碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

碧川企救男の欧米見聞記 (66) 番外編(10)

2013年01月23日 16時10分37秒 | 碧川

   ebatopeko

 

    碧川企救男の欧米見聞記 (66) 番外編(10)


  (カーライルの旧居を訪ねて)    倫敦にて(1919.8)      北蜂生
                    
       その①     

 

  (前回まで)

 鳥取県米子市ゆかりの人物で、日露戦争に対しても敢然と民衆の立場から批判を加えたジャーナリスト碧川企救男はは、1919(大正8)年第一次世界大戦の講和条約取材のためパリに赴いた。
 
 中央新聞の記者であった企救男は、社長の吉植庄一郎に同行したのである。彼にとってはじめての外国旅行であった。『中央新聞』に載せた紀行文を紹介したい。
 彼のジャーナリストとしての、ユーモアをまじえた鋭い観察が随所に見られる。

 ジャーナリストの碧川企救男は、取材ののときもつねに着流しであったのでこれという洋服がなかった。洋行する企救男が着るものもなく困っているのを見かねた、義理の息子で詩人として著名になった三木露風(企救男の妻かたの前夫の子)が、洋服を見つくろってくれた。

 三木露風は、企救男の長男道夫と一緒に万世橋の近くの柳原に行って、吊しの洋服を買った。既製服会社の現在の「タカQ」だという。背の低かった企救男にぴったりの洋服であった。

 横浜から「コレア丸」いう船に乗船し、ヨーロッパ目指して出発した。このときの航路は、まず太平洋を横断しアメリカの西海岸サンフランシスコを目指した。この出発のとき、企救男の母みねと妹の豊は、横浜のメリケン波止場で見送ったあと、磯子の若尾山から彼の乗船した「コレア丸」が水平線の彼方に隠れるまで眺めていたという。

 碧川企救男はコレア丸で太平洋を横断しアメリカ西海岸に着いた。そのあと鉄道でアメリカ大陸を横断し、東海岸からさらに大西洋を越えてパリの講和会議を取材した。そのあとイギリスに渡ったのである。

 碧川企救男の「初見聞」と題する紀行文は前回の(56)で終わりであるが、番外編としていくつか記しているので、これを取り上げたい。

 今回の「カーライルの旧居を訪ねて」を記すにあたっては、碧川御夫妻に多大のお世話になりました。ここに深く御礼申し上げます。
 
 

   (以下今回)

 大正九年(1919)八月十一日、碧川企救男はカーライルの旧居を訪ねた。

 カーライルは、大英帝国ヴィクトリア朝時代の歴史家、評論家であった。生没年は(1795~1881)で85歳で亡くなった。代表作に『フランス革命史』などがあり、文豪ゲーテとの往復書簡もある。

 私は高校時代に、内村鑑三の『後世への最大遺物』を読み、彼カーライルが畢生の大作『フランス革命史』の完成原稿を、友人であるジョン・スチュワート・ミルの愛人であったハリエット・テイラーによって誤って燃やされてしまった事を知った。

 しかし、彼カーライルは悲嘆のどん底から、もう一度初めから『フランス革命史』を書き直したのであった。その事を内村鑑三の著作によって知った。 とにかく19世紀イギリスの最高の文化人であり、エディンバラ大学の学長もつとめた人物であった。

 なお、イギリスに留学した夏目漱石がカーライルの家を訪ねたのは、1901年8月のことで、ちょうど碧川企救男の訪問した18年前のことであった。

 夏目漱石の『カーライル博物館』によると、漱石はカーライル家の見学者名簿をくって、漱石以前に日本人の名前がないことを知り、自らがカーライル家訪問の最初の日本人であることを知り、嬉しかったと記している。

 さてこのカーライル家訪問は、碧川企救男が訪ねた1919年8月から90年後の2009年6月碧川企救男に縁ある人物が訪れた。そして見学者名簿に「碧川企救男」のサインを発見したのであった。そこには流麗な筆記体で「K.Midorikawa」と記されていたのであった。

 ここにおいて碧川企救男が1919年8月に、間違いなく「カーライル家」を訪ねたことが実証され、裏付けられたのであった。

 碧川企救男の『初見聞』によって彼のカーライル家訪問をたどってみる。

 彼はピリミコ(?)で乗合自動車に別れ、道はテームス河の流れに沿って行った。時は八月十一日午後二時であった。この二週間ばかり前からめっきり暑くなって来たが、倫敦児は、黒地の合い服を着ていた。

 歩くと汗が身体中に滲んで息が荒くなる。もしこの道中にペアの繁った並木がなかったならば・・・満潮のテームスから吹いてくる涼風がなかったならば・・・東方の熱い国から来た巡礼者(注:碧川企救男のこと)は、思い止まって、もと来た道に引き返したかも知れません。

 ただ彼碧川企救男は、その並木とその涼風と、さらにこの大河を我が物顔に悠々と泳ぎ回っている野飼の白鳥に大いなる興味を催して、その長い道も忘れたようであった。

 さてチェルシーの橋からアルベルトの橋までかなりの道程である。日盛りということもあって人も多くは通らない。時たまスカートを高く掲げた白い肌の透き通るような着物を(服)を着た女が通った。

 アルベルトの橋のすそまで来ると、巡礼者(企救男)はもう堪らなくなって、道の中央を楕円に切った小さな公園に入ってしまった。砂漠のような焼ける日をのがれて緑の泉に入った心地で、その側のベンチに重い足を休めて彼は帽子の汗を拭おうとした。

 ふと前を見ると、一つの銅像が建っていた。銅像は椅子に凭れた髪の濃いそして顎髭をむしゃむしゃと生やして哲学者のような顔をしていた。

 手を前に重ねて、不格好な靴までがウェストミンスターの政治町でみる、堂々たる政治家や軍人のものとは全くちがっていた。

 巡礼者(碧川企救男)は、汗を拭くのを忘れてその銅像のもとに歩み寄った。礎に記した黒い文字にはこう書かれていた。


 トーマス・カーライル
 1795年12月4日    デュメリシ州エクレフェシアンに生まれ
 1881年 2月5日    チェルシー区グレート・シェーンロースに死す 

 幾度か自分の眼を疑うように、巡礼者はその銅像を見上げたり、また見下ろしたりしていました。彼がこの暑い日盛りを全く土地不案内なチェルシー迄訪ねて来たのは、誠にこのカーライルの昔住んでいたという家を訪れんが為であった。

 そして思いもかけず、この公園の中にその銅像を見た時に、彼はその家に訪ねて行く途中で、その家の主人に逢ったような心地になったのであった。

 
 長い息をつくと、巡礼者は汗を拭くことも忘れて、またコツコツと銅像の後ろに回りました。

 銅像の背後につづく一筋の道の右側にこのセルシアの聖人が住んでいた処があるはずです。シェーン・ローの24番地! 巡礼者は狭い両側の番地を一々読んでたどっておりました。

 両側はいずれも三階建ての低い家ばかり、ちょうどその中程にバルコニーの突き出た家が20何番地くらいになっていました。巡礼者の胸は恋人にでも逢う時のように、血潮が躍りましたが、そのバルコニーの出た立派な家はカーライルの旧居ではなかったのです。

 カーライルの家は、その隣の黒い煤けた方でした。黒パンを囓り、水を飲む貧しい生活が詩人の代名詞になっているように、英雄崇拝論の著者(注:カーライルは英雄崇拝論者であった)の家もまたすこぶる貧弱であった。

 ただ表の壁に、永久に消えまじと、聖人の片身像が刻みつけてあるのが、この長屋の中に特に目立っていた。巡礼者は戸を叩く前に、まず黙然としてその像を仰いでいた。

   ≪Speech is of Time, Silence is of Eternity≫  

 黙々たるカーライルの像を仰いだ巡礼者の口から漏れた一句は、カーライルのサータス・レザータスの中にあるものであった。

 そして巡礼者は軽く戸を叩いて案内を乞うた。



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