要介護5の祖母の在宅介護記録。

要介護5の祖母を在宅介護している。在宅介護の記録。

これ以上、良くなることはない。でも。。。♡

2024-02-29 09:13:00 | 日記
2/26〜27
祖母がすこぶる元気。こちらが驚くほどに。



そういえば、祖母を診ていただいていた何人もの医師が皆口を揃えて「これ以上よくなることはない」と言っていた。たしかに今も間質性肺炎は進んでいると思う。現在は、訪問医療なので画像診断ができないし、祖母が病院に行くのを拒否するので、血液検査以外にどの程度進行したのかがわからない。


でも、祖母はよく笑うようになったし、よく話すし、食べられるようになったし、顔もふっくらとした。これには母も私も驚いている。


今だから言えるけれど一時期、祖母は12月の誕生日を迎えられないかもしれないと思っていた。だからこそ言える。誰も想像がつかないこともあるんだな、と。



*入院当時、診ていただいた医師には感謝しております。当時はお粥も飲み込めないほど嚥下機能が落ちていて、アルブミンの値も1.5の時がありました。だから、私が伝えたいことは、誰かを批判したいわけではなく「89歳(当時)でもいい方向に進むことがあった」という事実の一例です。
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祖母のコーヒータイム。

2024-02-22 12:02:00 | 日記
祖母の好きなコーヒータイム☕️✨私がドリップしながら毎日、淹れています。この日のコーヒーのおともは、株式会社Amieが販売しているほうじ茶ようかん♩祖母もこの羊羹が好きで、入院する前まではお世話になっている方にプレゼントに渡すと買ってくれていました。



私は祖母が少し前と比べると、酸素が2ℓの吸入になり弱々しくなったと感じます。でも、施設の職員さんは、祖母が施設の方に気に食わないことで物申すときに大きな声なので「まだまだお元気ですね」とおっしゃっています。
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弱音と本音と大きなアザ。

2024-02-18 16:09:00 | 日記
*大きなアザの写真を載せます。それから、弱音も吐きます。


祖母がぼそっと「香川県から誰もお見舞いに来ないなぁ」と言いました。祖母が思い浮かべる顔は想像できますが、現状を知らないのでお見舞いに来るはずがありません。そのようななか、少しずつ祖母のびまん性間質性肺炎の病状が悪化しているのか、血中酸素飽和度が低くなってきました。つまり、酸素吸入の量を増やしています。


・退院する頃☞酸素無し
・退院した日12/5☞悪化、酸素吸入
☞暫く1.0ℓ〜1.5ℓで大丈夫だった
・この一週間☞1.75ℓ〜2ℓ
・2/17は朝から2ℓ
2/18(日)☞酸素2ℓで祖母を施設に送り出しました。看護師にも祖母の状況など伝達事項を直接伝えに行きました。


SpO2は特に朝が悪く、90〜92ですそのため酸素を1.75リットルから2リットルに上げて様子を見ています。ちなみに、オムツを替えたあとは、昼夜問わず80台に落ちます。今日は弱音を吐きます。




祖母の弱っていく姿を見ているのがとても辛いです。食欲も減り、声も一段階、弱々しくなりました。寝ている時の呼吸が特に苦しそうです。


そして、15日の夜。私自身の気疲れや身体的疲労がピークに達したのか、夜ご飯を食べる元気もなく、シャンプーする気力も起きず、湯船にだけ浸かって泥のように眠りました。この日、諸事情により私が急いで施設に駆けつけた日でもあり、虚しさやもどかしさ、孤独など言葉にしようがない「疲れ」が一気に出ました。


施設の看護師には、よく祖母の病状のことで相談させていただいています。特に2人の看護師に相談しているのですが、すごくいい方で救われています。それでも、自宅に帰って誰かと共有できないってすごく辛いです。話してもズレた受け応えだと余計に疲れるし。たとえ家族でも、やはり生で見ているのとそうでないのとでは雲泥の差があります。さらに、父も母も車椅子の操作や携帯用酸素ボンベの使い方、替え方を中々覚えません。


父はできないままの状態、母は「自信がない」と言います。でも、私だって最初は何もできませんでした。オムツの交換にも時間がかかったし、尿の管を抜いてしまわないか不安だったし、拭き取れていなかった部分で替えのオムツを汚してしまって、やり直したこともあります。酸素の鼻のカニューレを交換した後、酸素がしっかり届いているか不安で不安でパルスオキシメーターで頻繁に確認したり、耳を立てて酸素の音を聞いたりもしました。

とにかく覚えるしかなかったから、必死に覚えて練習もしたし、分からないことは施設に行って聞いたし、より効率よく行うための手順(たくさんの管やコードをどの手順で処理して稼働させるか、移動させるかなど)も考えました。だから「いい加減、覚えてよ」というのが本音です。


話を戻しますが、この日は祖母も帰宅してから静かで深夜1時だったか2時ころには私も寝て、睡眠は十分にとれました。そして、翌日からはまたポジティブに介護に取り組んでいます。


人間、生まれたら死に向かっていく、それは皆同じ。ただ「看取る」という、文字にすると'たったの3文字"のことが、刻一刻と近くなってきているのかもしれず、より一層現実味を帯びてきたことで今の私に重くのしかかり始めました。こればかりは医師にもわからないそうです。
*不謹慎かもしれないけれど、身内のことなので。



さて、冒頭で書いた祖母にできた大きなアザの写真を載せます。苦手な方もいらっしゃると思うので、苦手な方はここまででお願いいたします。紫の画像の次に載せます。








祖母の右腰に15日(木)に大きなアザができていました。




13日(火)の夜にはなかったのですが、その数日前から腰が痛いとは言っていました。その際、祖母の腰を見ても特に変わりはありませんでした。そのため「寝違えたかな?」くらいに思い、湿布を貼っていました。祖母は出血しやすいです。どこかに打ったのかな?移乗の際にぶつけてしまったのかな?と推測しています。ただ、原因不明の大きなアザを見ていたら悲しくなりました。ちなみに、アザの大きさは長い辺では人差し指ほどで、縦にも横にも大きいです。



今日は、お風呂に入れてもらい一泊2日するので、湿布も看護師に渡してきました。


*ブログに書けるくらいなので、私は大丈夫です。そして、私が書いているので私だけが疲れているように聞こえるかもしれませんが、母も疲れています。これはあくまで家庭内での話ということでお願いします。だから、当たり前だけれど私が優秀なわけではなく、オムツ交換は母の方がうまいし、むしろ欠点だらけです。覚悟を持って始めた在宅介護でも、時に疲れるのが人間なのだと思い知りました。

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家庭内の不協和音。

2024-02-14 13:55:00 | 日記
前回の記事と似ているが、投稿する。これは少し前に書いた記事で今とは若干状況が異なる。下書き保存したときより、現在のほうが祖母の食欲も減り、血中酸素飽和度も低くなってきたため酸素を1.75リットルにすることが増えた。


以下、下書き保存していた記事

祖母のアルブミン値はだんだんと良くなり手元にある検査結果では3.1である。そして、手芸も楽しむようになり、頭も退院時よりは遥かにしっかりとした。しかし、それと並行するように、夜間に精神的に辛そうな日々が始まった。


下肢切断による動けないもどかしさ、さみしさ、不安、悲しさ、やりきれなさ、もどかしさ、恐怖など。


さらに「救急車で運ばずに放っておいてくれたらよかったのに。死んだ方が自分もみんな(家族)も楽だった。」とも言う。これを聞くと、私は胸が痛む。


祖母は血栓が詰まったときから下肢切断までの間はモルヒネ(フラッシュ含む)を入れても痛みがとれずに、激しい痛みに喘いでいた。その痛み方は尋常ではなかった。


ただし、祖母にはびまん性間質性肺炎で入院した8月から手術後の12月の退院ころまでの病状の記憶がない。覚えているのは梅干しひとつでお米を食べていたこととその他のごく一部。つまり、祖母にとっては手術の説明もなく、気がついたら右脚が無くなっていて、動けなくなっていたという認識だ。当時の主治医のことも忘れている。


そして、夜9時ころになると、寂しいと言って泣くし、車椅子に乗せてほしい・歩きたいと言うし、誰か来てと大きな声で呼ぶ。看護師や医師にも相談したけれど、しばらく様子を見ることになった。


そして、私は祖母の気持ちを想像すると胸が痛んで辛かった。祖母にとっては、気がついたら自分で座ることもお手洗いで用を足すこともできなくなっていた。母や私にオムツを替えてもらったり、食事を用意してもらったりしているのも申し訳ないと感じている。これまで通っていた顔馴染みのいるデイサービスにも行けなくなった。


祖母に湧く感情が想像できてしまうがゆえに、私は疲れを感じ始めた。この点、母は大丈夫で「仕方がない」「自分のことばかり」などと言って強気だ。でも、だからこそ祖母と母、母と私がぶつかり、家庭内に不協和音が鳴り響くこともある。


母は祖母をわがままだと言い、

私はそんなことを言葉にする母を信じられないと言い、

祖母は母を怖いと言う。

それぞれがそれぞれの思いを抱いていて、複雑なのだ。

例)
・母は祖母が孫の私に言えば何でも聞いてくれると思うから甘えている→私が疲れ過ぎないようにとの思いから強く言う。

・私は祖母の気持ちもわかるし、母の気持ちもわかっているつもり。祖母に対する母の責任感もわかる。私はなるべく祖母に寄り添いたいけれど、疲れるときもある。
→祖母には幼い頃、面倒をたくさん見てもらった。夏休みや冬休みは、ほぼ香川県で過ごした。妹と私だけで香川県に行っていたこともあるし、母がいても祖母の方が100倍優しかったから(笑)香川県で過ごす時間が大好きだった。いつも帰りたくなかった🤣

・祖母は母や私に色々と世話を焼いてもらっていることを申し訳なく思っている。でも、自身の状況が色々と変わってしまい、話をする機会や感情を出す相手が限られている。
→複雑な心境。


ちなみに、祖母にとって父は義理の息子なので、距離感がお互いにある。それを私は逆手にとり、私は父に移乗の手伝いをしてもらうことにした。たとえば仕事の日。お互いに仕事が終わり、何時に自宅に帰れるかを把握し、母には秘密のミッションとして祖母を車椅子に乗せ、リビングで夜ごはんを食べたり、トランプをしたりするなどしてやり繰りしている🤭


祖母の状況を施設の看護師に相談したところ、「感情移入しすぎるとご家族が疲れてしまうから」と言われて、おっしゃるとおりだと思った。祖母の心(正確には脳)を私が受け止めて背負い過ぎないように対応していかなければと思った。介護というのは、すごく人生勉強になるな、と思っている。



以上。

包み隠していない本当の姿。それぞれ、疲れるタイミングが異なる。そのため家庭内で不協和音が鳴ることもあるが、これはすべて笑っていただいていい話😊そして、普段は仲良しです!写真は昨年3月のもの。



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祖母のメンタルが不安定。

2024-02-10 19:20:00 | 日記

最近、祖母は夜になると精神的に辛そうである。


 
自由に動きたいのに脚がないから動けない。
 
一日中ベッドで横になっているのが辛い。
 
歩きたい。
 
自分でトイレに行きたい。
 
自分で座りたい。
 
 
 
そして、
 
今、車椅子に乗らせて。
 
 
と言い始める。さっきまで笑ってトランプをしていたのにと思うほど毎回、突然である。そして、その時の様子は焦ったり混乱したりしているときのような感じで、冷静ではない。
 
 
祖母の気持ちを考えると、私も辛くなる。動きたいのに動けない、座りたいのに自分で座れない、そして漆黒の闇に包まれたかのような暗い夜。どれほど精神的に追い込まれるか。私は祖母ではないから本人の気持ちをすべて理解することはできない。でも、その気持ちを想像することはできる。
 
 
私が自宅にいる際、祖母の発する声を最初に聞き取るのは私だ。だから、このような時はなるべく祖母が心穏やかにいられるように手伝いたいと私は思う。そして、父または母に、
 
 
移乗するから手伝って
 
と声をかける。なぜなら、ベッドから車椅子に移乗するためにもう一人の手が必要だからだ。父にいえば、すんなりと手伝ってくれる。一方、祖母にとっての娘(私の母)は、割と祖母に厳しい。祖母も怖がっている(笑)
 
 
こんな時間に?
 
そんなわがままを言って。
 
(私に)言えば何でもやってくれると思っているんだよ。
 
 
など。たしかに母と私で祖母のことを話していると、同じ人物とは思えないほど人物像に差がある。祖母は母のことが怖いのであまり情に訴えかけるような話はしない。そして、母は感情移入せずたくましく、私は祖母の訴えに胸が痛み情に流されやすい。
 
 
でも、私も私で母には頑として、
 
 
 
おばあちゃんの気持ちを想像してみてよ。
 
動きたいのに動けないって相当辛いと思うよ。
 
おばあちゃんにとっては、気がついたら脚がなかったってことなんだよ。
 

と譲らない。でも、これは母が鬼なわけではない。やはり、私より母の方が祖母に対する責任感があるし、母も私を思ってのことだ。それに母と私の疲れが出るタイミングも違うから、どちらかが悪いわけではない。そして、祖母の要望をすべて聞いていると疲れてしまう。
 
 
それも事実だ。介護は素人の私たちにとって睡眠不足のなかでの体(特に腰)への負担がすさまじい。オムツ交換、尿の廃棄、清拭、着替え、食事、薬を服用させる、シーツの交換など、家にいると次から次へとやることがある。祖母の体調が悪い時はこまめにパルスオキシメーターや血圧などのバイタルチェック、看護師や医師に相談、訪問医療など自分たちの仕事の予定を変更しながら生活している。とにかく家にいるときが一番忙しい。
 
 
だから、私も【祖母のメンタル】と【母の体】を考えると、どちらが正解なのか、わからない。ただし、母の言うことも理解できるから色々と試行錯誤しているところだ。
 
 
 
ところで、ベッドから車椅子への移乗の手順を簡単に書く。ところどころ、ケースバイケースなのでだいたいのイメージで。なお、祖母は身長は140cm〜145cm、体重は直近で測ったもので50kgである。右脚は太ももから切断し、左足は今は棒のようになってしまい曲げるのが難しく痛がる。
 
 
1.ベッド際に車椅子を横付けする☞ストッパーをかけ車椅子が動かないようにする。
 
2.左足がダランとぶら下がらないように、左足を置く器具を車椅子に付ける。
 
3.車椅子を後ろに倒す☞90度だと移乗の際、大変なのでレバーで頭を後ろに倒す。
 
4.車椅子の肘掛けを後ろに下ろし、移乗の際、体に当たらないようにする。
 
5.祖母の布団や毛布を取り、介護ベッドを車椅子の傾きと同じ角度に倒す。
 
6.ベッドの柵を外す。柵に取り付けている尿の袋を持つ☞尿の逆流による感染を防ぐために袋やカテーテルは下。
 
7.祖母の体の下に敷いてある分厚く頑丈な大判タオルを頭から脚にかけてきちんと敷かれているか確認☞ズレている場合は直す。
 
8.タオルを持ち「せーの」の合図で、まずはベット際の車椅子の近くまで横にずらす。
 
9.次の合図で車椅子へ移乗。なお、お尻の辺りが一番重い。頭の方はグラグラするのでそちらも注意☞何があっても手を離してはならない緊張感のある瞬間だ。
 
10.車椅子に移乗した祖母の体の角度や位置をバスタオルを駆使しながら微調整する。
 
11.尿の袋を車椅子に引っかける。
 
12.酸素吸入の機械を固定機から携帯用酸素ボンベに移し替える☞命に関わるので確実に。
 
13.車椅子を押す人は、酸素ボンベや尿の管に気をつけながら移動する。
 
ここまで来てようやく移動できる状態になる。しかし、自宅はバリアフリーとは無縁で段差もあるし、通路も狭い。車椅子にとっては障害だらけだ。施設に行く際は、玄関にレンタルのスロープを敷いている。
 
 
 
正直なところ、私が一人でできない工程は7〜10の【移乗】だけだ。他は施設の方がやっているのを見て覚えたし、介護に関する動画を見てイメージトレーニングもしている。父と母は複雑な機械や車椅子の操作に慣れていないので任せられない。
 
 
私は力があるほうなので、50kgという体重にはさほど不安はない。ただし、祖母の左足が棒のようになってしまっていて痛がるので、一人で抱える自信がないのだ。移乗の際も移動の際も左脚に注意を払っている。一人での移乗を試したらできるかもしれないけれど、祖母の体に負担をかけるわけにもいかないし、私が誤って落とすなんていう失敗も許されることではない。
 
 
本当は私が一人で移乗さえできれば、祖母の世界をもう少し広げてあげられるかもしれない。独りよがりに聞こえるかもしれないけれど、祖母が夜、精神的に辛くなるのをどうやったら緩和できるか、試行錯誤の日々である。
 
 
 
*祖母のメンタルケアについて
精神科や心療内科を受診するのがいいのかもしれないが、90歳で耳が聞こえず筆談が必須。下肢切断のため移動は車椅子。車椅子も乗っていると、下に下に落ちてきてしまう。さらに長時間、車椅子に座っていると血圧が下がってきてしまう可能性もある。
そして、何より祖母本人が病院に行くことを望まない。医師や看護師にも相談した。今は様子を見よう、家族で見守ろうという段階。
 
 
写真:祖母の顔の比較。
☞左が2023年9月、右が2024年2月
最近顔がふっくらしてきた。いいことだ。
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