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霊界通信3の16、唯一実相の神、天照大御神のメッセージ

2021年02月25日 | 教育
さて、中心帰一という話が出ましたが、ここで「神の心」という事に触れておきたいと思います。

唯一実相の神は、一体、如何(いか)なる心を、持っておられるのか。 一体、如何なる心で、私達、全ての者を、生かしめ、育(はぐく)もうとしておられるのか。これについて、話をしてみたいと思うのです。

唯一の神、絶対の神の思いは、徹底した光であり、徹底した愛であり、徹底した慈悲であり、徹底した正義です。そして、徹底した善です。

神の中には、悪はないのです。神の中には、憎しみも怒りも、愚痴(ぐち)も何もありません。神の中には、マイナスなるもの、消極的なるものは、何も無い。闇なるものは、何も無いのです。

あの太陽の様に、燦燦(さんさん)たる光を、地上に生きている人々に、そして、地上を去った霊的な世界に生きている人々に、与え、与え、与え続けている。それが、唯一の神の本当の姿です。

その世界の中に、一時的に、悪の様に、現れるものがあったり、また、醜(みにく)いものの様に現れるものがあったとしても、それは一時期の姿であって、本当の姿ではない。

本来、この地上に、そして、霊的世界に、悪は存在しない、という事。これを認めなければいけない。

悪がある様に見えるのは、それぞれの人間に、自由意志というものが与えられているために、その自由意志が、思い込みによって、そうした間違った映像を、心の世界に映し出しているにしか過ぎないという事です。しかし、そうした自由意志も、また、大きな眼の中においては、やがて、一つのものに、集めて行かれる様になっているのです。

人々よ、これを、神の、一つの芸術だと知りなさい。それぞれの者が、それぞれに個性を光らせながら、やがて、一なる神に近付いて行くのだ、という事を知りなさい。

あの打ち上げ花火の様に、それぞれの光が、天空をよぎっている様に見えながら、全体として統一ある姿が出来ている。全体として統一ある、美しい形を作っている。神の心というのは、そうしたものなのです。全てのものを包み込み、育みながら、やがて、大いなるものとして帰一させて行く。そこに神の本質があるのです。本来の、神の在り方があるのです。

ですから、私は言っておきたい。神というものは、絶対の真理であり、神の心とは、こうした心であり、完全無欠である、という事、これを、あなた方は忘れてはいけない。たとえ、どの様な事があろうとも、その、神のお心を疑ってはならない。悪の様に現れることがあっても、本来の神のお心は、そこにはない、という事を、私達は知らなくてはならないのです。

さて、神のお心が、この様に完全無欠なものであり、そして絶対的な真理であり、絶対的な善であり、絶対的な光であるとするならば、私たち人間が地上に生きていく時に、即ち、霊天上界においては、神近き高級霊であるとされていたにも関わらず、地上に在る時、人間として生きていかねばならない者達は、どの様に、それを理解して、生きて行かねばならないのであろうか。ここに大きな問題がある、という事です。

結論を、まず、述べるとするならば、現実がどうであるか、という事は、また二の次として、まず、人間は、こうした、神の世界の理想像に、一歩でも近付いて行くべく努力をしなければならない、という事です。そうした努力をしないで、ただ漫然(まんぜん)と、有るがまま生きる事が、素晴らしい生き方でない事は、事実です。

地上に在る時、人間は盲目です。神の心が、どの辺にあり、この世界の真実が奈辺にあるか、という事に対して盲目です。また、神の愛や慈悲に対して盲目です。そうした人間であるならば、本来の理想というものを知ることによって、それに、一歩でも二歩でも近付いて行くべきではないでしょうか。

私は、現在の、地上の宗教の多くが、天国と地獄という事を説き、「地獄に堕ちるぞ」という事で、脅(おど)しを使っているのを見て、悲しい気持を禁じ得ないのです。現に、地獄という世界は有ることはあり、その中に、地獄の亡者と見ゆる者も、居ることは居ます。けれども、それは、本来の人間の姿でもなく、本来、予定されている形でもなく、また、そのままであってよい姿でもないのです。

私は、人間は、そうした、地獄に堕ち苦しむ事を、恐れるあまりに信仰心を持つ、べき(なの)ではなく、そうした事を度外視して、本来なる神に、近付いて行くべく努力する、必要があるのではないか、と思うのです。地獄の事を研究し、それから逃れようとする、のではなく、神そのものに近付いて行こうとする事が、大事なのではないでしょうか。

さすれば、地上にある、あなた方よ、あなた方の仕事は一体何か、と言えば、神の心を、この地上に具現化して行く事。それぞれの職業を通して、神の心を具現化して行く事。そして、それを、大いなる理想にまで、押し上げて行く事。ここに有るのではないだろうか。

様々な職業があり、その中に生きている、あなた方です。それは、極めて限定された世界ではありましょう。しかし、その限定された世界の中ではあっても、そこにおいて、全力を尽くし、神の心に、一歩でも近付いて行くべく努力をして行くのが、あなた方、人間に要求された努力ではないでしょうか。

神の、その心で、或いは、神の心を心として生きて行くならば、どの様に、今の仕事の中で生きていかねばならんのか。

教師は教師として、妻は妻として、店員は店員として、政治家は政治家として、それぞれ、果たすべき本分があるでしょう。その本分(ほんぶん)を、どの様に果たして行くのか、これを考えるべきです。

その際に、神が、絶対の真理であり、善であり、光であり、愛であるという事、神そのものの性質の中に、何らの悪は無いという事、何の悪意も、何の邪念もないという事、それらに見えるものは、単に、生きている人間の、自由意志の歪曲(わいきょく)した姿にしか過ぎない、という事、そして、やがては、そうした歪曲されたものも過ぎ去って行く、消え去って行くものだという事、こうした観点を忘れてはいけません。

神の心を心として生きる、という事は、地獄から脱するという事ではなく、本来、天国の天国なる所、神の懐(ふところ)に、大いなる気持で飛び込んで行く、という事ではないでしょうか。私は、それが、何にも増して大切な事であると思います。

さて、このメッセージを終えるにあたって、最後に「信仰の優位」という事を、今一度、繰り返しておきたいと思います。

私が、このメッセージを通じて言いたかったことは、ただ一つ「信仰の優位を取り戻せ」という事です。この、信仰が地に堕ちた時に、人類の堕落が始まり、日本人の堕落が始まった、と言えるのです。

私は、日本人とは、大和民族とは、本来、神と共に生きて来た民族であると思います。その心の底に、神が常に在った民族であると思います。神と共に生きて来た大和民族。それが、一時的な、西洋デモクラシーにかぶれる事によって、本来の神を見失った姿、これは、如何ともし難い現状です。許し難い現状であろうと思います。

信仰の優位を、何ものにも勝るもの、として考えなさい。

あなた方は、食糧と信仰との、どちらを取るかと迫られたならば、迷わず信仰を取りなさい。地位と信仰の、どちらを取るかと言われたら、迷わず信仰を取りなさい。金銭と信仰の、どちらを取るかと言われたら、迷わすに信仰を取って行きなさい。この世の命、生き長らえる事と、真実の信仰に生きる事と、一体どちらを選ぶか、と問われたならば、迷わず信仰の道を取りなさい。神に愛される生き方こそが、本来の人間の生き方であり、これ以外の生き方は無い、という事を知りなさい。

信仰の優位は、これは、全てに勝る優位であるという事、全ての地上人に言える優位であるという事を、そして、この地上を去った時に、あなた方を、限りなき高みまで導いていく力も、また、その信仰の力のみである、という事を、それが、この信仰の力そのものである、という事を知りなさい。

信仰とは、結局の所、限りない高みにある、神のお姿、実相の神の胸元に、御元に、戻って行くための力である、ということです。そして、これが、全てである、という事なのです。

神は、地位も名誉も金銭も無くとも、崇高なる存在として存在しています。そして、人間も、また、そうしたものへと回帰して行くものとして、創られているのです。

私は、あなた方に言いたい。皆さんは、心の中の小さな出来事、だと思っているかも知れませんが、心にあるものこそが全てである、という事です。心の中に現れて来るものが、あなたが何者であるか、を、全て、雄弁に語っているのです。

心に邪悪なる事を思ってはなりません。心は常に澄んでいなさい。心は常に清くありなさい。心は常に神の方に向いていなさい。心が神の方に向いている、という事が、即ち、あなた方を救い、あなた方を悪より守る事となって行くのです。あなた方を、地上的なる誘惑から守って行くという事になるのです。

地上の悪を去りなさい。そうしたものに染まってはならない。また、害ある人の言葉、こうしたものに、心傷つけられてはならない。心を汚してはならない。ただ、神のみを振り返りなさい。そして、神が見て下さっているのだから、自分は、その神のために生きているのだ、と思いなさい。

たとえ、全てを失っても、信仰だけは失ってはなりません。これは「衣食足って礼節を知る」と(は、よく)言いますが、(本来は、)この世的なるものが満足されて、初めて、信仰というものが出て来る(ということ)ではないのです。

信仰というものは、全ての元(もと)、全ての根本、全ての始まり、全ての終わりです。これは、始まりであり、終わりなのです。これが全てなのです。神あってこその地球であり、神あってこその人類であり、神あってこその宇宙なのです。神なくしては何も無いのです。

皆様方が、どの様に努力して農作物を作ったとしても、それは、結局、あの太陽の恩恵を受けているのではないでしょうか。無料で熱を供給している、あの太陽の恩恵を、受けているのではないでしょうか。神とは、そうしたものです。神は、徹底的な善であり、圧倒的な慈悲の姿をとって、この大宇宙に、生きとし生けるもの、全てを育んでおられるのです。

さすれば、地上の皆さんは、この、信仰の優位という事を、これを胆に銘じて頂きたい。選択に迷った時には、信仰の優位を取ることです。それが、長い目で見て、神の悦(よろこ)ばれる道である、という事なのです。

地上には、茨(いばら)の道もありましょう。谷間の道もありましょう。岩陰の道もありましょう。厳しい山道もありましょう。崖(がけ)を登ることもあるでしょう。しかし、どんなことがあっても、信仰という名のザイルを、信仰という名のロープを、決して手離してはなりません。神の裾(すそ)を掴んで離さないことです。神の手を握って離さないことです。そして、ただただ、ついて行くことです。

やがて、あなた方は、かつて経験したことがない素晴らしい世界へと、入って行くようになるでしょう。そこは荘厳(そうごん)な世界です。神々の世界です。素晴らしい光に満ちた、安らぎに満ちた、幸福に満ちた世界です。それを、日本では、高天原(たかまがはら)と言いますが、(他の国々では)他の言葉で呼ばれる世界でもありましょう。

私は、この私のメッセージを読まれる皆様が、一人でも多く、こうした、私達の、光あふれる世界に、還って来て頂きたいと思うのです。私は、皆様に、お願いしておきたいのです。

皆様方の中には、元々、光輝く魂もあるでしょう。そうした方が、光輝く世界に還って行く事もあるでしょう。けれども、この地上の目的は、決して、元々、光輝いた方が、光輝いた世界に還る事にはない、という事です。

この地上というものは、大いなる教育の場であり、これを通過することによって、今まで、光輝いていなかった者も、燦然(さんぜん)たる光を放つ様な、そうした、魂の修行場として創られているのです。

従って、私は、この、私のメッセージを読む人々の中の数多くの方が、高天原に、初めて入って来られる事を望みます。そして、高天原に入って来る条件とは、信仰の優位という事を、心に刻んで、その道を、まっしぐらに歩いた方である、という事です。

人間心を捨て、地上の心を捨てて、ただ、ひたすらに、私の許へ向かって歩いて来なさい。

天照への道は、全てに通じる道です。この一本の道を、自らの信念に基づいて、ただただ、真っすぐに歩いて来なさい。そこに、私が、大いなる手を広げて、皆様方を待っている姿を、見る事もあるでしょう。その日を楽しみにして、また、あなた方の大いなる成長を、楽しみにして、これからも、また、あなた方の世界を、この地上をも、照らして行きましょう。それが、私の永遠の使命でもあるからです。

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