碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『拾有七年』を読む  (31)

2011年08月06日 11時37分36秒 | 『拾有七年』を読む

 ebatopeko

 

        『拾有七年』を読む  (31)

    

      (隠岐、夜見が浜そして米子へ) 


  (前回まで)

 『拾有七年』は、米子の生んだジャーナリスト碧川企救男の紀行文である。庶民の立場をつらぬいた彼は、日露戦争時においても、民衆の立場からその問題性を鋭くつき、新聞紙上で反戦を主張した。

 碧川企救男は、鳥取中学(現鳥取西高等学校)を出て、東京専門学校(現早稲田大学)に進学するため郷里を出た。それから17年ぶりの明治四十五年(1912)、郷里鳥取の土を踏んだ。その紀行文である。

 明治四十五年(1912)、完成したばかりの「山陰本線」に乗り、兵庫から鳥取に入り、昔碧川企救男が鳥取中学(現鳥取西高校)にいたときの記憶を呼び覚ましていった。当時の旧友のあれこれとの交流、思い出に碧川企救男は十七年ぶりの感慨にふけっていた。

 また碧川碧川企救男は、妻の父の墓にもこの機会に詣でた。妻かたの父は幕末維新の時代、鳥取藩の家老であった和田邦之助信且であった。没後従五位を贈られ、のち明治41年(1908)には従四位を追贈された。

 幕末期、松田道之は京都において、和田邦之助は鳥取にあって東西呼応して鳥取藩を佐幕派から勤王派に転じさせたのである。徳川家ともっとも関係の深い因幡藩を勤王へと導いた鳥取の中心人物の一人であった。

  鳥取中学で上級生の室長(四年生)らは、毎朝の掃除を一・二年生がすることを決議しようとした。それを知った碧川企救男ら下級生は、ここに階級闘争の幕を開けた。幸いに二年生は寄宿舎全生徒の過半数であった。

  碧川企救男が旧制鳥取中学に在学していたころは、夏・冬の休みには自宅に帰省した。企救男の家は米子であったので、鳥取から米子まで歩いて帰った。その二日半の道のりを思い出すのであった。

 とくに冬の雪の時は、腰くらいまである雪をかき分けながら帰ったのであった。それにひきかえ、現在(明治45年)山陰線が通るようになってたった二時間半で米子に帰り着くという便利さを実感するのであった。その道筋を思い起こす旅であった。

 碧川企救男は二十年前の悪戯を思い出した。それは中学一年(明治二十四年のころ)のときであった。大きな試験を終え、帰省の途中であった。朝早く鳥取を発って、湖山池に来たのは七時ころであった。

 湖山池を出てトンネルと越え、「水尻の池」という小さな池に来た。」。一緒だったのは、悪友五人連れであった。この池の手前に来ると道の傍らに一匹の土竜(もぐら)を発見した。

 なにしろ腕白盛りの碧川企救男らである。すぐに引っ捕らえて処分の方法を協議した結果、誰かの発案で水尻の池まで持っていき、池の真ん中でこれを水の中に放り込むことに決した。

 哀れなる土竜は、たちまち糸でくくられて渡し船に持ち込まれ、ついに湖に放された。土の中を潜ることしか知らぬ小さな動物は、小さな波紋を描いて藻掻き藻掻がいてやがて池の底に沈んだ。碧川企救男ら腕白仲間は、手を叩いて喝采した。 

 しかしこの悪戯は、たちまち天罰を受けることになった。三時間後、晴れていた天候はにわかに暴風雨となり、傘を折られ荷物を濡らされた彼らは、青谷というところで、昼飯を食べたまま半日を空しくて、挙げ句の果ては、ここに泊まることを余儀なくされた。

  寄宿舎の厳格な生活から出て、いわゆる籠の鳥が故山の古巣に帰る時に羽を休める処は、すなわち温泉宿であった。宿は「たばこや」という旅館で、親切な愛想のよいお婆さんがいた。

 彼らは到着すると先ず温泉である。湯から上がると、一団が着いたことを耳にした村の菓子屋が、菓子箱を持って小さな旦那衆の懐を絞りに来た。ソレ饅頭、ソレ菓子とたちまちのうちに一箱は空になってしまう。

 そのうち、下女が晩飯を持ってくると、今まで蟻の如く甘きについた一団は、すぐ車座になり、二三人の下女を中心にして、茶碗を握った腕があっちからもこっちからも出てくる。

   また碧川企救男は三徳山に行ったときのことを思い出した。暑中休暇に帰省するときのことであった。碧川企救男と小山は、特に一行と別れて野宿しても構わぬから、三徳山に回ろうと鹿野に入り、この幸盛寺の前から三徳の山越えをした。

 三徳山の宿に着いたのは、夜の七時頃であった。 真夜中、突然どうした拍子か蚊帳の二方の吊り手がバタリと切れて、麻の冷たい蚊帳が二人の上に落ちた。 それでも我慢をして、午前一時というのに三徳山の恐ろしい宿を出発した。皓々たる月が山路を照らし、ススキの葉陰には金剛石のような露が光っていたのを今でも憶えている。

  青谷で記憶しているのは、この村の竹輪のうまいことである。現在も青谷では竹輪が名産である。その竹輪は「アゴ竹輪」という。アゴとは「トビウオ」のことで、鳥取ではトビウオのことを「アゴ」という。

  青谷は漁村であるが、鳥取県にとって誇りとすべき村であると碧川企救男はいう。それは日本人の手になる日本最古の英字新聞「ジャパンタイムズ」は、実にこの青谷から出た人々が最初から経営しているからである。

 明治三十年(1897)三月二十二日、日本人の手による現在の「ジャパンタイムズ」が創刊された。その中心人物が日野町出身の頭本元貞であり、また青谷の武信由太郎であった。さらに初代社長として経営を指揮したのは、彼ら二人の先生にあたる同じく青谷出身の山田季治であった。 

 実に青谷出身の人たちが日本最古の英字新聞「ジャパンタイムズ」の創刊、経営の最大の功労者であったことを忘れてはならないと碧川企救男は力説する。              

 碧川企救男は、東郷池(東郷湖ともいう)に浮かんだ「養生館」において、彼の妻「碧川かた」の乳母と会うことになっていた。

 碧川企救男が部屋に案内されるのを待てないかのように、乳母は弓のように腰を曲げて部屋に入ると「私はこれでこの世に思い残すことは御座りませぬ。もう死んでもよろしゅう御座います」と言って泣いた。

 碧川企救男は晩餐をしている間も、乳母は妻「かた」の幼時を語り、自分の過ぎ越し方を回顧して、さまざめと泣いたり笑ったりしていた。

 「養生館」に最初に泊まったのは、十七年以上も前(明治25~27年頃?)の大雪の時であった。一緒にいたのは七人で、前日米子を出発して十里の道を由良まで来て、由良で一夜を過ごし、翌朝五時半に由良を発ったが、夜中に降り続いた雪は五尺(1メートル半)の高さに積もった。

 寒さと積雪とに悩んだ一行のうち、軟派は突如として行程変更を動議した。それは今から十里も歩くのは無理だから、五里に縮めたいというのであった。硬派は「いや雪でも行かねばと」。ここで硬軟両派の議論が雪中戦わされた。

 そこにさらに最軟派が生まれた。それは五里も否認して、直ぐこれから一里の東郷池に行って泊まろうというものであった。採決をすると、豈図からんやこの最軟派が多数を占めた。

 碧川企救男らは、朝の七時にこの「養生館」を叩き起こして、朝から一日一夜をこの宿に遊び暮らしたのである。勿論酒などは飲まない。何度となく菓子の注文をしては湯に入ってワーワーと騒いでいたのである。遠い昔のヤンチャな中学生の想い出であった。

 東郷池の一夜は十七年振りの碧川企救男にとっては、特に興趣を覚えた。沈々として夜が更けるのも知らず欄干に凭った(よった)彼は、このまま若い少年に帰ったような心地がした。

 松崎の次の駅は上井(あげい)、次は由良となっている。この上井から米子までの間に過ぎる駅は七つあるが、はじめて隧道(トンネル)のない軌道となっている。山陰鉄道の通過する平野は、この駅から米子迄位であろう。

  他はどこに行っても各駅の間に、必ずや一つや二つの隧道のないところはない。かくて、この上井から米子にかけての平野から、山陰米の中の最も精良米として誇らるる橋津米が産するのである。

 由良の停車場から、碧川企救男らの泊まりつけの仕立屋という宿屋の屋根が見えた。碧川企救男がはじめて鳥取に行くときに昼飯を食べたので、この宿の内儀(かみ)さんは、今でもきっと碧川企救男の顔を覚えているであろう。

 碧川企救男が可笑しく想い出すのは、彼より二級ばかり下であった小原悌弥君や高浜慶郎を案内して鳥取に行く時の事であった。

 この宿に着くと二人がしきりにコソコソ話しをしながら、手帳に何か記している。何を付けているのか、一寸見せよと言って、手帳を取り上げた。すると一日の小遣いを書き上げていた。その中に八厘、藁蛙というのがあった。ようやく判断してこれが、「草鞋(わらじ)」のことであることを知って大いに笑った。

 その小原さんは、今神戸の三井物産に居る。立派な紳士になって、聞くところによると、髪は抜けて碧川企救男のように禿頭になっているそうだ。

 山陰線の左の車窓から、その秀峰を見せているのが、伯耆富士こと大山である。赤崎町を過ぎるころから近づいて、横からその姿を見せている。

 駿河の富士は、どこから見ても形を変えないので賛美されるが、この伯耆富士はうしろと横から見ると、全くその威厳を損じてしまっている。米子から望んだところが美しく、さらに松江から望めば、米子のそれより以上に美しく偉大である。

 その名前は、「伯耆富士」であるが、眺望はまったく出雲に奪われてしまっている。碧川企救男は大山について語り始めた。

 大山は、山陰一の高山である。高さ6、194尺(1,729メートル)である。彼らが幼少のころ、米子からこの山に登るとき、まず米子から三里の尾高(おだか)と言うところから、青い芝生の裾野を二里ばかり行くと、はじめて大山の寺に達する。

 この寺に泊まって、山に登るのであるが、寺からの山はすこぶる傾斜が甚だしい代わりに、十町くらいで頂上に達した。頂上には、噴火山の名残を止めて、富士のそれに似て小さな池がある。

 ある年、碧川企救男らが大山に登っての帰りに茶屋に寄ると、婆さんが悄然として、「坊様達は、悪い事をしなさったがよ、あのお山は大山の坊さんのほか上がる事は悪いだに、あの高いところに上がりんさったら、もうこの上は出世することは出来ないがやあ」と言った。

 しかし、山陰道はこの大山のために、どのくらい人文の上に影響を受けているか分からない。大山は立派な美しい山である。しかし、この大山を中心とした一帯の山脈があるが為に、日本海から立ち上る雲は、常にこの山脈に遮られ、この山を越えて南に飛ぶことが出来ない。

 かくて、水蒸気の多い密雲は、常に山陰道の上を往来し、雨となり雪となる。三日と天気の続いたためしのないのは、実にこれが為である。天気に快晴のないのは、すなわち「山陰道」の名のよって来る処で、かくて山脈の南の陽気なるに反して山脈の北は陰気である。

 陰気であるが故に、常にその地の人は、人の上に立っても寛懐という事がない。何か一人で隠して心に秘そめて、そして苦悶している。

 しかし、大山は山陰道第一の高山である。碧川企救男らのところに製氷会社が出来る前は迄、夏はみな大山の谷間の雪を取っていたが、実は雪の凍ったものであった。カンナにかけて削って氷水にする世話はなく、砕けばただちに自然の氷水となった。

 その雪を、青い蓬の葉か栗の葉で作った俵に入れて、町に送ってくるので、氷はみな青臭かった。今でも登山者は、さほど奥まで行かずとも、氷のある処にはいつでも達することが出来る。

 この大山の頂上からは、隠岐の島が眼下に見える。隠岐は、この赤崎の海岸から三十里(約120キロ)の沖合にあるのだが、山が高いだけにすぐ眼下に見える。

 さて、汽車は今赤崎の次の駅、下市を発して御来屋(みくりや)駅じ着いた。御来屋は名和神社があるところで、神社の土を掘ると今でも「名和長年」が、後醍醐天皇を奉ずるとき、居宅の米倉を焼いた際の米が、黒くなって土の中から現れる。

 

  (以下今回)

 御来屋(みくりや)駅に来ると、碧川企救男はもう故郷に入ったような気がした。山も海もことごとく皆わが古い友である。車窓の左は青い夏の畑を越えて伯耆富士の裾野が拡がり、右は雲煙縹渺(うんえんひょうびょう)の間に、遙かに隠岐の島が浮いている。

 松崎から乗ってきた兄妹とおぼしきが私をみて、右の窓に寄ったり左の窓に馳せたりしているのを見て、訝しそうにしていた。そして初めは碧川企救男が十七年前の昔を追想して時に独りで笑ったりしているのを面白そうに眺めていた。

 やがてその小さい妹は、兄の袖を引いて恐ろしそうに顔をしかめた。おそらく碧川企救男が発狂したのではないかと思ったらしい。

 かくて御来屋の停車場を越えると、妹はしきりに兄に対して隠岐の島を見せろと言っている。碧川企救男はすぐに、その妹に対して「隠岐はそれあすこだ。あの蒸気船の煙の出ている右だ」と教えたが、小さい彼女には腑に落ちないらしい。

 碧川企救男は「ほう、君には分からないでしょう。しかし僕は小さいときからその島を見慣れているから直ぐわかります」と。たしかに普通の旅人には、余りに島影はうすい。一抹の煙のごとくである。いかに遠視の人でも明確には島を判ずることは出来ない。

 淀江が近づくにつれて、夜見が浜(弓ヶ浜)一帯の白砂が眼前に展開して来た。美保関と淀江とが相対して抱く弓形をした蒼海の尽きるところ、延長十余里の白砂青松の浜は、山陰第一の絶勝である。

 これは碧川企救男が、故国を誇らんとして言うのではない。天下の人がことごとくこれを讃美している。日本三景の一つとして称せられる天橋立も、この夜見が浜に比べるならば十分の一にも足らぬ。あれは箱庭てきである。これは天然の天橋である。

 もしこの夜見が浜が都に近く存していたら、今の天橋立はさほど日本人から喜ばれなかったであろう。まったくその都に近いと、近くないとによって、一つは天下に名を知られ一つはまったく知られずに終わる。

 まことにグレー(引用者注:18世紀のイギリスの詩人、歴史家のトマス・グレイのこと)が言ったように、田舎の墓石の下にもクロンウェル(引用者注:イギリスのピューリタン革命によってチャールズ一世を処刑し、初代護国卿となったオリバー・クロムウェルのこと)が眠り、

 またハムブデン(引用者注:1628年にチャールズ一世に対して『権利の請願』を出した議会の指導者ジョン・ハムデンのこと)も眠っている。

 ただ、クロンウェルやハムブデンの人格と才知、勇気を有しながら、世に知られずに終わったのは、その名を世に出す機会がなかったからである(引用者注:夜見が浜の美しさを、田舎にも世界を変えたイギリス革命の名士の墓があると、碧川企救男は強調したかったのである)。

 碧川企救男は、いま夜見が浜の絶景に対して、この忘れられた詩(引用者注:トーマス・グレイの詩「田舎の墓地で詠んだ挽歌」のこと)を想い出した。そして、特に名誉と地位に憧れる若き人々に同情を禁じ得ないと言う。

 さらに彼は、いわゆる「藩閥政治」「親戚政治」とかの恐ろしい政治を悲しむでのであった。今の政治は、「王侯将相何ぞ種(しゅ)あらんや」と言った時代ではなくなってしまった。

 もう組織、系統以外からの侵入者を許さなくなってしまった。碧川企救男はここで、明治末の「藩閥政治」「官僚政治」「重臣政治」「元老政治」などを糾弾している。

 

 こんなことを考えているうちに、碧川企救男の乗った汽車は淀江に着いた。彼は淀江の町をみると、彼の二、三級上であった国頭鉄四郎君(碧川企救男は「くんとう」とルビを振っているが、「くにとう」を訛って彼らがそう呼びならわしたのであろう。現在も地元では「くんとう」と訛って呼ばれているという)を想い出した。

 国頭鉄四郎君は小さな男であった。酒を飲むと蒼くなる男であった。しかしすこぶる足の速い男で、運動会ではきっと賞をとる。ベースボールのチャンで、またすこぶる勉強家の一人で、東京に出てからも彼は慶応に学んでいたので、碧川企救男とよく行き来していた。

 碧川企救男は、名刺を取り出して駅夫に、国頭君に届けてもらおうかと思ったが止めた。

 汽車は再び動き出し、淀江の山駅から日野川を越えて、いよいよ碧川企救男の故郷の米子に着いた。



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