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酒の肴を独断偏見でエブリデー更新。関西3県境の北摂(兵庫東北部、大阪北端、京都南部)に生息※敬称は略。

名将か反戦監督か?栽監督の死

2007-05-09 | 日記

「優勝旗を手に入れるまでは 戦後が終わらないんですよー」
独特の沖縄のイントネーションが心に残る。
太い、二重で鋭く光る眼、毛深い手足、本当に濃い顔の栽弘義監督。
典型的な「沖縄の人」だった。

90年夏、沖縄県勢が初めて天理戦で、甲子園決勝にコマを進めた。
結果的には0-1の僅少差の惜敗。

だが、徹底したバントで190㌢巨漢右腕の天理・南竜次投手(元日本ハム)を苦しめた。
大旗まで1点が遠かった。

栽監督にとって 甲子園の大旗は単に野球だけのものではなかった。
準優勝ではいけなかったのだ。

沖縄を誇りにする強烈な執念が、思い入れが、美談だけに終わらなかったのは、栽監督が大旗を手に入れるために全てを犠牲にすることだった。
それは自らへの戒めとともにナインにも強いた。
練習は苛烈を極めた。
甲子園に来てもエースたちを酷使した。
そこには「沖縄のために」の精神が栽監督の心中に強烈にしみこんでいて、球児の将来まで思いが及ばなかったのではないか。

天理との決勝戦(エース神谷)でも、2年連続決勝戦にコマを進めた大阪桐蔭戦(エース大野)でも悲願の優勝ために連投に連投をエースに科した。
大野倫(元巨人)は右ひじを疲労骨折までしていた。
のちに甲子園で肩やひじの検査が義務付けられるきっかけにもなった。

栽監督に選手を預けると壊してしまう、そんな噂まで流された。
沖縄を2年連続準優勝に導き、全国レベルに引き上げた功績はさん然と輝く。

だが、晩年には選手の進学(娘婿が九州共立大関係者)で暗躍。
教え子たちのプロ入りの時に黒い噂(新垣渚のダイエー入りを画策?=オリックス三輪田スカウト自殺の引き金)が流れたのも1度や2度ではなかった。

65歳。
特待生騒動に揺れる高校球界にとって、栽監督の死は、あまりのタイミングではないか。

沖縄高校野球の父とも呼ばれる功、進学ブローカーと呼ばれた罪。

功罪半ばした名物監督が一人去った。

【NEWS引用】沖縄高校野球の父がこの世を去った。強豪・沖縄水産の監督で、夏の甲子園大会で2年連続準優勝した栽弘義(さい・ひろよし)氏が5月8日午前10時37分、沖縄県八重瀬町の南部徳洲会病院で呼吸不全のため死去。享年65。自宅は同県糸満市賀数104。葬儀・告別式は11日午後2時から、那覇市松山1の9の1、大典寺で行われる。喪主は妻・千賀子(ちかこ)。



1 コメント

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ワシが男塾 塾長 江田島 平八である (男塾 大将 剣 桃太郎)
2010-08-13 00:16:31
お前らな
何、言うとうねん
画策だ
黒い噂だ
など
人の不幸を言う

世の中の全てを結果論で
報じる事、自体が
間違っておる!
人の不幸を言う前にな
自分にできる事を
ごみ拾いなど
献血などの
善意をやれ!

ワシが男塾 塾長
である!!!
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