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「碧川かた」 あれこれ ⑯
(「碧川かた」の死と三木露風 その2)
「碧川かた」については、私のブログ「鳥取県の生んだ女性解放の先駆者 碧川かた」において詳しく取り上げているが、その他いくつかエピソード的なことを取り上げてみたい。
(以下今回)
「碧川かた」の死と三木露風のことについては前にもブログに書いたことがあるが、今一度取り上げてみたい。
「碧川かた」は、昭和37年(1962)一月十四日午後五時二十分、心臓衰弱のため東京港区麻布笄(こうがい)町の自宅で死去した。九十二歳であった。(注:彼女は明治二年生まれなのでこれが正しいが、彼女の生年については、他に明治三年説と、明治五年説がある。それについては、私のブログ「碧川かた」の出生年について」ー2011.1.14をご覧いただきたい)
昭和二十九年(1954)の秋、「碧川かた」の眼にそこひの症状が出始めた。長男の碧川道夫は、京橋の銀鳳堂で新しい眼鏡の検査に行った。その帰り、もう滅多に外出出来なくなった母だと思うと、「かあさん、どこか行って見たいところはありませんか」と訊いた。
「碧川かた」は議事堂へ行きたいとのことで、車を霞ヶ関に走らせた。そして、長らく婦人参政権獲得運動に邁進してきた思いが、議事堂に向かって数歩歩くと、大きく手を広げて「わぁっ」と叫んだ。
このことは、前に記した通りである。
やはりその日の外出が最後になった。家で養生していたが、やがて一月四日発病して、「碧川かた」は危篤になった。
三木露風は付きっきりで母の枕頭で看病した。人々が休息するようすすめても、彼は連日端座して動かなかった。長い間の母への想いが露風の心を打ったのであった。
そして十四日の夕刻、静かに息を引き取った。そして通夜の晩、弟の道夫や妹の澄、国枝、芳子、清子などに、母と並んで寝かして欲しいと三木露風は頼んだ。彼は70年の年月を越えて母かたと添い寝したかったのである。
その夜、母かたの白髪と長子露風の白髪が仲良く並んでいた。その部屋を覗いた人は、露風の息づかいを聞いて、「かた」の寝息のように感じて、彼女が息を吹き返したかと驚いたほど、融け合った母と子の眠りであった。
「碧川かた」は、賀川豊彦の松沢教会の執事であったので、教会で葬儀をすべきであったが、彼女は「形式化した葬儀は止めてくれ」との遺言であったので、極めて近しい人々だけで、地味な告別式を自宅で行うことになった。
極寒のお通夜だった。かって婦人参政権獲得運動を共にした同志は、もはや多くは在世しなかったが、それでも市川房枝女史や高橋千代女史ら婦人参政権獲得運動の同志たちが、集まり「碧川かた」の思い出話に花が咲いた。
「碧川かた」は婦人参政の道を開くには、婦人弁護士をつくることが必要だと、明治大学の木下総長に頼み込んで、女子の聴講を許させて、「かた」は若い人と勧誘してともに明大法科の聴講生になるなど実行が早かった。
また「碧川かた」は、人間は嘘をつかないものと信じていたので、嘘をつくことを憎んだ。また嘘に近いような事も憎んだ。そう言って、「かた」の性格の美しくきびしかったことをある人は褒めた。
またある人は、ひどく「かた」に叱責されて、彼女から遠ざかっていたが、その死去を知り駆けつけ、微笑する遺影の前で、こんなやさしいおばあさんになっていなさるんだったら、もっと早くお伺いしたかったと言いながら、さんさんと涙をこぼした。
「碧川かた」の死は深夜放送で報ぜられ、報道陣のごたつく中で、三木露風は弟の碧川道夫に紙と硯を求めた。そして次の詩を書き、告別式で露風みずから朗読した。
献 詞
我母よ おんみは逝きませり
その逝きますや
いと安らか
天国に至ります
げにその感あり
性篤実にして堅
健全なる思想を有し
女権擁護に尽くす
花に似たる詩歌を作り
其の資性を
我れに思はしめたり
こと終りたる如くにして
終らず
此の世にありても
生ける如し
三木露風
三木露風が、不慮の事故でタクシーにはねられ亡くなったのは、この二年後であった。