アセンション アシスト ASーAS

地球とは、本当はどういう所でしょうか、情報を集め、知っていくページです。

霊界通信3の10、低級霊と地獄の真実、天照大御神のメッセージ

2021年02月10日 | 教育
天照大御神のメッセージ、掲載を続けさせて頂きます。アセンション後の地球には、地獄的領域は存在しなくなると言われております。ここでは、アマテラス様は、いわゆる地獄と低級霊(あるいは地獄霊?)について語られています。アセンションの為には、私達も自分の中の地獄的な部分を浄化しておく必要があるのではないでしょうか。

(ここから)

低級霊への考え方というのは、非常に難しいものがあります。その言葉自体の中に、彼らに対する軽蔑の念がこもっているからです。

ここに、二つの、二律背反する価値が存在します。一つは、人間は全て神の子であり神の分け御霊である、という考え方です。今ひとつの考え方は、しかし、人間には、やはり、魂の高下がある、という考え方です。

確かに、本質的に見るならば、全ての魂は神より分かれて来たものであって、その、神より分かれて来たという点において、一点の疑問も差し挟む余地はないのです。しかし、神より分かれて来た者であっても、その人生行路をどの様に渡って行くかという事に関して、自由性というものが与えられているのです。

例えば、子供に対して、母親が、真っ白の体操服、トレーニングウェアという物を与えたとしても、子供は、それで野球をし、相撲をし、体操をしているうちに、やがて泥んこになって行くでしょう。泥んこになった体操着は、それ自体が元々汚れていたかと言えば、そうではない。元々は純白の物であったと言えましょう。

この(譬えが例示する)意味において、私は、彼ら(低級霊)が、現在、悪という姿、低級霊という姿になっているという事は、元々、真っ白な服を与えられているにも関わらず、それが汚れた状態にある、という事だと思います。

如何に優れた子供であっても、如何に素晴らしい子供であっても、泥んこで汚れた姿で、家の中に入れ、食事をさせ、そして居間で自由にさせ、布団の中に入れる母親はいないでしょう。そうした子供を見たならば、まず、その服を着替えさせることを勧めます。また、手や足を洗うことを勧めるはずです。そうでなければ、いくら食事がしたいと言っても、その願いは叶えられませんし、いくら布団の中でぐっすり眠りたいと言っても、その願いも叶えられないこととなるでしょう。

この様に、低級霊というものは、やはり(魂の在り方の)本質ではない。本質ではなくて現れ方である、というふうに理解する事が大事であろうと思います。やはり、心が、いろんな事によって汚れていたり曇っていたりすることが、低級霊の本質(本当の意味)であって、それは、彼らが、本来、その様に創られているという事ではない。素晴らしい物であっても、それをどのように使うかという事が、各人の責任において任されている、という事が、その本質にある訳です。

真っ白な体操着を与えられたからといって、それを、全く汚さない様に、いつも居なければいけないか、と言えば、そうではありません。そうであればスポーツというものは出来ません。ただ、汚れた服ならば、それを取り替え洗濯するという事が大事だということです。ここに、禊ぎ祓いの考え方が出て來る訳です。地上というものは、そうした泥や汚れの付き易い世界であるために、これを、常々、よく洗濯し美しいものとして行く必要があるのです。そうした事をしないと、本当に素晴らしい本来の色、これを取り戻す事が出来ないのです。

従って、私は、地上の皆様に申し上げたいのですが、本来、悪人は居ないという事。本来、低級霊も居ないということ。本来、根本から間違っている方は居ないという事。これを信じて頂きたい。喩え、どの様にその姿が悪人として現れているとしても、本当にその方が悪人として生まれついている訳ではない、という事です。

それは、全ての人の中には、優しい気持ちというものがあるからです。どの様に悪人として世を渡っている方であっても、その中に、一片の優しさは必ず潜んでいるものです。その優しさがあるという事が、即ち、その方が神の子であるという事実を示している、と思うのです。神の子であるという事実は、こうして明らかとなって行くのです。

(ここからは、地獄について語られます。)

地獄について語られた書物は、数多いと思います。また、日本においても、昔より、地獄絵巻であるとか地獄図であるとかいうものが示されて、そこには、大変な厳しい環境かあると言われています。西洋においても、地獄についての話は種が尽きないようです。先進国のみならず、後進国においても、地獄についての考え方が、どこの国にもあります。

さて、しかし、現代の日本人で、地獄を信じている人は数少ないと思います。「そんな事をしたら地獄に堕(お)ちるぞ」と言われたとしても、それは、ほんの笑い話としてしか受け留められないのが事実です。しかし、現に、地獄と称されるものはあります。

それは、本当に、物理的なる姿として、例えば、血の池であるとか、針の山であるとか、そうした所が、ある訳ではないのですが、心の世界として、心の風景として、そうしたものがあるという事です。

それは、皆さんのうちの多くの方々は、悪夢というものを見られた経験があると思うのです。悪夢の中で、皆さんは、恐ろしい姿をした動物であるとか人間であるとかに、襲いかかられたり、命を取られそうになった経験があるでしょう。その恐怖の思いがあるでしょう。実は、地獄の世界というものは、そうした悪夢の世界と全く同じ世界だと言ってもいいでしょう。

夢の中では、様々な奇想天外な事が続々と起きますが、実際の霊の世界においても、こうした夢で見るのと同じく、奇想天外な事が数多く起きて来ます。それは、一見、無秩序に見えたり脈絡(みゃくらく)がない様に見えますが、その通り、いろんな物が目の前に現れ、いろんな経験をさせられる様になる。気が付けば、一転して、全く違った場所に出ている。こうした事が、よくある様になって来ます。

この、夢の世界、悪夢の世界というのは、大多数の人は、実は、その魂が睡眠中に肉体を抜け出して、地獄の世界を彷徨っている事が多いのです。そうして、あの世の世界というものを、いち早く勉強させようとしているのです。そうした魂の経験をしているのです。

それゆえ、地獄とは何か、が、分からないとすれば、悪夢の世界だと思えばよいのです。

(人によっては、)こうした夢現(ゆめうつつ)の世界が、死後に続いているのです。

実際、それは、その通りであって、(肉体を離れて後の心象的世界において)地獄にいる大多数の人達は、生前、神を信じず、また、霊を信じず、死後の世界の事を信じていなかった方々です。彼らは、地上を去っても、自らが、一体、何をしているのか、どういう生命(いのち)を生きているのか、という事に関して、信頼出来ないでいるのです。自己認識が出来ないでいるのです。白分が、(いま現在、)一体どの様になっているのか、という事が、分からないでいます。それ故、悪夢の中を漂(ただよ)っているのと、全く同じ状況となって行きます。

そうした方が、やがて、自分の姿をつかみ、自分が地獄に居るという事を分かるまでに、かなりの時間を要するようになります。早い人ならば、もちろん、数日位で分かって行きますが、遅い人であれば、三年経っても、五年経っても、十年経っても分からないでいます。ただ、地上時間で言って、五十年、百年と経って行った時に、どうやら、その悪夢の世界が白分の住んでいる世界である、という事だけは、はっきりと実感することが出来る様になって行きます。

ただ、彼らの大多数は、それが地獄の様に見えたとしても、自分は、たまたま、こうした世界に居るだけであって、何とかして、ここから脱出しようと思うのです。間違って自分はこういう世界に紛れ込んだのだけれども、何とかして、この世界から逃れ出したい、というふうに考えているのです。

けれども、残念なことに、地上で生きていた時に、なぜ自分が地獄に墜ちるという様なことになるかという事を、知らないままに生きていたのです。何が善で何が悪かという事を、知らないで生きていた。地獄などは、ほんの笑い話、昔話として一笑に付していた。ところが、それが現実に現れて来た時に、自分は、すがるべきものが何もない、という事を知るのです。

この意味において、地上に居た時に何らかの宗教に属していた、という事は、一つの救いになる事はあります。それは、そうした宗教に属していたという事によって、その魂の中に、一条の救いの道が用意されているからです。即ち、自分の信じていた教えを、ひたすらに思い出すという事によって「反省」という方法が与えられたり、或いは「祈り」という方法が与えられたりするからです。そうする事によって、その宗教の指導をしていた高級霊達が、その方を導こうとして努力し始める、という事が言えるのです。

私は、この意味において、地上に生きていた時に、何らかの宗教心を持って生きるという事が、とてもとても大切である様に思います。そうした気持を持って生きるという事が、結局は、死後の世界においても一つの救いとなっている、と思うのです。

思考の材料、考える材料を持たずに生きて来た人ほど、哀(あわ)れな存在はありません。彼らは、藁(わら)にもすがるつもりで周りの人に救いを求めようとするのですが、そこに、知った人が誰も居ないのです。この意味において、生きている時に、魂の教師役、先生役を持っているという事は、とてもとても大事な事であろうと思います。

もちろん、何が正しい教えであるか、何が本当の宗教であるか、という考えに関しては、多様な物の見方が出来るわけであり、そうして、様々な教えの違いが同時代の混乱を生んでいる事は事実でしょう。ただ、二千年もの歴史を持っていて、今なお、多くの人を引きつけている教えは、やはり、それだけの内容があり、それだけの指導霊達が居るという事は、事実であろうと思います。

何が本物であるか、という事が、分からないのであるならば、歴史的に名のある教えにつけばよいと思います。それは、仏教であっても、キリスト教であっても、神道であってもよいと思います。また、そうした古い教えで物足リなぃ方は、新しい教えの中で、非常に、自分の納得のいく教えがあったならば、それに、ついて行く事も大事であろうと思います。

また、現在、私達、高天原の高級諸霊が、この様な形で、地上にいる皆様に、続々と教えを伝えておりますから、こうした教えを生きているうちに学んで頂くことによって、あの世に旅立たれた後に、迷わずに、もと居た世界に還って来れる、という事があると思います。

いずれにしても、地獄の存在(に)は、魂の真実に関して無知なる人々が数多い、という事に起因していると思います。もっともっと、多くの人達は、魂の真実に目覚めて行かねばなりません。そうしなければ、本当の意味での地獄からの脱出という事は、決して出来ない訳です。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿