碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

碧川真澄のこと ⑤

2009年08月15日 11時55分44秒 | 碧川

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              碧川真澄のこと ⑤

 

        (前回まで)

  碧川家は、宝永年間(1704~1710)の初代武左衛門から始まる。伊勢の人で新谷藩の中小姓であった。三重県の松阪市には「碧川」という川がある。但し読みは「あおがわ」である。

 このことと碧川家と関係は不明である。因みに碧川家の家紋は「沢瀉」(おもだか)である。

 碧川家の四代が、新谷藩主加藤大蔵少輔の家臣であった碧川衛門八「良正」で、その長子が「弘良」である。文政五年(1822)、正式に入門が許され平田学を学んだ。平田篤胤の男子が早世したあと、文政七年(1824)一月十五日、請われて篤胤の娘「千代」のち「おてう」と結婚し平田家を継ぐことになる。「平田銕胤(かねたね)」を名乗った。

 平田篤胤なきあと、平田国学を受け継ぎ発展させたのが平田銕胤であった。

 平田銕胤は、幕末の尊王攘夷運動および明治維新に思想的な影響を与えた。そして明治以後も活躍した。明治元年(1868)神祇官判事となり、さらに明治天皇の侍講となったのである。

 弘良の弟の好尚(よしひさ)も文政五年(1822)に入門し、気吹舎に学ぶこととなる。好尚の娘みねと結婚したのが碧川真澄である。

 そしてその養子として迎えられたのが、泉州伯太藩士小玉官次郎雄庸の三男羊五郎であった。ときに十五歳であった。彼こそが後の碧川真澄である。

 安政五年(1858)五月二十三日のことであった。新谷藩主より碧川真澄に与えられたのは、御宛行三人扶持、御切米十石であった。

  碧川真澄は、小玉羊五郎として、弘化元年(1844)九月、泉州伯太(はかた)藩小玉官次郎雄庸の三男として生まれた。
 
 その伯太藩の小玉官次郎の子羊五郎が、碧川家の養子となった経由については不明である。伯太藩の渡辺家上屋敷は、現在の東京千代田区永田町付近であったらしいと、碧川企救男の孫である潮地ルミ氏は指摘しておられれる。

 碧川羊五郎は、藩主加藤泰令の近侍を命じられた。

  ところが、文久三年(1863)、碧川真澄の名前で「身持不宜不都合ニ付閉居」を命じられている。このころ、「碧川真澄」を名乗るにいたったらしい。

 元治元年(1864)三月十二日に碧川真澄と峯との婚礼が、碧川家の浅草田圃屋敷でとりおこなわれた。真澄は十九歳であった。

 碧川真澄は、新谷で藩校「求道軒(きゅうどうけん)」の句読師(読み書きを教える)と藩主加藤泰令の近侍を命じられた。求道軒は、天明三年(1782)に設立されたものである。

 碧川真澄は、明治三年(1870)二月二十三日、碧川真澄は按察府に召し出され、六月に出頭、出仕を命じられ山形に赴いた。按察使(あぜち)は、律令時代国司を監督する監察官で、令外官である。                    

 明治政府も古代律令制の復活をはかり、明治二年に設置した。しかし、実際には有名無実であったようで、同年十月には廃止したという。しかし碧川真澄の記録によると、明治五年(1872)まで勤めたことになっている。

 明治五年四月十三日東京下谷車坂の仮寓で、長男熊雄が生まれている。

 翌五月、碧川真澄は司法省に出仕することになり、入間裁判所(六月から熊谷裁判所となる)に勤めることになった。熊雄の名前は、その熊谷からとったものである。

 こうして碧川真澄は、明治五年から司法の世界に入り、以後司法の場で各地の裁判所を転々とすることになった。

 明治九年(1876)五月には、小倉裁判所支庁詰となり、豊前国企救郡小倉魚町二丁目の山内藤兵衛の借家に転居した。

 明治九年暮れ、碧川真澄は小倉裁判所所長を命じられた。月俸二十五円であった。

 この年は、愛知、茨城、堺、三重県など各地に地租改正反対一揆が起きて世情不安の時であった。結局この年末、大久保利通により地租軽減が建議されるにいたった。

 またこの年十月には、熊本において敬神党の太田黒伴雄らが熊本鎮台・県庁を襲撃するいわゆる「神風連の乱」が起こり、これに呼応して小倉で「秋月の乱」が警察官を殺害した。これは、乃木希典が率いる小倉鎮台によって鎮圧されたが、極めて治安が悪かった。
 
 碧川真澄は、「夙夜勉励候に付」(朝から晩まで頑張った)六円の手当を下賜されている。

 さらに翌明治十年(1877)には、西郷隆盛をおしたてて「西南戦争」が始まった。この年、四月二十七日には次男企救男が誕生し、住所地にちなんで名付けられた。

 その二年後、明治十二年(1879)には長女が誕生し、住所地の豊前にちなんで「豊」と名付けられた。
 


   (以下今回)

 碧川真澄は、明治十二年(1879)十一月に上京したとの記録がある。出張なのか、それとも新しい任地が決まったのであろうか。

 さらに明治十四年(1881)十月二十四日、太政官より検事に任じられ、司法省より年俸660円「木更津始審裁判所詰」を命じられた。

 明治十七年(1884)九月には、千葉始審裁判所八日市場支庁詰めとなった。この九月には、三男操が生まれている。操の命名の由来はわからないが、碧川真澄の命名法によると、千葉県八日市場あたりで「操」という地名があるのかも知れない。

 さらに明治十九年(1886)七月、碧川真澄は浦和始審裁判所詰めとなった。

 明治二十年(1887)七月八日、碧川真澄は鳥取始審裁判所詰めとなり、一家は米子に移住することになった。その住所は初め米子町西町であった。

 当時はその西町は「堀端町」とも言ったようで、最近102歳で亡くなられた坂口宏氏によると、坂口氏宅のすぐ隣であった。坂口氏宅が二十九番地で、碧川真澄の裁判所官舎は二十六番地であったという。

 その後、碧川真澄は官舎から出て米子の天神町一丁目に家を建てた。それが現在のヤマサ電気店の隣にあたる。この家は「菊」という大工が真澄の意向を受けて建てたものだという。



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