おもろの島々

沖縄諸島の歴史 生活文化 自然 祭り 伝統工芸や音楽などを見聞します.

注目動画から2011年を振り返る

2011-12-26 | 2011年
年の瀬も押し迫ってまいりました。
2011年は大地震と原発事故の発災に襲われて右往左往の連続に追われる年でした。
被災に遭われた多くの方々は、今も直の苦しみに悩む深刻な生活状態にあります。 心中よりお見舞い申し上げます。
自然科学等の営みで≪想定外≫の言い訳は受け入れたくない心境です。
暗い出来事に覆われた日々にも幾ばくかの光明が照らす時もありました。サッカー女子ワールド カップ2011での≪なでしこジャパンの優勝≫は落胆の境地にあった人々へ此の上もない励みを与えてくれました。
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沖縄の焼物 その4

2011-12-22 | 沖縄の工芸
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像; 壺屋焼/枝梅竹文赤絵碗 )
壺屋焼
【 沖縄の工芸 】
『 沖縄の焼物 その4 』を見聞しましょう。

琉球王国崩壊後の沖縄陶窯業界は自由市場の波にさらされて危機状態に陥るも本土の著名民芸運動家達からの技術指導及び市場開拓の支えを得ながら復興の道を歩んだ。

〓 第二次世界大戦と沖縄陶窯業界 〓
第二次大戦(1941~45年)は沖縄に甚大な戦禍をもたらした。
日本本土防衛の前線地とされた沖縄は日米軍の間で棲さましい地上戦が繰り拡げられた。 両軍最高指揮官が戦死するほどの激戦であった。
この沖縄戦は多数の民間人戦死者を出した。
沖縄本島や周辺離島では地形が変わるほどの激しい艦砲射撃や空爆撃があった。 とりわけ本島中南部地域は殆どの住宅地や田畑が焦土と化してしまった。又、この地域からは多数の民間人戦死者が出た。

◇ 終戦直後から米軍統治下に置かれた沖縄県
日本の敗戦に因り沖縄県はアメリカ軍の統治下に置かれた。
伴って、沖縄県庁は解体されて琉球政府が創設される。(1952年)
その後の長期をアメリカ軍施政権下の琉球政府時代が続く事になる。
時を経て、1969年に日米首脳会談で≪沖縄返還≫を合意
1971年に日米間で≪沖縄返還協定≫を締結
1972年に沖縄は≪祖国復帰≫して再び沖縄県となった。


◇ 終戦後の沖縄陶窯業界
家族・肉親・知人・友人など多くの命が飛び散ったなか、辛うじて戦禍を免れた幾ばくかの人々は焼野原に佇み打ちひしがれ状態におかれた。
人々は途方に暮れる日々が暫く続くも、生活の糧を得るべく仮住居を構え、廃虚と化した職場の再生に取り組み始めた。

・ 米軍が各地に散らばっていた沖縄陶工達を集めて就労させる
戦時中の壺屋窯場は全て閉鎖されていた。
壺屋地区は不幸中の幸いにも比較的軽微な戦禍を被るに止まっていた。
米軍は終戦と共に各地の収容所から陶工達を解放して壺屋へ送還した。
自らの工房に戻った陶工達は製作活動に取り組み始めた。
米軍の意図は戦禍消失した日用陶器類再生産の処置であったと伝わる。

☆ 朝鮮戦争の勃発
戦禍からの立ち直りに取掛かる最中、朝鮮戦争が勃発した。(1950年)
それに伴って、米軍基地の大規模建設工事が急速に展開された。
そして、多くの米軍人・軍属が沖縄に移動して駐留するようになった。
沖縄の米軍基地も朝鮮戦争の前線基地となっていった。

・ 経済市場の急速的活性化
基地建設と駐留米軍人急増が要因となって人・物資の動きが急速的に活性化を呈した。
米軍は基地建設・管理要員として多種多様な業務に亘る雇用を求めた。
土木・建築・通信従事者、簡易的事務業務、車両係りなどを採用した。
当時の基地業務従事者の月収は東京の平均的サラリーマンよりも高額であったと伝わる程の好条件であった。
皮肉にも米軍基地建設が沖縄の物流市場を一気に活気付けた。

☆ 工芸品の需要が高まる
駐留米軍人が本国へ帰還する際のお土産品に漆器や陶器が好まれた。
戦禍で被った損傷の手当てをしながら細々と再生に取り組んでいた陶窯業界にとって陶器需要の高まりは好機到来であった。

・ 再び他府県業者の参入
沖縄市場での陶器需要の高まりは多くの他府県業者も馳せ参じた。
これまで民芸運動指導者達からの指導を受けて陶窯業界の市場性を学んで来た沖縄の陶工達は、更なる技術の研鑽に邁進してオリジナリ性豊かな陶芸を次々と創出した。
弛まぬ努力の成果が実って壺屋地区周辺には焼物専門店や窯元直営店が立ち並ぶ賑わいをみせた。
展示会などのイベントも開催されるようになった。

陶工達や関係者の汗が結実して、壺屋地区は名実共に沖縄を代表する≪焼物の街≫と称されるようになった。

〓 壺屋窯場 〓
◇ 壺屋窯場に懸案事項
☆ 都市への人口集中化
米軍基地建設の外因的誘導により沖縄本島は雇用需要が高まった。
働き口を求める人々が離島や遠隔地の村々から那覇市に集中した。
物流の中心街である那覇市は住宅建築工事ブームが起きて宅地の拡がりをみせた。当時に日本で最も人口密度の高い市街地となった。
壺屋窯場区域は那覇市街の真中に位置するところから窯場周辺に住宅が張り付き密集するようになった。

・ 公害問題が発生
壺屋焼は≪登り窯≫で焼成する為、燃料には大量の薪炭が使用される。
その薪窯から吐き出される煙が深刻な公害問題となってきた。
那覇市は煙害対策の為に薪窯の使用を禁止してガス窯に転換する旨の行政措置を執行した。
窯場から伝統的な技法が失われていく事態に陶工達は戸惑いの境地に立たされた。
壺屋窯場の煙は戦火で廃墟と化した那覇市が復興への道程を邁進しているシンボルなりと誇らしく語られて来たが寄せ来る時代の要請には応えなければならなかった。
登り窯とは・・
陶磁器等を大量に焼成する為に炉内を各間に仕切り各間に置かれた製品を一定の高温に保って焼成できるよう工夫された窯の形態。
斜面地形を利用して窯を後ろ上がりに設定する。
重力による燃焼炎の対流で製品全体に均等に炎が廻る。
釉薬を使用する場合などには製品の均質化という点で優れている。


☆ 読谷村へ窯場移転
時を同じくして、沖縄本島の中部地域に在する読谷村は基地返還による広大な土地転用策を模索していた。
その対応策として、壺屋窯場の陶工や那覇市に対して窯元誘致の積極的な働きかけを行った。

・ 読谷村が掲げたアプローチ
1)村の周辺には原料となる良質の陶土が豊富にある。
2)織物工芸等が根付いてきた土地柄で文化活動奨励に積極的である。
3)代表的古窯場である喜名窯場跡が在り≪焼物ゆかりの地≫である。

☆ 陶工達の所在
陶工達にはガス窯に転換して壺屋に残る者と薪窯に拘って読谷村へ移転する者があった。
リーダー格であった金城 次郎や新垣 栄三郎を初め多くの陶工達が壺屋の地を離れて読谷村に移転する事とあいなった。(1970年頃から)

移転するに際しては、個々の窯場を構えるのではなくてグループで共同使用する≪登り窯≫を築造して製作にあたる事にした。

・ 読谷やちむんの里 ( 方言:やちむん/焼物 )
やちむんの里開園は読谷村での陶芸村の始まりである。(1972年)
場所;読谷村座喜味(沖縄本島中部地区) MAP→やちむんの里
人里離れて緑林に覆われた丘陵地に建立されてる。
共同使用する9室連房窯や14室連房窯などの登り窯がある。
多くの陶工達が集まり、赤瓦屋根構造の窯場が点在する広い園は沖縄陶器の一大生産地を形成している。今日では≪第二の壺屋焼の故郷≫と呼ばれ、ここで焼成された陶製品を≪読谷壺屋焼≫とも称される。
陶工達が寄って製作に汗している姿が見学に訪れる人々の感心を呼んで、今では観光地ルートの一端を成している。

★ 沖縄の陶芸 ★
魚紋、海老紋、蟹紋などの装飾紋様が主である。
特に魚紋様は生き生きと描かれている。
海に囲まれた沖縄ならではの独創的紋様である。
鮮やかな彩色を用いた装飾を多分に採り入れている。
古陶器のシンプルな色絵が民藝調ながらもモダンな印象を与える。
唐草紋様などの植物紋様がオリエンタル的風潮を感じさせる。
と一般的に評される。

琉球王国→琉球藩→沖縄県→戦禍→琉球政府→沖縄県(現在)と自治体制が変遷した時代の荒波を被りながらも伝統技法を礎にして時の風流に応じ、オリジナリ性豊かな感性を織り込んで歩んできた沖縄陶器である。
外的誘導による幾多もの困難を克服して来た沖縄陶工達の自信と誇りは更なる成長への確信性を抱きながら歩み続けるであろう!
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沖縄の焼物 その3

2011-10-04 | 沖縄の工芸
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像; 壺屋窯場/登り窯 )
壺屋窯場
【 沖縄の工芸 】
『 沖縄の焼物 その3 』を見聞しましょう。

〓 沖縄の古い窯場 〓
12世紀までの土器の時代を経て、14世紀末期から15世紀初めまでは陶器類を海外から多量に輸入した。
中国、日本、朝鮮、タイ、ベトナムなどが主な取り寄せ先であった。
特に中国陶磁器と南蛮焼陶器の輸入量が多かった。

◇ 陶工を志す者が現る
15世紀頃からは南蛮焼を模した陶器を焼成する者があった。
製品の多くは生活用途の酒甕 水甕 壺 などであったとされる。
沖縄で焼物の発祥は15世紀頃と推定されている。

◇ 窯場が各地で築造される
・ 16世紀頃に築造された主な窯場
喜名窯場(現;読谷村喜名)、知花窯場(現;沖縄市知花)、古我地窯場(現;名護市古我地)、作場窯場(現;大宜味村謝名城)など
・ 17世紀頃に築造された主な窯場
湧田窯場(現;那覇市泉崎)、宝口窯場(現;那覇市首里)、壺屋窯場(現;那覇市壺屋)がある。

発掘調査等で確認された窯場跡は約80箇所も存在しているとされる。
うち、壺屋窯場以外は時を経るに諸事情で廃場になっている。

〓 海外交易不振に伴う輸入品の減少 〓
◇ アジア地域の海上交通
琉球王国は中国(明代:1368~1644年)が海禁施策を続けるなか、日本、中国、朝鮮、ベトナム、タイなど東南アジア諸国との海外交易で中心的役割を果たした。
・ 16世紀頃からヨーロッパ諸国がアジア各地に進出
16世紀になって、中国(明)は海禁施策の緩和措置を執った。
中国人に日本を除くアジア諸国との直接交易を認める施策であった。
それを起点に15世紀中頃から海外進出に勢力的であったポルトガルを初めとするヨーロッパ諸国が東南アジア各地に貿易拠点を築き始めた。
間も無くもその拠点を基に中国や日本などとも多角的貿易を営んだ。
・ 海上交通の変遷と琉球王府の海外交易衰退
琉球王国の経済基盤はアジア諸国との交易に依拠してきたが、その航路をヨーロッパ諸国に取って代わられる状態となって大打撃を受けた。
海上交通の世界的変化は琉球王国の海外交易を漸次衰退せしめた。
厳しい情勢に陥るも、冊封関係にあった中国との交易は縮小傾向ながらも命脈を保つ事ができた。
暫らく後には日本が鎖国政策を施行した事を以って再び他国との交易に盛り上がりをみせた。

〓 壺屋焼 〓
◇ 壺屋窯場の草創
・ 海外交易悪化に伴う産業振興策の拠出
16世紀末期からの琉球王国は海外交易の業績が逼迫状況にあった。
伴って、取引商品も激減傾向となり、焼物品の輸入も減少した。
海外交易が厳しさを増すなか、王府は産業振興を図る一端に陶業施策を施行した。
・ 点在する窯場を統合
各地に点在していた主な稼動窯場を一箇所に統合した。(1682年)
知花窯場(現;沖縄市知花)、湧田窯場(現;那覇市泉崎)、宝口窯場(現;那覇市首里)の3窯場を≪那覇市壺屋地区≫に集約した。

懸かるうちに壺屋地区は一大焼物街へと変貌を遂げた。
そこに集まった進取気鋭の陶工達は技術研鑽に邁進して活気づいた。
それが ≪壺屋焼≫の始まりである。
壺屋地区焼物街は琉球王国随一の窯場となった。
壺屋窯場から産出された品を壺屋焼と称する。
壺屋焼は海外交易の輸出品として活用され、又幕府への献上品としても珍重された。
壺屋焼は400年余の歴史を歩んでいる。

◇ 王府の陶工育成策
尚 寧 (1589~1620年)からの歴代国王は陶業振興策を推進した。
・ 主な育成策
1617年
朝鮮人陶工を招聘して朝鮮式製陶法の伝授を図った。
1670年
陶工を中国(清)へ派遣して中国式製陶法を習得させた。
1730年
陶工を薩摩へ派遣して薩摩焼の製陶法を習得させた。

そこで習得した釉薬製法や焼成法は夫々に更なる研鑽を重ねられてオリジナリ性豊かな陶芸を創出した。
その成果は代々の若い陶工達へと伝授された。

壺屋焼は品質的に高められた伝統の製法が集約された産物であると評される。 近年まで 壺屋焼は沖縄陶器の代名詞とも称されてきた。

◇ 壺屋焼の基本技法
焼成法は大別して≪荒焼≫と呼ばれる南蛮焼系を汲むものと≪上焼≫と呼ばれる大陸系の絵付がある。
※ 荒 焼
14~16世紀頃にベトナム方面から伝わった技法が基本を成す。
基調となる黒土と赤土の混ぜ合わせを用い、火度調整で艶出しする。
泥釉・マンガン釉以外の釉薬は使わないで焼成する。
加飾技法と窯変制御に因る炎文様の創造が個性的作風を醸しだす。
1000℃程の熱度で焼かれた素焼き又は焼き締めである。
水甕、味噌甕、酒甕などの大型容器類が多い。
近年は日用食器として小型容器類の焼成も多くなった。
沖縄の街角で見かけるシーサー も荒焼の一種である。
※ 上 焼
17世紀に招聘した朝鮮人陶工から授かった絵付技法が基本を成す。
赤土の上に白土を被せて化粧するのが特徴である。
下絵や赤絵で沖縄独特の紋様を描いている。
施釉、加飾での色鮮やかな絵付や彫刻紋様の施しが変化に富んでいる。
様々な釉薬を用いて、1200℃程の熱度で焼き締める。
碗、皿、鉢、壺、花器などの小型の日用品類が多い。
装飾性に富んで高級感のある品である。

〓 琉球王国崩壊と陶窯業界 〓
◇ 琉球王国の崩壊
1869年:明治2
明治政府は全国的に版籍奉還を執行して藩制度を導入した。
1871年:明治4
明治政府は全国的に廃藩置県制度の施策を執行した。
1872年:明治5
琉球王国の場合は全国に遅れて琉球藩とされた。
1875年:明治8
明治政府は「琉球の王国制度を解体して、日本国に属する沖縄県を設置
する」旨の宣言を発令した。
1879年:明治12
廃藩置県施策に則った沖縄県が設置された。
政治制度が日本の府県制度に則して改められた。
ここにおいて、
1429年に創設され、歴代25人の国王を経て約450年間存続した琉球王国の長い歴史が終焉した。
然るに首里城は王府と王宮の地位から降りることになった。

◇ 王国崩壊後の陶窯業界
他府県との通交が自由になって陶器商人が他所で製作された陶磁器類を持ち込んで販売するようになった。
特に有田焼の安価な商品が大量に流入してきた。
流入される日用雑器類は一般庶民の需要に浸透し拡大して行った。

壺屋焼は王府の庇護を受けながら育成・成長してきた故、押し寄せる自由競争市場の波へ対応できずに衰退の途を辿る事になった。
自由市場活動での身のこなしが未熟であった沖縄陶窯業界は深刻な危機状態に陥った。

☆ 民芸運動家達の援護
沖縄陶窯業の危機状況を見かねて、民芸運動の第一人者であった柳 宗悦、河井 寛次郎、濱田 庄司らが来沖した。
彼らは沖縄の陶工達を指導して技術の研磨向上に精力を注いだ。
壺屋焼に美を追究した民芸陶器の姿を求めて止むことなく探究した。
その成果が芽生えると、
間を置く事なく東京や京阪神などに≪壺屋焼情報≫を発信し続けた。
そのパブリシティ効果が漸次現れて県外の陶器商人等に認知されるようになり、購買行為の広がりに繋がるようになった。
辛うじて需要が漸増する事になり、製造陶工達にも活気が戻ってきた。
壺屋焼が今日あるのは、柳 宗悦を初めとする民芸運動家達の弛まぬ尽力に因るところが多大であると伝わる。

・ 民芸運動家達が観た壺屋焼の評価
壺屋焼は他には無い鮮やかな彩色を用いて眼を惹かせた。
庶民用の雑器類で多分な装飾性を採り入れた陶器は珍しいとされた。

彼等が注目しての高い評価は沖縄の陶工達に自信と誇りを持たせた。
彼等から直伝の指導を授かった沖縄の陶工には、後に人間国宝となった金城 次郎 や 新垣 栄三郎 らがいる。 彼等が中心となって混迷の沖縄陶工界をリードしていった。 次回に続く・・・
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沖縄の焼物 その2

2011-09-16 | 沖縄の工芸
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像; 喜名 焼/耳付水指 )
喜名焼
【 沖縄の工芸 】
『 沖縄の焼物 その2 』を見聞しましょう。

〓 沖縄の焼物文化の沿革 〓
12世紀までの土器の時代を経た後の15世紀頃までは中国、日本、朝鮮をはじめとするタイ、ベトナムなど東南アジア諸国の焼物が輸入された。
それらは甕 壺 碗 皿などを窯で焼成された製品であった。

◇ 15世紀初め頃から焼成を試みる者が現る
14世紀末期から15世紀初めにかけては輸入量が最も多くあった。
輸入品の多くは中国陶磁器であったが南蛮焼製品も少なくなかった。
その頃に南蛮焼の泡盛貯蔵甕が輸入された。
生活用途品自足のために酒器などの焼成を試みる者があった。

◇ 沖縄で古いとされる窯場
沖縄で焼物の発祥は15世紀頃と推定されている。
発掘調査されたうちで最も古い窯場は喜名村(現;読谷村)である。
喜名窯場は16世紀頃の築造と推定される。
甕 壺の類や碗などの日用雑器類が発掘されている。
表面には釉薬が用いられている品が多い。

☆ 他の主だった古窯場
・ 知花村 (現;沖縄市知花) ~ 知花窯場
16世紀頃に築造されたと推定される。
甕 壺 碗などの日用雑器類が多く発掘されている。
表面には釉薬が用いられている品が多い。
形、図柄、釉薬から推定するに南方系の影響を受けていたとされる。
欠片の化学的分析では土や釉薬が喜名焼と類似しているとされる。

・ 湧田村 (現;那覇市泉崎) ~ 湧田窯場
琉球国王:尚 寧 (1589~1620年)は朝鮮人陶工を招聘した。(1617年)
琉球の陶工は朝鮮技法の施釉陶器製作を習得する機会に恵まれた。
それにより陶芸の広まりがもたらされた。

・ 宝口村 (現;那覇市首里) ~ 宝口窯場
琉球国王:尚 貞(1669~1709年)は該窯場の平田 典通(陶工)を中国に派遣して陶芸を学ばせた。(1670年)
帰国後は該窯場の監督官に任じられて製陶の品質向上に貢献した。

◇ 壺屋窯場の草創 (現;那覇市壺屋)
王府は知花、湧田、宝口の窯場を統合して壺屋に移設した。
1682年に施行された統合策は陶業振興策の一環とされる。
以後の壺屋地区は陶器の一大産地として発展した。
近年まで 壺屋焼は沖縄陶器の代名詞となった。

〓 琉球王府の陶業施策 〓
☆ 陶業施策と貢献した名陶工の概説
1617年
薩摩藩で技術指導していた朝鮮人陶工3人を招いて湧田窯場の陶工達に朝鮮式陶法を習得させた。その時に釉薬を使う上焼製法が伝授された。
それが後々にも品質を高めながら壺屋焼の基本技法となって行く。
1670年
平田 典通を中国に派遣して中国式製陶を学ばせた。
当時の琉球では朝鮮人陶工達から伝授された上焼が根付いていた。
ところが、釉薬を製造する知識・技法は未成熟状態にあった。
平田は磁器の釉薬製法を習得するなど中国式製陶を広く習得した。
帰国後の平田の尽力により上焼技法が飛躍的進展をみせた。
1682年
王府は知花、湧田、宝口の3窯場を壺屋に統合する。壺屋焼の始まり。
1724年
仲村渠 致元が石垣島に渡り「 壺屋焼・上焼製法 」を伝授した。
それまでの石垣島は素焼の焼成が殆どであった。
以後は日用雑器類を上焼製法で製作した。 八重山焼の始まり。
1730年
王府の命により仲村渠 致元は薩摩へ赴いて 薩摩焼の製陶法を学ぶ。
帰国後は湧田窯場で精錬する。後には壺屋で築窯する。

平田 典通(ひらた てんつう / 陶工:1641~1722年)
王府の命により中国に渡り中国式製陶を学ぶ。(1670年)
帰国後の平田は宝口窯場の監督官に任じられる。
中国で習得した釉薬製造法は焼物界の技術的基盤を築いたとされる。
首里城正殿の龍頭瓦、天目碗、王冠、衣装の五色玉などを自らが焼成して完成させた。
上焼を日用雑器から工芸品としての品質へ高めたとされる。
琉球の焼物に赤絵や飛び鉋などの多種多様な手法が使われたのは彼の尽力による。

仲村渠 致元(なかんだかり ちげん / 陶工:1696~1754年)
琉球焼中興の祖と称される。
王府の命により石垣島で陶業を広めた。(1724年)
また、薩摩へ赴いて薩摩焼の製陶法を学ぶ。(1730年)
壺屋で築窯して製陶に精錬する。
1752年陶業普及の功績により王府から士籍を与えられた。
薩摩藩の献上品烟盆の火取・灰吹などを製作。

〓 首里城と王府の造瓦施策 〓
☆ 首里城の焼失と再建
首里城は国王と王族が居住する「王宮」であると共に王国統治の行政機関の「本庁」でもあった。
その首里城が数度にわたり焼失し、そのたびに再建されてきた。
1度目は1453年に全焼 内紛に因る 数年後に再建
2度目は1660年に全焼 失火に因る 1671年に再建
3度目は1709年に正殿 南殿、北殿が全焼 失火に因る 1715年に再建
4度目は1945年に全焼 第二次大戦の戦禍 1992年11月に復元(現在)

☆ 王府の造瓦政策施行
王府が行政機構に「 瓦奉行所 」を設置して造瓦体制を敷いたのが16世紀後期からとされる。
既に高麗瓦、明式瓦、大和系瓦などの造瓦技法は持ち得ていたが身近に採取できる素材を用いた製法ではなかった。
長期にわたる試行錯誤の末、琉球の赤土を素材とする琉球瓦(赤瓦)の造瓦を完成させたのが17世紀後期とされる。
琉球王国は1429年に創設されて1879年までの約450年間存続した。
王府の財政基盤は中国、日本、朝鮮、タイなど東南アジア諸国との海外交易から得る莫大な財益であった。
豊かな財源を基に経済的・政治的に安定した治世を続けるなか1609年に薩摩藩と江戸幕府の共謀軍によって侵攻され占拠された。
それから1879年までの約270年間を薩摩藩の支配下に置かれた。
独立国家ではなく 体面上の琉球王国 としての治世を続けることになる。
薩摩藩から搾取される下での王府財政は漸次ジリ貧の道程であった。

☆ 首里城の屋根
首里城が板葺から瓦葺屋根に変わったは1671年の再建からとされる。
その時の屋根葺は高麗瓦(灰色系)を使用したのではとされる。
1715年の再建では 琉球瓦(赤色)が使用されたと推定される。
現存の首里城は1715年様式をモデルにして復元された。
首里城は第二次世界大戦の沖縄戦禍で全焼した。
日本軍は首里城に地下壕を設けて総司令部を置いた。
要塞となった城は米軍の最大攻撃目標にされて猛烈な集中砲火をあびた。
城と周辺の町並みの殆どが焼失して廃墟と化してしまった。
王国時代の財宝、古文書、文化財の殆どが破壊され灰塵に帰した。
貴重な国宝と遺産が地上からその姿をほぼ全て消え失せてしまった。

・ 現在の首里城
第二次大戦で壊滅した首里城の復元作業は1989年から始まった。
遺構の発掘調査や辛うじて残っていた昭和初期の正殿改修図面、写真資料(白黒版)や関係図書の検証、郷土史研究家の書見、古老の記憶などを基にして工芸家や職人を動員して装飾・建築技術の復元作業が進められ、1992年(平成4)に完成させた。
屋根瓦に付いては色彩の記録さえなく所見集約に労を要したとされる。

☆ 造瓦政策は火災防止対策の一環
城の失火全焼・再建が契機となって、火災防止のために造瓦政策を推進したのではなかろうかとされる。
城が瓦葺屋根になったのを堺にして寺や公共施設などは漸次瓦葺屋根へ変わるようになったと伝わる。
琉球瓦の需要は一般市民にも伸びて各地に瓦窯場が築造された。
次回に続く・・・
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〓お知らせ〓
NHK BS時代劇
19世紀 琉球王府の人間模様を描く.
NHK BSプレミアム
テンペスト
毎週日曜 pm6:45 放映

沖縄の焼物 その1

2011-08-20 | 沖縄の工芸
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像; パナリ 焼 )
パナリ焼
【 沖縄の工芸 】
『 沖縄の焼物 その1 』を見聞しましょう。

〓 焼物史の沿革 〓
◇ 沖縄の焼物の概略史を経年的にみる
・ 土器の時代
沖縄で 土器 がつくられたのは、今からおよそ6,600年前であると伝わる。
粘土材を成形した後、枯草や小枝を被せて焼き上げた。
初期の土器の多くは甕(かめ)などの大物だったと伝わる。
作り方では九州地方の影響を受けていたとされる。
以後、12世紀まで土器の時代が続いた。

・ 12世紀に 窯焼き の製品が伝来する
12~15世紀頃には奄美地方(徳之島)で焼かれた カムィ焼 が沖縄でも使われるようになった。 製品は壺 甕 鉢 碗など。
カムィ焼は土で窯を築いて成形品を中につめ、高温で焼いたので土器よりも固くて丈夫であるとされる。

・ 海外から輸入製品が多量に入る
12世紀頃から中国の焼物が輸入されるようになった。
14世紀末期から15世紀初めにかけては輸入量が最も多くあった。
輸入品の多くは中国陶磁器であった。
沖縄各地の遺跡から薄くて固い磁器製品が多数発掘されている。
15世紀には中国や日本のほかに朝鮮、タイ、ベトナムなど東南アジア諸国の焼物が輸入されるようになった。
その時、流入してきた物に 南蛮焼 と呼ばれる焼き締め陶器がある。
それらの輸入製品は大物の甕 壺 碗 皿の多さに特徴があるとされる。

豪族達と海外交易
琉球史上で一定の政治的勢力が出現したのが12世紀後半からとされる。
その勢力、つまり豪族達は各処で大なり小なりに占有領地を構えた。
そして、お互いに領地拡大を意図した対立と興亡を繰り返えした。
ところで、陣地の将兵や民を統括するには地産地消のみでは賄いきれなかった。 その対応策として編み出したのが対中国交易であるとされる。
交易遂行によって蓄財を得る豪族は勢力拡大の進捗が増した。

琉球王国創設以前から豪族達は主に中国との交易を遂行した。
交易に伴って種々の海外情報が流入するようになった。
焼物や塗物など多種多様な工芸品類は代表的である。

琉球王国創設直前の琉球は
群雄割拠が続くなかで沖縄本島が3大勢力に収束されるようになった。
その3大勢力名を北山(北部域統括)中山(中部域統括)南山(南部域統括)と呼ぶ。 琉球史の時代区分で「 三山時代 」と称している。
1322年頃から王国創設(1429年)まで三山時代が続いたとされる。

琉球王国の海外交易
統一琉球王国は1429年に創設されて1879年までの約450年間存続した。
王府は中国、日本、朝鮮、タイなど東南アジア諸国との海外交易を一層拡大強化して海洋王国構築への道を展開した。
交易は莫大な財力を生む事に成功して経済的・政治的に安定した国体維持を図り続けた。
中国には冊封史や進貢船を、幕府には慶賀使や謝恩使を派遣するなどして関係維持を保ち王国の安寧を保った。

パナリ焼 とは
八重山諸島の新城島(通称:パナリ島)で19世紀中頃まで焼成されていたと云われる土器。
手捻りで成形するときスナズルやタブの粘液を赤土に混ぜ、更にカタツムリや貝の粉などを混ぜて強度を持たせる。
露天でカヤやススキ等を被せて焼成されるのが特徴とされる。

パナリ土器の焼成は久しく途絶えていた。
ある研究者がパナリ土器の展示物を拝観して「 縄文時代の貝入土器と同じ物が八重山諸島に残っていた事にびっくり 」して、早速にもパナリ土器復元に取り組んだ。
その工程再現には謎が多くて暗中模索が続き苦戦しながらも 復元成就 を克ち得た方々の歩みを パナリ焼展示館 からご覧ください!
次回に続く・・・
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