません。自分の力に慢心しないで謙虚であることが、反省の美徳であることは周知のことであることからも。

「えらい」に漢字を当てはめることができないのは、偉い(立派で地位が高い等)と異なる意味で使われるように思うから。

「偉そうにする」「偉ぶる」などのように、その言動を批判する言葉があるにも拘らず、人はその気持ちをおそらく誰もが持つのかも。ちょっと罪は軽そうな言葉で「自慢」も、高慢の近所にいそうだし・・
高慢は嫌われる、と知っていながら、自分の高慢には気がつかない・・・

「弱いものいじめ」って言うけど、いじめる人は、力がある・・・?
しかし、体力、運動能力、知力、学力、親の経済力、自分の職業能力や経済力(成人)・・・これらが強いことが、いじめの主体となる原因・・・じゃないよね。
そういう客観的な力が弱いことのコンプレックスから強い人に攻撃的になる場合もあると思いますし、双方の高慢がぶつかることが紛争なのかも。
いじめの力は、自己保身の言い訳に使われる「言葉」の力・・・声の大きさと乱暴さの程度・・力じゃないか・・・

おおむね・・・、紛争の根には「高慢」がいつも潜んでいる。
紛争の当事者双方には見えないけど、第3者には見えやすい・・ちょっとironical

人には多くの力があって、イジメはその力の優劣の比較で起きることもある・・・とすれば、「相手の人権を尊重する」という「力」がないことと定義すれば・・。
「相手の人権を尊重する力は、他のあらゆる力より尊く、強い」となるのかな・・・。

「自立を目標として生きる。他人の迷惑や被害に依存する行為を自立と言わない」ということと合わせて・・・・・・


「高慢」「偏見」の犯罪2

2006-08-24 14:36:54 | 高慢の定義
「高慢」を、もう少し角度を変えて・・・
「高慢」はどこにあるのか、周囲を見渡してみましょう。

・子が親の言うことを聞かない&親の忠告をうるさがる子・・という関係
・「誰のおかげで飯食ってると思ってんだ!」が正当と信じている夫婦関係
・飲食店等、公共施設等での自己中心的マナー違反
・不祥事やクレームは事後対応が重要であるにもかかわらず、「責任」の所在が重 要と信じるお役所とお役所的企業の責任回避行動
・言論の自由や報道の責務という名目
・・・・キリがないね・・・

何か・・・書き続けると、不平不満の体験の羅列になりかねないし、こうして並べることに意味はない気がしてきました。
しかし、生活する上での不平不満は、「高慢」を反省すればその環境改善できるかもしれないということの示唆にはなるかも。

「親は子の自立(経済的+精神的)について、子の成人まで責任があり、子は自立を目指して行動する責任がある。」・・・仮にですが、そのように親子関係を定義します。これを元に、親子の相互認識、及びその親子が係わる社会の認識を醸成していけば、自己中心的高慢が反省される・・・気がする。

家計を支える夫が、それを妻に対する優位と信じる高慢が、また逆に、稼得能力を責立てる妻からの精神的ストレスなどが、DVや精神的虐待、信頼破綻の原因である可能性があるならば・・「家計の収入は、夫婦両者の協力と責任で成る」・・・のような社会認識が足りないのかもしれない。

社会全体で、制度として認識の「間違い」であることを、事例を示して普及すれば改善されるかもしれない。個別事情で度合いに差がある「高慢」は個々の反省で改善するより、全体普及できるコンセンサスがあることがいいようにも思えます。

親子、夫婦という社会の最小構成単位から、犯罪の起源を議論していくというボトムアップ・アプローチは、自治体、警察等、学校、又は関連法体系・・・という体制普及(トップダウン)の議論と同時に・・・

こうした論点での、親子や夫婦のあり方・・・
まだ足りないわね・・・

「高慢」「偏見」の犯罪

2006-08-22 12:27:39 | 高慢の定義
―「怠惰」の議論2―で「高慢」「偏見」に触れました。
この論点は、古今東西で議論され興味深いものなので、また取り上げてみます。

「高慢」「偏見」が犯罪であるということでなく、犯罪動機の根っこだろうという理解です。

会話の場面で、相手の言葉に敬意がなければ、腹が立ち、相手の教養を疑います。
・・・さて、この場合、どちらが「高慢」なのでしょう?

これまでの私の論法では、
「人は、あって当たり前のものとして「怠け」を持っている」と考えることと同じく、人は、あって当たり前のものとして「高慢」を持っている・・・という考え方をします。また、これを批判することだけで軌道修正しようとすればストレスとなることも。

「高慢」という言葉の背景は、名誉欲と言えなくもない。であれば、あって当たり前・・・。前進・発展・向上の原動力となることもあるものです。
名誉が傷つけられることには、法的な規制もあります。
名誉を傷つけた相手の名誉を傷つける・・・互いに「高慢」な人は・・続きそう・
ん~・・・ん~っと、

!!まてよ、名誉は相対的な価値だよね!他者より上とか、他人に誉めてほしい。誉められる原因が善なるものであればそれは〇・・・だけど、それで「いい気」になること、「うぬぼれる」ことはX、という図になるのかな。

こうしましょう!
A自分自身の目標設定があり、自分自身の中での達成度・満足度の価値観
B他者からの尊敬・信頼という結果の評価による価値観
A:B=6:4
名誉とは、誉められるという他人の評価の比率より、自分の満足度の評価の比率が高い。名誉とは、そういうもの・・・と思うようにする。

この論点が、犯罪の防止に繋がるイメージはできますか。
相手の名誉を傷つける行為や言動は、自身の尊大さであることの反省。
誉められることの価値は、うぬぼれで消える。

このままでは深さも広さも不足した理解ですね・・・
もっと、もっと・・・でも、今日はここまで。