
8月6日、広島原爆記念日の前夜、午後10:00から午後11:00まで、NHK教育テレビ番組・ETV特集「“屍(しかばね)の街”からの叫び~被爆作家 大田洋子と戦後~」を見た。
「人類史上初めて原爆を描いた作家といわれる大田洋子(1903~1963)。近年取り上げられることが少なかった、いわば“忘れられた”作家だ。被爆とその後の自身の体験を、まさにその瞬間に、リアルに描いた数々の作品が今再び注目されている」という。
「原爆に翻弄(ほんろう)された作家、大田洋子は、原爆と向き合うことで、何を感じ何を訴えたかったのか、書き残した作品と関係者の証言を通して、その人生をみつめる」。【朗読】根岸季衣(女優)
作家、太田洋子は、昭和20年1月、東京から広島白島九軒町の長屋に疎開した。そして、その長屋の二階で被爆した。被爆して、避難する40分の間に、京橋川の白い川原の上に、死体がいっぱい横たわっている情景を目にした。悲しく、浅ましい人々の姿。炙ったような、灰色の皮膚がぶら下がる。
太田洋子は、3ヶ月間、野宿生活を余儀なくされる。あたりは、沈黙と静寂、泣き叫ぶこともなく人が死んでいく。「無欲顔貌(むよくがんぼう)」、白痴の顔、8月6日からの特質。悲惨な光景を目にした。
市内から西へ20㎞、廿日市玖島へ帰郷、二階の間借りして、書くことを急ぐ。3ヶ月後の11月に、史上初の作品「屍の街」が完成した。
「被爆の年に書き上げた最初の作品「屍の街」は、被爆後の想像を絶する状況をルポ、「自分も死ぬことを覚悟し」「作家の責任として」書いたという」。
東京目黒文学館に「屍の街」の原稿が残されている。原稿には、文章を削ったり、付け加えたりしたあとが、数多く見受けられる。原爆投下した米国への恨みの文章などから、その後、占領軍の報道規制の影響による“出版差し止め”となった。
昭和21年、原爆による悲惨な場面削除。昭和23年、原稿、「無欲顔貌」の章、米国、GHQへの批判強い。「終わっていた戦争の余韻」日本の軍閥政治への批判。
昭和25年6月、朝鮮戦争勃発。米トルーマン大統領、原爆使用も考慮。日本国内は、特需に湧くが、太田洋子は、他国への原爆投下考慮を、ヒューマニズムから、怒りを感じ、原爆阻止を訴える。
「被爆体験を見つめ続けることの辛さ、戦争が絶えないことへの苛立ち、自らの死への恐怖、そして、『もう原爆はいい』と作品を受け入れようとしない『世間の人々』の目などが、大田を精神的に追い詰める」。
「それでも洋子は、『あの日の記憶』と『その後の被爆者の姿』を見つめ続けた。被爆の記憶にさいなまれ、心の病に陥った自分自身の姿をえがいた『半人間』(昭和29年)、『原爆スラム』の住民の悲惨な暮らしぶりを描いた『夕凪の街と人と』(昭和30年)などを発表し続けた」。
太田洋子は、昭和31年、エッセイで、「広島の記憶を捨てたい」と書き、原水爆禁止運動からも離れ、山の中、海岸に身を隠す。そうして、福島県猪苗代町の温泉に入浴中、心臓麻痺で死亡、被爆から18年目60歳だった。
テニヤン島生まれの人物を主人公にした作品を構想、再び、原水爆と向き合う矢先の死であったという。「スザマジイことが何故起きるのか」、世間に、まだ、十分伝わらなかったからか・・・。
太田洋子の作品は、読んでいると思うが、内容について、全く記憶していない。被爆直後の光景は、当時目撃していなくても、周りからの多くの伝聞、廃墟の姿から、脳裏に焼き付けられている。被爆から数年間、私たちの周りには、多くの太田洋子がいた。
被爆、敗戦、戦後復興、高度経済成長と、広島の街は、次々と衣を脱ぎ捨て、変化していき、被爆の記憶も風化しつつある。毎年、原爆記念日になると、「核兵器廃絶」が宣言されるが、世界唯一つの被爆体験国と原爆投下国アメリカの核兵器の笠の下での平和国家というジレンマからは、抜け出せないでいる。
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