おもろの島々

沖縄諸島の歴史 生活文化 自然 祭り 伝統工芸や音楽などを見聞します.

琉球漆器 その3

2011-08-07 | 沖縄の工芸
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像; 琉球漆器 )
琉球漆器
【 沖縄の工芸 】
『 琉球漆器 その3 』を見聞しましょう。

〓 琉球漆器工芸の歩みは次の時代区分で考察される 〓
(1)13代国王;尚 寧(1589~1620年)までの時代
(2)薩摩藩の琉球侵攻(1609年)以降の時代
(3)廃藩置県施行(1879年)以降の時代(琉球王府解体以降)
(4)第二次世界大戦の終戦(1945年)以降の時代
(5)本土復帰(1972年)以降の時代

★ 前編に続き「 社会的背景と漆技法の歩み 」を時代区分でみる
◇ 第二次世界大戦の終戦(1945年)以降の時代
・ 社会的背景
第二次世界大戦(1941~45年)は沖縄に過大な戦災をもたらした。
大戦末期の1945年3月末から、アメリカ軍は沖縄本島周辺離島を制圧し、引き続き本島各地に上陸を開始した。
日本本土防衛の前線地として沖縄に配備されてた日本軍との間で棲さましい地上戦が繰り広げられた。
軍事能力で格段に劣る日本軍は力尽きて陥落した。 ( 同年6月23日 )
両軍最高指揮官が戦死するなど第二次大戦における最激戦地とされる。
この沖縄戦は多くの民間人を巻き込んでの地上戦であった。

地形が変わるほどの激しい艦砲射撃・空爆戦が行われた沖縄本島、とりわけ中南部地域は殆んどの住宅や田畑が焦土と化し、多くの家族・知人・友人が戦禍に巻き込まれて亡くなった。
辛うじて命拾いした住民達は焼野が原の中で打ちひしがれて憔悴しきった状態におかれた。

敗戦からの沖縄は米軍政統治下におかれた。
日本の敗戦(1945年)に伴い沖縄県庁は解体され、1972年5月の本土復帰に至るまでの27年間をアメリカ軍政の下に統治された。

米軍政統治下の間も無くに1949年の中華人民共和国誕生や1950年の朝鮮戦争勃発に伴って米軍基地建設の拡張が急速化した。
特に1965年から激化して1975年まで続いたベトナム戦争の後方基地とされてからは駐留米軍人・軍属が飛躍的に増加した。

戦渦に因る人・物資の混乱で殆どの産業が消滅状態になった。
漆器産業も漏れなく消滅してしまった。
人々は生活の糧を得るべく右往左往の時が流れた。
2年後の1947年(昭和21)になって、辛うじて戦禍を免れた漆器関係者が漆器工房を開設して製作に取り組むようになった。

・ 漆技法の特徴
漆器工房を再建して生産に取り組んだ商品が、はからずも米軍人軍属の土産品として好評となった。
嗜好を反映して、漆器スタイルはコーヒーカップ、サイドテーブル、オードブル皿、チェスなど洋風イメージの製品が主力となって行った。
塗り色も東洋的で神秘的な黒系が多くなった。
カラフルで描写的なハイビスカスの花図柄の堆錦や黒漆螺鈿のネームプレートも多く製作されるようになった。

米軍政統治下に於ける沖縄経済の市場通貨
当初は日本円と米軍票B円が用いられた。
1948~58年まではB円が唯一の通貨となった。
1958年以降、本土復帰までは米ドルが使われた。

◇ 本土復帰(1972年)以降の時代
・ 社会的背景
1969年(昭和44)の佐藤・ニクソン首脳会談で「 沖縄返還 」を約束。
1971年(昭和46)に「 沖縄返還協定 」が締結された。
1972年(昭和47)5月15日に沖縄は「 本土復帰 」した。

長期にわたり米軍政統治下で営まれた沖縄経済は本土大手資本の誘致を図る事が困難であった。
また、大規模製造業などの地場産業が育つ要因も乏しかった。
米軍基地に依存した小規模な産業や観光産業で賄う経済体質であった。

沖縄県の本土復帰記念事業として開催された「 沖縄国際海洋博覧会 」(1975 ~ 76年)は沖縄経済に大きなインパクトをもたらした。
主要幹線道路整備や大規模宿泊施設の整備拡充が展開された。
博覧会施設跡は 海洋博公園 として観光目玉スポットになっている。

国が取り組んだ「 総合保養地域整備法 」(リゾート法:1987年制定)をも沖縄経済に多大な効果をもたらした。
この法は「 民間事業者の活用に重点をおいて多様な余暇活動が楽しめる場を総合的に整備する 」を目指す内容である。

国内唯一の亜熱帯性気候にあって「 海洋リゾート 」の最適地として推奨される沖縄には大型リゾート施設の建立が押し寄せた。
また、公的社会資本の整備拡充も随時展開された。
世界有数のサンゴ礁を有する海洋に恵まれた沖縄県にとっては千載一遇の施策である。

現在でも沖縄の入域観光客数は漸増する足どりを辿っている。
地元農産物や文化工芸品などが観光土産品として需要増大している。

・ 漆技法の特徴
観光需要が高まるに伴い、文様もデイゴ(県花)やハイビスカスの花図柄となり、量産の利く堆錦技法の加飾が多くなった。

塗り色も神秘的な黒から南国をイメージする鮮明な朱色へと変化した。
生活用品として模様の入らない朱塗りで無地の器も多くなった。

〓 琉球漆器に明るい展望 〓
徳川美術館や根津美術館が主催して「 琉球漆器展 」を開催するようになった。それらの展示会において、それまでは中国製と思われていた数多くの作品が、実は琉球製であった史事の調査検証が報告された。
琉球漆器の歴史が見直され国際的な評価を得るよ うになった。

首里城 復元(1992年)に於いて施された漆塗りの技術力は漆芸の極みであるとも云われる。
近年では若い技術者の間に本格的な漆工芸品の製作を望む声が強まり、琉球王朝時代の各種古典技法が復活する兆しがみられる。
沖縄県は漆器産業の施策展開を推進して尽力を注いでいる。
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琉球漆器 その2

2011-07-28 | 沖縄の工芸
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像; 琉球漆器 )
琉球漆器
【 沖縄の工芸 】
『 琉球漆器 その2 』を見聞しましょう。

〓 琉球漆器工芸の歩みは次の時代区分で考察される 〓
(1)13代国王;尚 寧(1589~1620年)までの時代
(2)薩摩藩の琉球侵攻(1609年)以降の時代
(3)廃藩置県施行(1879年)以降の時代(琉球王府解体以降)
(4)第二次世界大戦の終戦(1945年)以降の時代
(5)本土復帰(1972年)以降の時代

★ 前編に続き「 社会的背景と漆技法の歩み 」を時代区分でみる
◇ 廃藩置県施行(1879年)以降の時代
・ 社会的背景
1879年(明治12)、明治政府は『 琉球王国 』を解体し『 沖縄県 』とした。
これにて、450年余もの長きにわたり続いた王朝統治が崩壊した。

琉球王国は1429年に創設され、海外交易から得る豊かな財源を基に安寧な治世を築いていた。
1609年に薩摩藩と江戸幕府の共謀軍によって侵攻され占拠された。
以後、明治政府の廃藩置県施策に伴う「 沖縄県設置 」までの約270年間を薩摩藩の支配下に置かれた。
薩摩藩の占拠以降は独立国家ではなくなり、体面上の「 琉球王国 」として王統治世を続けることになる。

王国の外交権は剥奪され、諸策の施行には薩摩藩の指図を受けた。
当時の江戸幕府は中国皇帝から交易を断絶された状態にあった。 
また、薩摩藩も財政的困窮状態にあった。
その打開策として琉球王国の対中国交易に狙いを定めた収益奪取策の図りであった。

統治体制の変化は生活領域に様々な混乱を招いた。
漆器製作分野に於いては、王府の庇護を受けて維持されてきた製作工房が民営化される事になった。

漆器市場では幕府や中国への献上品などの公的需要がなくなり、民営指向の利益優先になった。

漆器業に着目した鹿児島や大阪の商人達が問屋として流通に係わる事になって、辛うじて漆器業の継続が図られる状態になった。

・ 漆技法の特徴
漆器のデザイン・スタイルに変化が生まれた。
王府時代にあった中国的な図柄は姿を失せた。
生活用品趣向が重んじられるようになり、松竹梅・鶴亀など和風調や沖縄風物的文様が多くなった。
なかんづく、鮮やかな朱色と堆錦文様を施した商品類は強くて丈夫な琉球漆器として人気があった。

〓 第一次大戦と漆器業界 〓
漆器工房の民営化施策があって間も無くに第一次大戦(1914~18年)が勃発した。
社会情勢の悪化に伴う貧荷的波及は漆器業界も過分に被った。
沖縄においても戦時統制が強まった。
漆器業界は統合を余儀なくされ、徐々に戦時体制化へと組み込まれて混乱状態に陥った。
青息吐息を続けながらの業界維持を果たす日々であった。

☆ 沖縄県が「 工業指導所 」を開設
第一次大戦終結後の不況から立ち直れない県経済を振興する為、沖縄県は 工業指導所 を開設して輸出漆器の開発研究・指導に力を入れた。
漆器業関係者は技法の修練に精力をそそいだ。

製品スタイルは、カップ、皿、文房具類や盆類など生活用品的要素を採り入れた品が多くなった。
主な輸出先は、北米、南米、英国、支那・満州、香港、インド、オランダなどの国々であった。 次回に続く・・・
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琉球漆器 その1

2011-06-26 | 沖縄の工芸
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像; 琉球漆器 )
琉球漆器
【 沖縄の工芸 】
『 琉球漆器 』を見聞しましょう。

〓 琉球漆器の伝来 〓
漆技術が中国から琉球へ伝わったのは15世紀とされる。
琉球王国時代は中国、日本、朝鮮、タイなど東南アジア諸国との海外交易が盛んであった。
王府には交易に係わる賓客や使節団などが度々訪れるようになった。
なかでも、中国の冊封使を歓待する儀典は重要な政治的課題であった。
来訪者歓待用に装飾品や配膳器などを整える必要があった。
王府は漆技術習得のため中国へ人材派遣するなどして育成に努めた。
やがては琉球国の技法が中国製品に追い着き追い越す関係となって
王府の厳しい管理のもとに造られる製品は世界で通用する国際商品にまで成長した。
そして海外交易の輸出品目で重要な位置を占めるようになった。
☆ 琉球漆器の特徴
装飾技法に堆錦 沈金 螺鈿 箔絵 蒔絵などの技法を用いている。
料理用の器は螺鈿や堆錦などの細工で豪華な装飾が施される。

〓 琉球漆器工芸の歩みは次の時代区分で考察される 〓
(1)13代国王;尚 寧(1589~1620年)までの時代
(2)薩摩藩の琉球侵攻(1609年)以降の時代
(3)廃藩置県施行(1879年)以降の時代(琉球王府解体以降)
(4)第二次世界大戦の終戦(1945年)以降の時代
(5)本土復帰(1972年)以降の時代

★ 社会的背景と漆技法の歩み
◇ 13代国王;尚 寧までの時代
・ 社会的背景
琉球王国は1429年に創設され25代の国王を経て1879年までの約450年間存続した。 なかんずく、初代国王;尚 巴志(1429年即位)から12代国王;尚 永(1573~1588年)までの約160年間が隆盛期であったと伝わる。
王府は海外交易から莫大な財益を生む事に成功して経済的・政治的に安定した国体維持を図り続けた。中国へは冊封史や進貢船、江戸幕府には慶賀使や謝恩使を派遣するなどして王国の安寧を保った。

・ 漆技法の特徴
中国から学んだ漆技術に独自の研鑽技法を付加して芸術性の高い繊細な作品に仕上げられ自国産品と称されるまでに工芸技術を高めた。
※ 加飾技法は朱塗に沈金を用い、花鳥図文様が多かった。
沈金技法では一つの頂点に達したと云われる。
また、朱漆の螺鈿技法も使用された。

◇ 薩摩藩の琉球侵攻以降の時代
・ 社会的背景
13代国王;尚 寧(1589~1620年)の代になって薩摩藩と江戸幕府の共謀軍に琉球王国は侵攻され占拠された。(1609年)
以後、明治政府の廃藩置県施策に伴う「 沖縄県設置 」までの約270年間は薩摩藩の支配下に置かれた。
琉球王国は独立国家ではなくなり、体面上の「 琉球王国 」として王統治世を続けることになる。
外交権は剥奪され、交易や諸策の施行は薩摩藩の指図を受けた。
当時の江戸幕府は中国皇帝から交易を断絶された状態にあった。 
また、薩摩藩も財政的困窮状態にあった。
その打開策として琉球王国の対中国貿易に狙いを定めて占拠し交易収益の奪取策を執った。

・ 漆技法の特徴
薩摩藩は「 高度な漆技術 」に着目して更なる技術強化策を図った。
絵師や貝摺師を中国に派遣して、デザインや製朱法、煮螺法など中国の進んだ技法を積極的に採り入れさせた。
現代琉球漆器の主流である堆錦技法も当時代に考案された。
※ 加飾技法は黒塗で山水図や宗教的な絵文様が多くなって、より中国的な要素が強調されるようになった。

〓 銘柄確立と国際的評価 〓
☆ 琉球製の銘柄確立
技工士達の技術研鑽の成果は諸外国から「 琉球製漆商品 」として認められるまでになった。
「 琉球製の銘 」を刻んだ商品として輸出品目の重要な位置を占めるようになった。
琉球製漆器は海外交易を通して重宝な進貢品・献上品の役割を担った。
中国皇帝への進貢品や日本の将軍家への献上品としても盛んに利用されるなど琉球王国を代表する美術工芸品となった。

☆ 琉球漆器の国際的評価
薩摩藩は自藩の対中国交易の権威誇示を狙い 「 漆製品から琉球製の銘を消去するなど中国製を装った形にして 」幕府や将軍家への慶賀・謝恩の贈品として献上した。
それまでは中国製品と思われていた数多くの作品類が琉球製であった史実が判明されて、琉球漆器の歴史が見直され国際的に再評価された。
この史実は徳川美術館・根津美術館主催の『 琉球漆器展;1978年開催 』で公開された。 次回に続く・・・
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沖縄空手

2011-06-13 | 沖縄の文化
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像; 沖縄空手 )
沖縄空手
【 沖縄の文化 】
『 沖縄空手 』を見聞しましょう。

沖縄空手普及の契機
沖縄古来の武術「 (ティ) 」と中国伝来の「 拳法 」が融合して体系化されたのが沖縄空手の原型とされる。

沖縄に空手がひろまった契機は 琉球王国/尚 真王 の『 刀狩政策 』 と 薩摩藩が琉球侵攻(1609年)後に執った『 禁武政策 』(1613年)に拠ると伝わる。 琉球王府の武将達は武器を持たずに護身をはかる技として空手術を身につけた。

◎ 長期体制が続いた琉球王国
各地の豪族達が群雄割拠にあった沖縄本島を尚 巴志が平定した。
尚 巴志(しょうはっし)は統一琉球王国を創設して王朝体制を敷設した。
そして自らが琉球王國の初代国王に就任した。(1429年即位)
以後、25代目国王:尚 泰(しょうたい/1848~1879年)までの約450年間もの長期にわたって琉球王国が続いた。(明治12年終焉)

☆ 尚 真王が築いた全島統一の中央集権国家
それまでは沖縄本島統一のみに止まっていた国家体制であった。
9代目国王:尚 真(しょうしん/1477~1526年)によって、沖縄本島周辺離島及び宮古・八重山諸島までの平定を成し遂げて、全島を統治する完全な中央集権国家体制を敷設した。

◇ 尚 真王の執った「 刀狩施策
即位まもなく「 刀狩施策 」を執行した。「 武器禁止令 」とも称される。
全島から武器類を取り上げて王府に集め管理し、有事の際にはその多量の武器類の使用をもって護国を図ることを目的としていた。
実情は全島平定を遂げるも未だ各地には対抗に燃える豪族達の残党があり、それらの戦意を削ぐため及び国内から己に反逆者を出さないために執った施策であったとも伝わる。

◎ 王府士族の空手修練
王府は武術に秀でた者を招聘して空手術の研鑽に勤しませた。
士族武将達にも漏れなく空手術の習得を推奨した。
王府庇護のもとで基本体系(首里手)が確立されたと伝わる。

☆ 薩摩藩による琉球王国占拠
13代目国王;尚 寧(しょうねい/1589~1620年)の代になって琉球王国は薩摩藩と江戸幕府の共謀軍に侵攻・占拠された。 (1609年)
以後、明治政府の廃藩置県施行に伴う「 沖縄県設置 」までの約270年間を薩摩藩の支配下に置かれた。

◇ 薩摩藩の執った「 禁武政策
薩摩藩は反乱からの防御を図る意図で王族士族の武器保持を禁止する「 禁武政策 」を施行した。

王府の刀狩施策 と 薩摩藩の禁武政策 が合致して、その後の空手普及に拍車をかけたとも伝わる。

沖縄空手の体系的基盤
☆ 沖縄空手の原型
古来から琉球各地には武術者が修練を積んだ 古武術 が存在した。
時代変遷を経て研鑽が積まれ個別的特長を持った武術として進化した。
なかんずく武術が盛んであった首里、那覇、泊の三地域では地名を冠して首里手那覇手泊手 と称する地域的武術が体系的に形成された。
古武術では術のことを「 (ティ) 」と呼称した。
以後においても首里手、那覇手、泊手は沖縄空手の原型とされる。

◇ 三地域の特徴
その昔から首里、那覇、泊は沖縄本島の中心街地であり個別の村を形成するも連坦域であった。
琉球王朝時代には何れの村も中国との冊封史や進貢船また江戸幕府との慶賀使や謝恩使が往来する賑わいの地域であった。
数ヶ月に及ぶ旅程のなかでの人員的交流も盛んで、旅団に随行している武術家と村の武術家との交流もあったと伝わる。
・ 首里村
長期に亘り琉球王国の王府が置かれていた。
海外交易に伴う多数の賓客が訪れて歓待儀典が頻繁であった。
※ 首里手は琉球王府の士族武将達に嗜まれていた。
・ 那覇村
那覇港は海外交易港であった。
とりわけ中国交易に係わる人員往来で賑わっていた。
※ 那覇手は中国南派少林拳の影響を強く受けているとされる。
・ 泊村
泊港には海外交易船乗務員の宿舎があった。
泊の人々は外国人との交流が盛んであったと伝わる。
※ 泊手は首里手と那覇手の折衷で組み立てられたとされる。

沖縄の武術家は中国武術家との交流を得て多くの術を体得した。
中国大陸に渡って武術の習得に精錬した者も多くある。
それを伝来の古武術に採り入れてオリジナリティな術を創造した。

☆ 沖縄武術の呼称変遷
(ティ) ⇒ 唐手空手 と呼名が変わってきた。
その時期・事由については諸説あって定かでない。
「 空手 」の呼称が用いられたのが明治38年頃との説がある。

沖縄空手の歩み
琉球王国時代には流派と称される形態は存在しなかった。
空手が盛んな地域の地名を冠して区分呼称していた。
その代表例が首里手、那覇手、泊手の呼び方である。
琉球王国崩壊(明治12)から時を経て空手活動に勤しむ者が多くなった。

☆ 沖縄空手の流派
空手界では沖縄空手の原型である首里手、那覇手、泊手を基にして
更なる術の研鑽に精進する活動家達の広がりがあった。
然る後、各手のなかから武術性・理論性に秀でた空手家が出現した。 
首里手⇒松村宗棍 那覇手⇒東恩納寛量 泊手⇒松茂良興作である。
3氏は近代沖縄空手の礎を体系的に創造した「 中興の祖 」とされる。

◇ 流派の派生
松村、東恩納、松茂良の3氏をそれぞれに祖として鍛錬に励む門下生が数多く誕生した。 その中からは体得した術に独自性を加えて新流派を打ち立てる者も出現した。
首里手の流儀を汲む小林流、那覇手の流儀を汲む剛柔流、泊手の流儀を汲む松林流に代表される。
上地流 開祖の上地寛文のように自ら中国福建省に渡って17年間も武術を学んで帰り中国南派少林拳が源流となる流派を興した武術家もある。

大正期には「 流派 」の設立がまだ胎動期であったと伝わる。
昭和期になって流派の細分化が顕著となり、現在では60以上の流・会派を数えるまでになっている。

沖縄空手の特長
☆ 沖縄空手は「 型 」の修練
伝来の沖縄空手は『 型に始まり型に終わる 』と評された。
精錬され磨き澄まされた「 型 」には 一撃必殺の強烈な攻撃と万全の防御が内包されているとされる。
「 型 」は各流派独自に体系化され攻撃や暴力に対して心・技・体を調えた武術道が完璧なまでに収歛されているとされる。
それ故に修行の命題は「 型 」を習得し鍛錬する事にあった。

☆ 「 型と組手 」の修練へ変化
「 型 」のみの修行形態が時代の波を受けて変化してきた。
武闘を指向する人達には「 型 」の鍛錬だけでは物足りなくなってきた。
新たに「 組手 」を創造して「 型 」と合わせた体形を構築した。
現代では「 型と組手 」を合わせた修行形態を採るのが一般的である。

沖縄空手の広がり
◎ 学校教育で空手教練を採用
明治後期(1908年)から学校体育の現場に採りいれたことに因って子供達や一般市民も手軽な武術として履修するようになったと伝わる。
◎ 国内外での修練所設立が広範囲
近年では海外での普及度の伸びが顕著である。
なかんづく沖縄駐留米軍隊員やご家族の多くが熱心に習得して移動後の外地でサークル的に修練活動されている。

武術道としての独自性、合理性、理論性を遺憾なく兼ね添えた沖縄空手が世界の人々に支持され愛されて耀き続ける事は確かである。
素晴らしき文化を醸成した故郷を誇る!
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沖縄音楽の心

2011-05-21 | 沖縄の文化
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像;オキナワン・ロック )
オキナワン・ロック
【 沖縄の文化 】
『 沖縄音楽の心 』を見聞しましょう。

〓 沖縄音楽の根源 〓
★ 祭祀歌謡
沖縄音楽の基本思想は祭祀歌謡に源を成すと云われる。
人々は五穀豊穣、無病息災、航海安全の懇願を神へ祈り崇めた。
また、生活の喜怒哀楽を神へ告げることでご加護を乞うた。
祭祀では神女が御嶽や拝所の庭で声楽的抑揚を付しながら感謝と祈願の詞を興じた。その時々の音楽的調べが集約され修練されて継承された。
それらが 地唄 と呼ばれて伝承されている。
琉歌
生活の喜怒哀楽を八・八・八・六形式で詠む歌謡。 和歌に似ている。
庶民の中には琉歌詠みに優れた才を発揚する者がいた。

★ 宮廷音楽
琉球王国時代は海外交易が盛んであった。
王府には交易に係わる賓客や使節団などが度々訪れるようになった。
王府は来訪者を歓待する用に音楽・舞踊などの創作活動を推奨した。
王府周辺に音楽、舞踊の創作者や役者を居住させて活動に専念させた。
その活動で宮廷音楽の基本形態が修練され数多くのオリジナル作品が生まれた。

宮廷音楽のあらまし
代表例 : 御座楽 と 路次楽 の概説
使節団や謝恩使を壮行する時に奏でられた。
室内で座って合奏するスタイルの御座楽と屋外で行列して歩きながら合奏するスタイルの路次楽があった。
御座楽は荘重・優雅な雅楽、路次楽はチャルメラや太鼓などを用いた荘厳な鼓吹楽である。
・ 演奏スタイルの特徴
基本的には唄と三線の絃声一体で奏でる弾き語りの音楽である。
なかには筝、笛、胡弓、太鼓等を添えて音色の和を構成した演目もある。
・ 音階
基本的に5音(ドミファソシ)で構成される。
それを通称 琉球音階 と称している。
三線楽譜は『工工四:クンクンシ』と称される記譜法を用いる。
記譜は基本的に音程表示ではなく、弦の押さえ処を記号表示している。

宮廷音楽 と 地唄・琉歌
宮廷音楽には村々で興じられていた地唄や琉歌が採用された。
それらを音楽形式的に磨いた演目が多くある。
宮廷音楽の旋律はサンパチロク(八八八六)・三十音の歌形式、音階は5音スタイルで修練され、三線楽器の音色を付けて囃されるようになったと伝わる。

★ 沖縄音楽は伝統的に癒し感の響きあり
沖縄音楽の基本形は宮廷の音楽活動に拠って創造された。
宮廷で修練された旋律・音階は後にても沖縄音楽の基盤となっている。
その響きには五穀豊穣、無病息災、航海安全を祈願する心底からの語りが聴く者に伝わる。
二次大戦の戦渦で街や野山が焦土と化して打ちひしがれてた心に癒しの響きを注いでくれたのが三線の音に揺られる民謡の数々であった。

〓 現代沖縄音楽とベトナム戦争 〓
1965年から激化して1975年まで続いたベトナム戦争は沖縄の音楽活動に少なからぬ影響を及ぼした。
米軍統治下にあって極東最大の米軍基地が張り付いた沖縄である。
その基地全体がベトナム戦争の後方基地化していた。
特に、コザ市(現:沖縄市)と周辺地域は基地中枢機能が集積している。
コザの街は米軍人・軍属や諸外国から商いで訪れる人々が通りを闊歩する姿に溢れていた。
街影は夜明けまで色とりどりのネオンライトが賑やかに塗しジューク・ボックスやライブ・バンドが轟き続ける日常でした。
米本国から送られてくる多くの兵士達は、直近に下される軍命令に従って沖縄から直で激戦地に入り生死を彷徨う任務を負うていた。
彼等の荒む心に束の間の癒しが酒と音楽と女であった。
兵士達は米本国で流行中のミュージック、ドリンク、ファッションを沖縄に持ち込んだ。

★ オキナワン・ロック
沖縄駐留の米軍を慰問すべく本国から人気バンドが度々来沖した。
当時の米国音楽界ではハードロックミュージックが流行の主役であった。
来沖するエンターテイナーもハードロック系が多かった。
多くの沖縄の若者達はそれらの人気バンドに敏感な反応を示した。
若者達の間ではバンドを結成して処々で演奏する機会が多くなった。
なかには米兵を相手にしたハードロックやR&Bを演奏して彼等の欲求に答える者もあった。
セッションの場は何時にでも戦場に投入される緊張感を内包した若い米兵達の心が吐けるスポットである。
激しい息吹の渦が湧き起こる夜な夜なであった。

当時を代表するオキナワン・ロックバンド
ハードロックバンド 【 】がある。
コザに住む若者達が結成したロックバンドである。
その奏法は将にハードであり米兵達から絶大な人気を博した。
米本国や東京のミュージックチャートで話題になった。
メンバーは『 団塊世代 』である。
暫らくお休み状態であったが最近から再稼動している。
その他の人気グループに 『 コンディション・グリーン 』がある。
当時の世相の中から醸成された個性的なロックサウンドをオキナワン・ロックと称している。
彼等は1970年代の沖縄の若者達の雄叫びを発揚していた。
コザ暴動
1969年、日米両国は「 沖縄の72年返還 」に合意した。
1970年、コザ市で米軍車両及び施設に対する焼き討ち事件が発生した。
該事件の契機は米軍人が県民を撥ねた交通事故に対する怒りであった。
米軍統治下での圧政、人権侵害に対する不満の爆発でもあった。
コザの若者達が鬱積していた感情を吐き出したのである。
なかんずく音楽活動に係わる若者達が自発的行動を起こしたのである。
若者達は米軍兵士達とフレンドリーなリレーションを形成しつも政治的統治に対しては不快感を呈した。
この事件は当時の「 祖国復帰運動の前進 」に大きな弾みをつけた。

〓 沖縄が輩出する若きミュージッシャン達 〓
二次大戦の戦渦・米軍統治下・ベトナム戦争後方基地化・祖国復帰と時代の変遷に遭遇しつも沖縄は『 音楽アーティスト 』を次々と輩出している。
代表的なアーティストとして
ディアマンテス、オレンジレンジ、ビギン、夏川りみ などなど。
沖縄マインドを磨りこんだサウンドを奏でることで全国へ世界へとメッセージを送り続けている。

個々に手にする楽器や語るテンポは違えども沖縄リズムに滲みる温故知新の心は聴く人々の鼓動を揺らす。
祭祀歌謡に源を成す沖縄音楽はブル-ス、ジャズ、ロック、レゲエ、ラテンなどのテイストを摂りこんで時空を超えた響きを放し続けている。

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