碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

碧川真澄のこと ③

2009年08月05日 11時27分42秒 | 碧川


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            碧川真澄のこと ③

  

      (前回まで)

  碧川家は、宝永年間(1704~1710)の初代武左衛門から始まる。伊勢の人で新谷藩の中小姓であった。三重県の松阪市には「碧川」という川がある。但し読みは「あおがわ」である。

 このことと碧川家と関係は不明である。因みに碧川家の家紋は「沢瀉」(おもだか)である。

 碧川家の四代が、新谷藩主加藤大蔵少輔の家来であった碧川衛門八「良正」で、その長子が「弘良」である。文政五年(1822)、正式に入門が許され平田学を学んだ。

 平田篤胤の男子が早世したあと、文政七年(1824)一月十五日、請われて篤胤の娘「千代」のち「おてう」と結婚し平田家を継ぐことになる。「平田銕胤」を名乗った。

 弟の好尚(よしひさ)も文政五年(1822)に入門し、気吹舎に学ぶこととなる。好尚の娘みねと結婚したのが碧川真澄である。

 さて、碧川弘良は、平田篤胤の養子となって平田家に入った。彼は「平田銕胤(かねたね)」を名乗り、平田国学を受け継いだ。

 平田篤胤が晩年の天保12年(1841)幕府の暦制を批判したことにより、故郷の秋田に帰ることを命じられた。

 激しい儒教否定と尊王主義が、幕府の忌避にふれたとも言われる。平田篤胤は、執筆も禁止され、二年後の天保14年(1843)秋田で死去することになった。

 この段階での弟子の数は553人で、1330人が没後の弟子であった。平田篤胤なきあと、平田国学を発展させたのが平田銕胤であった。

  平田銕胤は、幕末の尊王攘夷運動および明治維新に思想的な影響を与えた。そして明治以後も活躍した。明治元年(1868)神祇官判事となり、さらに明治天皇の侍講となったのである。

  さて、碧川家の「弘良」が平田家に入った結果、その弟碧川操之助「好尚」が碧川家を継いだ。

 彼も兄と共に平田国学を学んだ。碧川家五代である。しかし、「好尚」には男子がいなかったので、廃絶をおそれて碧川家存続のために、末期養子を迎える相談をした。

 そしてその養子が、泉州伯太藩士小玉官次郎雄庸の三男羊五郎であった。ときに十五歳であった。彼こそが後の碧川真澄である。

 安政五年(1858)五月二十三日のことであった。新谷藩主より碧川真澄に与えられたのは、御宛行三人扶持、御切米十石であった。

  碧川真澄は、小玉羊五郎として、弘化元年(1844)九月、泉州伯太(はかた)藩小玉官次郎雄庸の三男として生まれた。
 
 その伯太藩の小玉官次郎の子羊五郎が、碧川家の養子となった経由については不明である。

 伯太藩の渡辺家上屋敷は、現在の東京千代田区永田町付近であったらしいと、碧川企救男の孫である潮地ルミ氏は指摘しておられれる。

 碧川羊五郎は、藩主加藤泰令の近侍を命じられた。

  ところが、文久三年(1863)、碧川真澄の名前で「身持不宜不都合ニ付閉居」を命じられている。このころ、「碧川真澄」を名乗るにいたったらしい。

 元治元年(1864)三月十二日に碧川真澄と峯との婚礼が、碧川家の浅草田圃屋敷でとりおこなわれた。真澄は十九歳であった。

 碧川真澄は、新谷で藩校「求道軒(きゅうどうけん)」の句読師(読み書きを教える)と藩主加藤泰令の近侍を命じられた。求道軒は、天明三年(1782)に設立されたものである。

  

  (以下今回)

 ところで、碧川羊五郎が「真澄」と改名した年月日ははっきりとはわからない。

 「真澄」の名は、のちの平田銕胤が碧川家にいたとき、すなわち碧川弘良であったとき、「真澄」を称していたことがあったので、羊五郎がこの名前を貰ったのではなかと潮地ルミ氏は推測しておられる。

 幕末の政情の中で、新谷藩は勤王派として多事多難の中、碧川真澄も多忙であったと思われるが、彼がそのことについて記し残してものがないので、詳細はわからない。

 慶応四年(1868)正月早々、碧川真澄は命じられて京都に上る途中、大坂に着いた一月三日には京都・大坂は戦禍の真っ最中であった。鳥羽伏見の戦いである。

 慶応四年九月、天皇の東京への行幸においては、大洲藩が先駆を、新谷藩が後衛を承ったが、そのとき碧川真澄は参加していない。

 明治二年(1869)三月、碧川真澄は版籍奉還を願い出ていた藩主加藤泰令に従って上京し、そのまま東京に滞在していた。

 またこの月真澄とみねとの間の初めての子どもが生まれた。女の子で「かつ」と名付けられた。しかし、かつは、父の顔も見ないうちに翌年死去した。

 明治三年(1870)二月二十三日、碧川真澄は按察府に召し出され、六月に出頭、出仕を命じられ山形に赴いた。按察使(あぜち)は、律令時代国司を監督する監察官で、令外官(りょうげのかん)である。                    

 明治政府も古代律令制の復活をはかり、明治二年に設置した。しかし、実際には有名無実であったようで、同年十月には廃止したという。

 しかし碧川真澄の記録によると、明治五年(1872)まで勤めたことになっている。



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