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地球とは、本当はどういう所でしょうか、情報を集め、知っていくページです。

宇宙法話(今文明の意義と役割)、マイトレーヤーのメッセージ

2018年12月11日 | 歴史関連
マイトレーヤという方が、オリオンという宇宙領域から地球に来られた経緯については、既にご説明しました。ここでは、オリオンのブッダと喩えられるような立場から、仏教の法話を思わせるようなお話もされておりますが、仏陀の教えというものは、本来が宇宙の真実だという事で、内容は、当然、共通しているはずです。意味内容を変えないように編集しております。カッコ内は補注です。


(ここから)

我は、マイトレーヤーにして、クザーヌスなり。

今、ここに降臨し、そなたたちに、今後の、この文明の意義と役割、そして、今がどのような時を刻んでいるのかを伝えに参りました。

かつて、アトランティスの時代に、(私は、地上に出て)高度な科学文明で、文明の最盛期を花開かせ、(地上の人々を)指導したことがあります。

今回の文明において、九次元指導霊は、仏陀、イエス・キリスト、エル・ランティ、モーゼ、このような方々が、主導で導かれ、研究されている文明ですので、わたくしは、敢えて表には出ず、裏方として、エル・ランティの補佐役を致して参りました。

このような時代に、今、このような世界的危機を迎え、かつてのアトランティスの末期に、とてもよく似ていると思うのです。かつてアトランティスの時も、行き過ぎた科学信仰が、愛を説かれたアガシャー大王、後のイエス・キリストを抹殺してしまうという悲劇的な結果を生みました。

(今回の文明においても)イエス・キリストは、ユダヤの地において、いちばん大切なのは愛の教えである、と、先に、心の大切さ、愛の大切さを教えられたはずなのに、後半になって急激に発達した科学文明の中で、人々は、今また、科学の信仰に思い上がり、神の子としての神性を、愛の心を失って来てしまったのです。

わたくしは、かつて(アトランティスにおいて)「理神論」というものの中で

「科学というものと神の愛の心とが同時に存在し、その両方を追求していくことが、本来の創造主のご希望であるのだ」と

「両方を追求せよ。そうすれば、どちらにも偏らず正しく進化し、成長を遂げていくことが出来るのだ」と

そういう、悟りの段階論を(地上の人々に)教えた者なのです。

仏陀もおっしゃられたと思いますが、何事も中道ということ。今日的に言うならば、バランスが大事なのです。どんなに愛の心を持っていても、古代の不自由な文明の中にいては、やはり、その先の、進化発展は、人類には起きないのです。

(地球が)指導的な星となって行き(地球人類が)宇宙の指導者となって行くには(科学の発展が欠かせず)やはり(通常は)高度な科学技術を持った星々の方々が、精神的な進化を遂げ、この宇宙のリーダーシップをとる星となっておられるのです。

かつて、エル・ランティが、ベーエルダ星から、大挙して、この地球に肉体をお連れになった時も、相当な科学技術があったればこそ、肉体舟を、この地球に持って来る、という快挙を成し遂げられたのだと思います。

神の御心の中には、科学を否定するものはなく、(科学を)進化発展させて行くということが、決して神の心に逆らうものではないのだ、ということを、その(アトランティスの)時、わたくしは説いたのです。原始的な信仰の中で、あぐらをかいていたのでは、地球文明としての進化発展は、なかなか望めなかったのです。

しかし、後世の人々は、何を勘違いしたのか、科学文明こそが全てであり、利便性を追求して行くことが全てである(と思い)、結果的に、この目に見える地上の物だけが、人生の、生きる目的の全てである、という勘違いを起こし、神の心を忘れ、信じ合う心、愛し合う心、許し合う心、地上の人間達を越えた、我々、神々を崇拝する謙虚な心持ち、その全てを忘れ、この地上の文明に驕り、浸り切ったのです。

この、地球という惑星は、地上的な、物質の固まりにしか見えないかも知れないけれど、神のお心を、この物質界に表した、神の思いの具現化としてのお姿である、ということなのです。

石ころひとつ、草ひとつ、水一滴に到るまで、それは全て、神のお姿であり、神の血液であり、神のエネルギーの表れた姿なのです。全ての物質に神が宿ります。いかなる物質といえども、すべて神の子なのです。

どんなに高速の円盤をつくり、素晴らしい高度な科学技術で、あらゆる物を、この地上に造り上げたとしても、それが、地上の人間である、神の子達に表し賜うた、神の創造性の表現体であるという、その役割を、我々が担って、この地上を彩り、繁栄、発展させているのだ、という思いがなければ、この科学文明をよしとする(文明)進化論も、ただただ、醜い物質主義の流れの中で、今日的に、この文明を破壊する原因の一つと、なって行ってしまうのです。

あなた方は、分かっているのでしょうか。神のお心があって、神の愛があればこそ、この地上に生命を受けているのだということを。

神の子であるという、その原点を忘れて、それ以外の進化発展など何もないのです。なぜ、それを、こう幾たび転生し、文明を変えて、様々な実験をして来たにも関わらず、あなた方は学んでいないのであろうか。わたくしは、とても残念な思いがしています。

なぜなら、科学文明、物質も、また、神の子の進化に必要なものである、という教えを説いた者の責任として、あの時、説いた教えが、その後のアトランティスを決定し、悲劇的な結末を生み、そして、今回の文明においても、科学文明と、神の子としての信仰心が共存できないという、その結果を、今の時になって露呈しているように思うからです。

どうか、ご自分達の科学文明を、誇らしく思うと同時に、あなた方が、神の分け御霊である、(神から)分かれて来た、神の子としての神性が(自分には)あるのだ、ということを、同時に、誇りに思って頂きたいのです。

神の子としてのエネルギーに、皆んなが、一人ひとり、今ひとたび、気付かなければなりません。その為に、数々の使者を送ったはずです。そして、今回、その今回の文明の総決算として、巨大な、神の国からの計画が降ろされていたのです。

エル・カンタラー自らが下生され、ラメントス、ヘラ様という方が、エル・ランティの許にお出になられ、何段にもわたり、その最後の完成をするはずでした。

しかし、いつも、ネックになったのは、科学文明を先に出して、愛の教えを(後から)降ろして、科学文明崇拝が愛の教えを殺した、という、アトランティスの失敗を、今度こそは、逆の形を取ることで成功させよう、と思ったにも拘わらず、この三次元に生まれた方達は、たとえ最後に出会った、科学文明(において)ですら、この地上の、物質の虜となってしまったのです。

どちらを先に出しても、この地上の人々の心は、物質的なものに目が眩むのだ、ということを、我々は、つくづくと認識致しました。

目に見えぬものは確証がなく、目に見えぬものは、生きていく上で、頼りなく見えるのかも知れません。けれども、目に見えぬものこそ、本当に大切なものである、という教えを、信仰を、わたくし達は、上の世界から、数々、降ろして来たはずです。

ゼウス然り、モーゼ然り、仏陀然り、マホメット然り。そして、日本神道を含め、多くの神々が下生せられ、多くの信仰と教えを地上に蒔かれたはずです。それでも、この地上の者達は、簡単に、神を捨ててしまうのです。

神を捨てて、おのれが神の子である、という事実を捨てて、あなた方は、死んだ後、どこに帰って来るつもりなのか。どこに行くつもりなのか。

この地球の表面に、一時、しがみつくだけの、そんな価値のない、そんな小さな生命でしかないのかと。わたくしは、地上の方々に問いたいのです。

長い長い転生の時を越え、永い永い文明を変遷し、わたくしも、そして、今ここにおられる、あなた方も、今回の文明の前には、アトランティスにも出られ、ムーにも出られ、それぞれの時代を、それぞれの文明を、学んで来たはずなのです。

それにも拘わらず、多くの方々が、何が一番大切なのか、それを読み取ることも、考えることも、自分の力として、智慧として蓄えることも、失敗しているのではないでしょうか。

さて、今回、特に思うのは、仏陀サンガーとか、イエス・キリストの弟子とか、九次元が、それぞれ、多くの弟子を抱えております。その者達が、今回「我こそは」と出て来られたにも関わらず、こんなにも簡単に、地下の者達の罠にはまり、落ちて行っている、ということです。言い方はきついかも知れませんが、生悟りなのです。

地下の者に、心を引っぱられるのは、おのれ自身の心の中に、やはり、物質的な物に対する、隠れた執着が多い、ということなのです。逆に、仏門や神の道に勤しんでいたからこそ、物質に対する、この世に対する憧れが、増大していたのかも知れません。そこを突かれたのでしょう。

どうか、申し上げたい。おのれを捨て、無心の思いで神に仕え、神の子として、神の使者としての人生を送って頂きたいのです。

天上界にしても、このようなことは、お考えになられていた計画であったけれども、このような時期に、このように軌道修正するとは、やはり、多少慌てている所もあるのも事実なのです。

かつてのノストラダムスの予言も、大幅にずれております。この地上を、もう一度、救世の計画を組み立て直し、新たな人材を降ろすことで、立て替えをしようとしております。

やはり、我々の世界で計画変更したことなので、あなた方は、恐らく、我々が、何を望んでいるのか理解できず、途方に暮れておられるようですが、それも無理もないことなのです。我々も、このようになった状態で、この先、どのように動いていくのか、今、見ているところです。

わたくし達、九次元の者達にとっても、今回は、少々、参りました。とても、いい勉強をさせて頂いている、と思っております。我々、九次元たりといえども、上の創造主から見れば、まだまだ、赤子同然です。個性があり、そして、地上に出た時は、全ての人々と同じに、記憶を全て消され、一から出直すのです。

指導者といえども、まだまだ、修行の身です。そのことを、我々一同、初心に戻り、深く学ばせて頂きました。彼が帰って来た後、我々の世界でも、指導が、どのように行き届かなかったのか、そんな反省を行っていきたい、と思っております。今は、ただ、この難局を、どう乗り切るか、どういうふうに決着をつけていくか、それで、みな必死なのです。

この地上に、神の光が満ち満ちますように。この地球が、愛の星として、今ひとたび、光りますように。

十次元からも、今、応援を受け、多くの光のエネルギーを、地上に降ろしております。そうしてバランスを取らなくては、この地上は、闇の中へ落ちてしまうほどに、今、暗い暗い波動に覆われているのです。

この文明が、どのような結末をつけるのか、今、まだ判らないのです。我々から見ても、分からないのです。これから先、人類が、何を選択していくかで(変わって行くことでしょう)。ただ、今、天変地異も、さして酷く起こらず、持ちこたえているのは、十次元からの協力で、マイナスの強い波動に対して、プラスのエネルギーを、強烈に降ろしているから、辛うじてバランスを取っているのです。この、神の支える手が払われた時、かつてのアトランティスと同じ最期を迎えるのか、まだ、結論が出ていないのです。

その為に、今、幼い魂達が、捨て身で(地上に)出ております。孔子も出られました。果たしてバトンをうまく渡して行けるものなのか。この混乱状態から、次の、光の天使達が、法灯を受け継ぐことが出来るのか。それを、じっと、わたくし達は見ております。今ひとたび、持ちこたえて下さい。そして、諦めないで下さい。諦めないこと。希望を、次の時代に継ぐこと。

どんなに深い闇があっても、光を信じ、神を信じ、多くの人々を、神の子として目覚めさせ、この地上を、今ひとたび光で覆うこと。その計画の中で、孔子も出ておられます。

アトランティスの二の舞をさせては、絶対にいけない。そうでなければ、人類は、何も学ばなかったことになるのです。科学と信仰(の共存)、それが、この地球人の、地球に課せられた使命でもあるのです。

エル・ランティが、もとの星、ベーエルダの方々から分離独立して、この地上に降り立たれた時から、あの星の方々は「それは無理だ」と言われた方々です。そして「両立し得る」と言って船団を率いて来られたのが、エル・ランティなのです。その方が、この地球を授かり、そこで、地球人としての修行が、文明の実験が始まった、ということは、この「信仰と科学の共存」このテーマを避けて、次の地球の文明段階に至ることは出来ないのです。失敗しても、また、次の文明で、また似たようなことを、実験して行くことでしょう。

あなた方が名も知らない、幾億の天使達も、あなた方に、頑張るように、激励のエールを飛ばしております。

わたくしは、マヌ、カイトロン、そして、この者(チャネラー)と一緒に、かつての昔、オリオンから来た、そういう者です。わたくし達の星は、調和に満たされ、愛に満たされ、芸術と人々の間に、大調和を実現していた星でした。人が集う所には、当然、それなりのトラブルと申しますか、問題があるのは、どこでもあるのですが、神のお心が、その星の方針として、多くの人々の心に調和し一体となっている、そのような星であったと思います。

そうした星では、人々は、悟りで、それぞれが、神と一体として生きる、ということが一般化されておりますので、九次元の者も、相当数おります。星の指導者としての役割があり、そのような星になりますと、あの当時の地球のように、これから星としてスタートをし、一つの文明を(通じて)、星としての使命を果たして行こうという、そのような修行場(としての)修行過程にある、未開発と言ったらなんですけれども、そういう星への指導者、指導的な立場にある星としての使命を、神より預かっているのです。それゆえに、我々は、指導者、ないしは教育係として、色々な星に派遣されるという役割があります。

オリオンは、美を体現した星でしたが、感性だけではなく、やはり、法、悟性というものを全て含めて、科学技術においても、芸術においても、法の極みにおいても、人の、神の子としての人倫の道において、法道徳についても、それなりの進化を遂げた星であったと、わたくしは思います。

ですから、オリオンから地球に招霊された時に、まず、地球に、科学を進めていかなくてはいけない、ということで、科学の部門から、九次元の悟りを開いた、カイトロンという者を伴い、さらに、芸術、感性を通して悟りを開いて、九次元レベルになっておりました、マヌという者も伴って参りました。そして、前回の大移住の、その計画の、グループの責任者として、わたくしが立っていたのです。

わたくしには、神のお心、神の法がどこにあるのか、それを伝えるメッセンジャー、地球における仏陀のように、オリオンにおける仏陀、というふうな位置づけの、そういった役割があるのです。

皆様方の意識を見ておりますと、オリオンというと、芸術、感性だけが突出した星であるように、まあ、マヌの人気によって、誤解なさっている所があるのかも知れませんが、非常に美的な部分、感性を通して、法を表現していますし、テレパシーという、普通の人間が感じる以上のものを、感性でとらえて、神のお心をキャッチしていく、それに優れた者が多いのも事実です。

しかし、科学の分野でも、とても優れておりますし、法を学ぶという、あなた方が黄金光線と呼ばれる方達が、おやりのようなことについても、究極的に極めた、悟りの高さをも持っているのが、オリオンである、ということも、申し上げておきたいのです。その中で、この星の黄金光線的な役割にいて、何が法で、何が神のお心であり、何が神の望まれる道であるか、ということを説く為に、わたくしは、常にいる者です。

そして、オリオンから来た使命としても、教育者としての部分、新たなる星に行って指導する役割を、常に持っておりますがゆえ、ある一定期間、その星が、ある程度の段階になるまで協力をして、またオリオンに戻るなり、別の星から招霊されたなら、別の者達を伴って、別の惑星に行って、その星を次元アップさせていく、成長させていく為の指導者として、別の霊人達を伴って移動する。それを、わたくし達の星の使命としております。ですから、オリオンがリーダー的な星であることは事実です。そのようにお考え下さい。

今は、(地球霊界の)九次元には十人おり、それは皆様方ご存知でしょうが、その中で、モーリャが赤色光線、マヌが緑色とか、インマヌエル、ホワイト霊団は白と、そういう色々な色付けに、皆んな分けております。しかし、それが、宇宙の中で、光線によって地球に招霊された訳ではないのです。それは違うのです。

地球には、地球意識があります。地球という惑星を創るために、その身を投げ出し、修行場として、その身を犠牲にして、わたくし達に修行させて下さっている、九次元を超える十次元意識の、地球意識の方がおられます。それに対する月意識、さらにその上に太陽から出ている大日意識が居られるのです。その上の世界から、光線が地球に降りて来る訳です。それを、わたくしは、エル・ランティの補助をしながら、プリズムで、七色の光線に分光していく役をしているのです。そして、光とは何であるかと申しますと、神のお心、神は、光そのものなのです。

神は愛であり、愛は光です。その愛のエネルギー、神の、全ての大宇宙を、あまねく照らし、生かしむ、その愛の光が、この地球においても、上から降ろされて来るのです。その愛のエネルギーにより、地球意識も、地球における全ての植物、動物、全ての生命体が、霊性、霊的なエネルギーを得て生きているのです。それを、まず、分光する、最初のプリズムをしているのが、わたくしやエル・ランティなのです。

そして、分光した時に、七色の光線が分かれていくのです。それは、神の光の一つの役割、使命です。赤には赤の役割があり、黄色には黄色の役割があり、緑には緑の役割があります。その役割をもって、この地球を、豊かな、神の愛の表現体として生かすよう、使命を果たすよう、七色に分光しているのです。実は、詳しく言うと、七色ではなく、詳細に見るなら、何十通りにも、神の光というのはバリエーションがあるのです。

ただ、大きく見た時に、七色に分かれて行くということ。その七色が分かれて行く時に、我々九次元、十人が、それぞれ担当している、ということなのです。それぞれの個性に応じて、一番得意とする分野の指導を、自分達が買って出ている、ということなのです。

今回は、地球において、法を、地球の法として確立する。それは、この、(今文明で)仏陀と呼ばれている、エル・カンタラーと言われる方、一番、地球の中で、永い、生命体で居られますので、その方が、地球の法とは何であるか、ということを築き上げる、黄金光線、黄色の光線を、仏陀が担当されている、ということなのです。

そして、愛を説かれるインマヌエル、あなた方の言葉では、イエス・キリストと呼ばれている方が、ホワイトという光線のことを、担当されておられる。正義を説かれるモーリャという方は、非常に力の強い、正義感の強い方です。その方が、赤の、本来持っている赤の個性を「じゃあ、わたくしが担当しよう」ということで担っておられる、ということなのです。また、緑やブルーは、ゼウス、マヌという方が、それぞれに分けたり、一つの個性を、お二人で兼任なさっているということがあると思います。

では、絶対に、これが変わらないかと申しますと、わたくし達のような長い目で見た場合には、時々、光線の役割は、変わる時があるのです。わたくしも、本来であるならば、法を担当できる部分におりますので、わたくしが、もし「黄金光線をやれ」と言われたら、やはり黄金光線をやるわけです。ただ、地球の法として、どのような地球の法、オリジナルを確立するか、という立場になりますと、地球に、ずっと最初からおられた、エル・カンタラーがおやりになるのが適切ではないか、と思いまして、わたくし自身は、法を担当する者でありますけれども、エル・ランティの補助という立場で、分光という作業をしているのです。

ですから、我々が、もともと、色のついた光線として神より創造されて、そして、その光線の中だけでしか使命を果たせない、というふうに思われるのであるなら、それは、ちょっと思い違いであるな、と思います。たまたま、地球の歴史の中で、我々、九次元の十人が担当している、ということ。そのことを、思いおかれれば、よろしいと思います。

神は、全てのものに個性を与えられました。その者でなければ果たせないような素晴らしい能力は、わたくし達、九次元の十人でなくても、あなた方、一人ひとりにおかれても、素晴らしい才能、能力をお与えになって、神の子として、この地上に、いや、この宇宙に創造なさったのです。ですから、あなた方自身の色、あなた方自身の個性というものを、どうか探求して、ご自分の光、光線を輝かされることを、わたくしは、心より望んでおります。

この地球において、諸霊人が出て来られて、あなた方に話しておられる、今の位置付け、ということを、あなた方が、どのように思われているか。今の地球の時期、今のポイントというもの、それは、あなた方が考えている以上に、限りなく価値が高く、そして、全宇宙的に見ても、地球が進化し、レベルアップするために、待ち望まれて、待ち焦がれて用意されて来た、大事な大事な時であるということ。そのことを、あなた方に、重ねてお伝えしたいのです。

神は、永遠という時間を、わたくし達に与えて下さいました。あなた方のように、肉体を持っていると、地上に置かれる百年足らずの時間が全てであり、死したならば全てが無くなる、と思う、そのような短いスパンの中で、考えておられるのかも知れない。

そうではない。転生輪廻をし、肉体は、また、来世にもあるのだ、と、天上界に行けば、命は永遠である、と分かっているあなた方であったとしても、わたくし達が、この地球と共に歩んで来た、気が遠くなるような、永い、永い連鎖の中で、この地球が、どれだけ大事な時期にあるか、ということ。それを、あなた方のように正法を学んだ者であっても、今の重要性ということが、分かっておられないように思うのです。

理解しろというのが無理なのかもしれません。それは、肉体を持ち、地上に、三次元に生きている、あなた方にとっては、当然なことです。でも、わたくし達、霊天上界、この地球と共に永いこと歩んで来た者と致しますと、地上における、この時期に、ありとあらゆる宇宙の法というもの、明かされるべき天上界の秘密というものを、出来る限り地上に降ろし、そして、多くの人々に、神の子としての意識、魂の永遠性、神が愛そのものであり、愛のエネルギー、愛の法則そのものであり、それに同調することが一人ひとりの神の子としての本来のあり方であり、その神の愛のエネルギー、法則に同調することで、己自身の神の子としての光が輝き渡るのだ、ということ。それこそが、繰り返し、わたくし達が、霊人達を通して言いながら、あなた方の心に、しっかりと根づかせなければいけないことなのです。

神の子であるということ。それを、まず信じること。そこが、最初のキーワードであると思うのです。

多くの方々は、人間は、肉体だけであり、魂などはなく、来世もなく、死んでしまったら、それで全て終わりであるという、そのような価値観の中で縛られ、この地上において、お金だとか、名誉だとか、物であるとか、様々な権力志向や、女性や異性に対する欲、そのようなものに奔走させられるのです。

ですから、永い永い時の流れの中で、幾転生を繰り返しながら、自らが神の子であるということを、まず易しい言葉で、しっかりと、あなた方が根付かせねばなりません。そのような永い時を与えられているなら、悪いことをして生き延びることよりも、たとえ殺されても、神の義というもの、正義というもの、神理というもの、愛のために生きて、そして殺されて死んで行っても、その者は、ますます輝き、我々の世界に戻って来て、素晴らしい役割を与えられていくのだ、ということが分かれば、いたずらに肉体を守るための、つまらぬ争いをしなくなるでしょう。それを、まず、あなた方は、しっかりと(地上の人々に)分からせなければなりません。多くの者達に、まず易しい言葉で、そこの原点を教えていくのです。

そうすると、いま世の中で起きているトラブルの、何分の一かは、すぐに解決することでしょう。この地上に生きているだけが全てである、と思うからこそ、つまらぬ財産や物にしがみつき、物のために多くの者達と戦い合う、物質万能主義のような、信仰心など何もなくて、目に見えぬ神などないから、(信仰心など)なくてもよいのであると、そのように、あなた方が思ってしまう。根本的に、物質主義に毒され、思考の基盤というものが、なくされていくのです。そこを、まず、打ち砕かなくてはなりません。

次の時代に行くということは、この物質科学万能信仰の中に、愛の原理というものを流し込んでいく、ということです。愛とは何であるか。神であり、神そのものの姿であり、わたくし達、一人ひとりの根源的な姿が、愛の表現体の一部である、ということを、悟らしめることにあります。

まず、高橋信次、エル・ランティが、この日本に出られて、物質的に凝り固まった所から、人々を、霊的な、魂の中に導くための、根本的な法を降ろされたのです。つまりは、高橋信次、エル・ランティがおっしゃられたことというのが、原点の中の原点であった、ということです。それが、本当の意味で、今の日本に、世界に広がって行ったのなら、今のような、暗たんとした現実というのは、なくなっているはずなのです。

しかし、広がっていない。現実に、人々は、まだまだ諍いをし、争い合い、苦しみ合っているのです。だから、まず、基本的なことを、人に、いきなり難しいことを言っても解らないのです。あなた方が認識しておられるようなことを、いきなり多くの方々に言っても分からぬのです。

ですから、まず伝えて下さい。魂は永遠であること。死ぬことは少しも怖くない、ということ。幾度も転生を繰り返しながら、人々は学び、いくつかの過ちを犯しても、過ちがあるからこそ人間であるのだと。過ちを、その人の欠点をも含んで、神は愛されているからこそ、永遠の命を与え給うているのであるということ。それほどに、神の愛というのは、慈悲というものは、深く大きいものであるということ。我々は、その大いなる神の愛に生かされている神の子達であるのだ、ということ。そこに、まず気付きなさい、ということを、あなた方は、言わなくてはなりません。

永遠の(因果の)流れの中で、わたくし達は、神の愛により生かされている、永遠の命を持っている神の子であること。そこが、しっかりと認識できたなら、多くの人生観が変わっていくのです。いたずらに物に執着することもなくなるでしょう。いたずらに学歴や地位や、そして、その他の権力欲、自分が幸せになる以上の所有欲、そのようなものが、非常に下らないものであるというふうに、理解出来るようになるのです。愛とは、分かち合いであり、自分達の同胞に対して愛を分け与えていくことが、自らの愛の心を満たし、自らの根本、基盤であるということ。

愛というのは、貪ることではなく、分け与え、分かち合い、自分の同胞達、神の子達の、仲間の幸せを願う姿、そのこと、こそが愛であり、自分の神性として、神の子としての心が、最も喜ぶ姿であるということ。それが、また、大いなる神の喜ばれる道である、ということ。

ならば、多くのものを貪るため、自分が、多くの物を、人を殺してでも所有したいと思う所からは解放されて、自分が、より多く持っていたのならば、持っていない者達に分け与えていく、分かち合っていく、ということが出来たならば、この地球上には、飢えたり、悲しい思いをしたり、物が無いといって死んでいく者達は、なくなることでしょう。

それ位の物を、既に、地球は生産しておりますし、神は、与え給うているのです。一部の者達が独占し抱え込むから、片方の部分で飢えていく、死んでいく者達がいるということ。

以前、誰かが申し上げていたと思いますけれども、もし、他人というか、自分の同胞達、神の子達の、痛みや苦しみや悲しみが、自分自身の悲しみや苦しみであると思う、愛の心があったのならば、そこに分かち合いがあり、協力があり、助け合って行こうという優しさがあれば、その中で、不幸な者はいないし、飢え死にして行くような者達は、誰もいなくなるし、結果として、大調和という、神のお心の姿が、この星に顕わされ、大調和という、この星が、素晴らしい段階に達していく道が示されるのです。

悟りとは、あなた方は、とても難しい、難しい言葉のように思っておられるかも知れないけれども、わたくしに言わせれば、ただ神の懐に還って行くこと、神の懐とは、愛そのものの道のことです。愛というのは、さっきから言うように、分かち合いであり、他者の痛みを、わが痛みとすることであります。そのようなこと、さえ分かっていたならば、それを頭で分かるだけでなく、実行できれば、即、そのまま、この地球は、神の星ユートピアになるのです。

そのことを、あなた方が本当に理解された時に、この星は、難しい難解なお経を読まなくても、難しい修行をしなくても、修行修行と明け暮れることがなくとも、そのまま、この地球に住んでいる者達、全てが、一定の愛の水準に達し、神の星ユートピアヘと、いっきに、一躍跳入、愛の星になるのです。

そのことを難しくして、知的に優秀な者達だけが、神の許へ、悟って行けるのであると、いつの間にか、この地球系神理を、非常に難解なものにしてしまったのではないか、という反省を、わたくしは、多少、持っております。難しいことはいらぬのです。難しいことばかり頭に詰め込むと、一番肝心なことが見えなくなるのです。一番肝心なこと、というのは、さっきから、ずっと言っていることです。

それは、宇宙を見渡しても、多くの進化した星の中で、多くの方達が、愛のために、愛により、愛という神のお心を表現して、ただ、そのままで生き続けている。皆んなで出来ることを、互いに手を取り合って、ともに助け合い、役に立ち合い、自分の星が調和されたなら、自分達の家庭が調和されたなら、他の未開の土地に行って、その星にも愛を分け与えて来よう。別の星、別の銀河に行って、神の愛を表現するため、そこに達するための、お手伝いをしに行こう、という、そのような気持ちにまでなっていくのです。

愛とは、そこまで分かち合って行くことです。彼らは、分かち合うために、義務のように、ノルマのようにやっているのではないのです。少しでも、この神の愛の感動を、多くの方々に分かって頂くという、そのお手伝いをするということ。そのこと自体を自らの喜びとして、自らが感動する生き方として、自分自身が、その生き方を望むからこそ、誰に強制されるわけでもなく、多くの方々に、遥か何億光年も隔てた遠い惑星にまで行って、お節介のように愛を分け与え、惑星の進化のお手伝いをして帰って来るのです。

わたくし達のような星は、そういう意味で、大変お節介な星かも知れません。でも、愛というのは、基本的には、そういうものなのです。自分自らが幸せであるのなら、少しでも、不幸せな人を幸せにしてあげたい。そのお手伝いをさせて頂きたい。そのように望むものなのです。

そして、その方達が、にっこり笑って、神の子としての自分達の使命に気付かされ、輝くような笑顔で、幸せな顔を見せられた時「自分達は一緒に生きて、この方達と一緒にお手伝いをさせて頂いて、なんて幸せであったのであろうか」と、「神よ、ありがとうございます。わたくし達を創り賜うて、ありがとうございます」という感謝の中で、わたくし達は、喜びをもって、自らの使命を果たして行くのです。

あなた方の、あなた方と言ったら失礼ですね、わたくしも地球の神ですから、この星が、ある程度の水準に達した時、そこまでには、まだまだですけれども、あなた方には「中学生レベルになりなさい」というふうなことを言われているかも知れません。でも、この地球が進化を遂げ、中学、高校、大学、そして大学院レペルになって行った時に、地球から他の惑星に行って進化のお手伝いをする為の、教育的なグループが組織されていくことがあると思います。

いろいろな惑星の人達から、非常な援助を受けて、あなた方、今のこの地球があるのです。その恩を、その愛を、他の惑星にお返しに行けるような、そんな地球になれれば、そんなふうに進化出来て行ったら、なんて地球は幸せであるか、わたくし達は幸せであるか。その日が来ることを夢見ながら、今の地球進化の為に頑張っているのが現状です。

愛という観点で、自らが、夫婦愛とか、隣人愛とか、他国に対する愛とか、そのようなものすら築けず、家庭は、地獄のようになり、夫婦は離婚をし、人殺しが横行し、そして、自分達の地域、共同体においても、孤独死していく老人を助けることも厭い、もっと言えば、自分の国は愛しても他の国は愛さない。国境意識、民族意識という偏見、さらに、自分達の宗教こそ、自分達の神こそが全てであると言って、いがみ合い殺し合っている、それが地球です。まだまだ野蛮なレペルなのです。

そこにメスを入れていくには、まず一度、愛のもとに戻ろうと、愛という、大調和の中に戻って行こうと、愛というのは、分かち合いであり、助け合いであると、そして、その愛こそが、神のお心の全てであると、そのことに気付かねばなりません。

制約された肉体だけの数十年が全てである、と思うから、刹那的になり、生きているうちに、全てのもの、全ての快楽を貪りたい、それこそが悔いのない人生ではないか、というような、大きな誤解をしてしまう。しかし、(本来、わたし達が、永遠の)時の流れの、何億年という、もっと昔の意識を持てる者であるのならば、(実際には)何兆年という、そのような深い深い意識まで、わたくし達は記憶を持っていくことが出来ます。

(ということは)逆に言うと、今、死んで、自殺して逃げたとしても、人生は、それで終わりになってくれるほど甘いものではないのです。肉体が終わったからといって、それで自分が逃げられるか、といったら、それは逆で、あちらの世界に帰ってから、自分のしたことは、因果律で、何倍もの苦しみとなって、全て自分に戻って来るのです。結果は、全て自分が引き受けて、自分で乗り越えて行かなければならない課題となります。

その因果律を考え、では、今、この肉体のあるうちに、あなた方は何をするべきなのか。人のことを悪く言ったり、人のことを憎く思うことよりも、ただ、何かを守るために、人は、そのように、悪の心に身を委ねるのかも知れないけれども、でも、守るものなど本来は何もないのです。肉体が殺されるから相手を殺すのか、そこが究極かも知れませんが、それなら殺されればいいのです。

肉体がなくなっても、もし、それで、愛する者との別離があったとしても、それは一時の別離なのです。そのために、自分が殺人者になってはいけません。他者を傷付けてまで守るほど、肉体は価値があるものではないのです。

だからといって、無闇に、自分から殺されればいいのかと言ったら、それは嘘です。感謝をもって、肉体を、修行の大事な舟として、肉体舟として大事にしなくてはなりませんよ。ですけれど、本当に守るべきものというのは、自らの神性、神の子としての愛、穢れのない、神の子としての誇りです。

そのことを、本当に、あなた方が分かったのなら、今肉体を持っている、この三次元において、あなた方は何をなさいますか。どのように一瞬一瞬を使われますか。そのことを考えて生き抜けばよいのです。

何かを守る為、家、屋敷、財産を守る為、果ては愛する妻を、愛する子供を守る為と言って、正義のように語られた多くの美談があります。子供の為、妻の為-、守らなくていいというのではないですよ。男なら守るべきであると思う。正義という名のもとに守るべきであると思います。でも、本当に大事なのは、神の子として、わたくし達の使命、何をやるために命を張るべきなのかということ、それを、しっかりと見つめることなのです。

ですから、肉体を、お金を、世間的な地位を、職業を守る為に、他者を傷つけたり、他者を憎む気持ち、憎しみを持つのなら、それは取り返しのつかないことになるのです。

答えだけを与えて分かるなら、わたくし達は、いつでも、あなた方に答えを与えます。でも、問題集で、ただ答えを与えるだけで、あなた方に実力がつくでしょうか。心の底から理解して、わたくし達が、共に、神の星を造るために、喜んで協力してくれるでしょうか。違いますね。人というのは、どんなに答えが分かっていても、心の底から納得しなければ、同意できなければ、何の努力も出来ないし、何の意味もありません。だから、間違うことでは、神は、神の子達を裁きません。その為の慈悲として、神は、永遠の時を、あなた方に与えているのです。

この、永遠の繰り返し、転生輪廻という過程を通して、自ら傷つき、自ら悩みながら、数々の人生のテーマを持ち「人々よ、神の子達よ、一つひとつ学んでいきなさい。しっかりと魂の底から学んだことだけが、あなた方の、魂の力になるのですよ」と言って、神は、永遠の修行として、転生輪廻という過程を組み込まれたのです。

だから、わたくし達は、間違うことを恐れて臆病になるような、自分だけが正しいとして他者の非をなじり合うような、そんな愚を犯してはなりません。あなた方は、今、(自分は)素晴らしい正法の中にいる、と思われるかもしれないけれど、過去世で、どうであったかはわからない。過去世において間違いをしていない者など皆無です。でも、それでいいのです。それだから人間なのですよ。

様々な感情、複雑な、正論ばかりでは行かない悩み苦しみ、そのような感情を持てばこそ、真の愛が何であり、真の優しさが何であるか、ということを、その体験を通して、他者に対する真の愛の表現を学べるのです。それが神の子の姿です。わたくし達は、その過程として、この地上の修行を受け入れねばなりません。

この肉体、この地上にある、あなた方ならば、八十年足らずの時間をどのように生きるか。その結果を、それぞれが選択できるはずなのです。やり残しても良いのです。来世があります。学び残したなら、わたくし達の世界にさえ戻って来るなら、その先を学ぶことが出来るのですよ。

でも、現世で学べなかったからと言って、人を蹴落として、自分は、ここに居たいから、と言って、心を暗黒面に売ったとしたなら、帰って行くのは、わたくし達の世界ではないのです。だから、たとえ仕事が途中であろうと、肉体、財産、様々なことがあろうと、肉親が、たとえ殺されようと、神の子として、純粋に愛の方向へ向かった、神の子としての、誇りある人生、それを貫き通さねばなりません。そういうベクトルさえ、しっかりと固定されていたのならば、永遠の時の流れの中で、焦らずとも、いくらでも、あなた達は進歩発展できる、ということなのです。下に墜ちるのではなく、上に、光のもとへ歩み続けて行けばいいのです。

前回、エル・ランティが出られた時に、愛とは忍耐である、ということを、おっしゃられていたと思います。わたくし達は、それを学んでいるのです。目の前で、苦しいことがあったら「神よ、この苦杯を取り除き給え」という願いを、地上の者達は祈りますね。病が苦しいから、苦しい貧困があるから「わたくし達を幸せにしてくれ」という、どちらかというと、自分の欲から出たような祈りが、たくさん、たくさん、わたくし達のもとにやって来ます。

でも、もし、その苦い杯を取り除いてしまったならば、あなた方の人生の中に、成長と鍛錬はあるのか、あなた方にとって、真に意味のある人生を生きる、きっかけはあるのかと、そこを思うからこそ、すぐにでも取り除いてあげたい、病気でも何でも、すぐ取り除いてあげたいと思っても、わたくし達は沈黙をもって答え、すぐには、決して、病を取り除かないのです。なぜなら、病を通してしか、その者が人生の意義というものを学べない、ということだからです。それを計画している、ご本人のことを思うのならば、絶対に、その病を取り除いてはいけない、ということもあるのです。

貧困の中で愛を学ぼうと思って、出て来られている方々もおられます。ならば、安易に、お金を天から降らすことが、神の愛ではない、ということです。そのことを、わたくし達の立場から申し上げておきます。

(人々に苦しみや災いをもたらす魔という事に関して)

ルシフェル、サタンに対して、わたくし達が、どのような思いでいるのか(といえば)ルシフェル、サタンが戻ってくる日を、わたくし達は、皆んな、待ち望んでいます。彼が悟り、気付き、戻って来るならば、この地上にいる者達、大半の者達が気付き、帰って来られる。そのような星になれる。その時まで、あと、どの位、かかるか分かりません。でも、やるべきことをやりながら、永遠の忍耐をもって、サタンがルシファーと呼ばれる前に、ルシフェルと、エルと呼ばれていた、神の、光の天使と呼ばれていた彼が、戻ってくる日を、わたくし達は待ちわび、彼を迎え入れて行きたいと、彼が戻って来た時に、抱きしめてやろうと、そのような思いで、九次元の者達は待っているのです。それが神の愛なのです。

彼によって、我々の計画が、何度も何度も潰されて来ました。今回の文明だけではなく、アトランティスにおいても、多くの酷いことが起きて来たのです。でも、それを通して分かったのは、そのサタンの策略、トリックに引っかかる地上の者達にとって、それは、一つの学びの姿であったということ。もし、トリックを仕掛けられても、それによって、神の子としてどのように生きるべきか、ということを、地上の者達が学んだのなら、サタンが何をしようと、何の意味もないことなのです。効力もないでしょう。

でも、次から次へと策略に陥れられて行った、ということは、地上の者達が、まだまだ、何が神の意思であり、神のもとに、自分が何をしなくてはいけないのか、ということを学んでない、ということだったのです。つまり、我々(の地球)は、まだまだ、地上の者の修行が出来ていない、ということ。だからこそ、サタンの動きを封印しないのです。

ですから、あなた方は、神の姿を見ても、じれったく、神も仏もあるものかと、よく呪いに近いような言葉を言いますけれども、どうか、苦しみに負けないで下さい。苦しみも、わずか地上に住む数十年です。苦しみを通してしか学べぬこともある。

先ほど聞いておりましたら、ヘレン・ケラーと呼ばれている美しい女性が出ておられましたね。三重苦の中で、彼女は、どれだけ苦しかったことでしょう。何も聞こえず、何も見えず、何もしゃべれず、一切の外界とのコミュニケーション手段を遮断された真っ暗な孤独の淵の中で、しかし、彼女は、己の神性を輝かし切ったのです。あのような肉体の中においても、燦然と、神の子として光り輝くことは可能なのです。

あなた方はどうでしょう。五体満足で、他の方以上に知性も教養も持っている方々です。そして神の使者としての使命も言い渡され、わたくし達の言葉を知ることが出来るのです。ならば、ヘレン・ケラーに比べて、あなた方は、何十倍、何百倍も光り輝いてよいのではないでしょうか。

出来ないことの言い訳を探すのではなく、出来ぬ自分を恥じて、出来る限り、残された数十年の命の中で、その肉体の中で、今の環境の中で、最善に光り輝かせるということ。その道を選ばれること。それこそが、地上に出た、あなた方としての、実りある素晴らしい時の使い方ではないかと、わたくしは思うのです。

言い訳をすれば、いくらでも言い訳の種は見つかるものです。でも、このような状況で、我々、九次元の言葉を、このように、毎週知れる方々、そして、理解し、素直に受け入れられる方々、そのような方々は、ひと握りでしかないのです。わたくし達の世界から見たら、非常にまれな、幸せの中にいるあなた方ならば、今回の転生を、大事に、大事になさられることをー

具体論は、あなた方一人ひとりが探すのです。そこまでの、手取り足取りを、神に望んではなりません。一人ひとりの、地上の修行があるのですから、出来ることを探す。そして、あるというのは、目先だけではないのです。人生を通して、行動を通して、愛を表現していくことでこそ、愛の意味が分かり、神の子が、愛の表現体であるならば、愛を、行動の中で、人生の中で、あなたなら、どう表現するのか、何を生き、何をしようとするのか、オリジナルのものを工夫して出さなければ、そんなことまで、口を開けて、神から棚ぼたのように霊言を待っているのなら、そんなものは、何も、あなた方の修行にならない。先ほど言った「苦しいから病を取り除き給え」「苦しいから貧困を取り除き給え」というのと同じなのです。

あなた方は、もっともっと、光の天使として、自らに厳しくあらねばなりません。わたくし達は、そういう意味で、理念を降ろしているのです。その理念の中で、今、何をしなければいけないかが分かったならば、地道に足元を固めながら、やるべきことをやりながら、その上で、個人においては、自らの個性を、自らの仕事を持っているのですから、それを通して、具体的に何が出来るか、ということから逃げてはなりません。それを考えるのが、あなた方、個々の悟りであるということ。そこから逃げて、一人ひとりの神の子の悟りはないのです。

仏教者の中には、悟りというのは、阿羅漢になり、ボサッターになり、数々の修行、難行苦行をやったり、経典を読んだりとか、難しいことを学んで、目先だけで愛を語り、目先だけで法を説き、目先だけで宗教を、神を語ることが、修行の課程であり、悟りである、というふうに誤解されているかも知れない。しかし、そんなこと(で)はないのです。

当たり前の人生の中に、当たり前に積み重ねる日常の中に、あなた方の悟り、人生の進化が問われているのです。だから、学ぶことは、しっかり、今、学んで、自分の人生の中で何が出来たかという結果のみをもって、修行の結果が出て来て、それが、自分自身の悟りの高さとして問われるのです。どれだけ言葉を学んでも、どれだけ目先で偉そうなことを言っても、どれだけ立派な教団を作って帰って来ても、その行い、行動の質において、本当の意味で、他者の痛みを(癒し)、他者に対して愛を分け与え、指導していく立場になかった場合には、それは、本人だけが良いと思っていたことであり、天上界においては、誰も評価しないし、その者にとっても、少しも、評価としては返らず、まわりから軽蔑されるだけなのです。

目先だけでは、色々なことを言っている者がおります。嘘八百を並べながら、人を先導している者がいるのです。でも、その者たちを怒ることは、一つもないのです。放っておけばいいのです。宇宙を、あまねく貫く、因果律の中で、自分のやったことは、今度は、自分の元に何百倍にもなって返って来る。それが法則としてあるから、あなた方が裁く必要はない、と、前にも他の霊人がおっしゃられていたと思います。

その法則の中にある、あなた方も同じです。愛の種を蒔けば、何百倍にもなって、自分に戻って来ます。無私であれ、と言うのは、そこなのです。見返りを求めず、無私な思いで、愛の種を蒔いていったのならば、いらないと言っても、その何百倍もの幸せとなって、あなた方の人生の中に還って来るのです。

今世、死ぬまでに「あの人は、あんなに神の為に、人の為に生きたけれども、少しも人生の中で、いいこと、なかったじゃないか」と言う話も聞かれるでしょう。でも、それは、この肉体の数十年だけを思うから、何もないと思われるだけなのです。他の人の幸せの為に努力なさった方は、今回の人生を終えて、こちらの世界に戻って来ても、そして、来世においても、必ず、素晴らしい祝福となって、愛として、本人に戻るのです。それは法則なのです。

ですから、自分が、一生懸命、人の為に行ったことを、勿体ない、とか、無駄なことをした、なんていうふうに思うことは、少しもないのです。心根において、ただただ、無私な思いで、他者を幸せにし、自分の愛を分け与えて行くことに、生涯をかけて行きなさい。それこそが、光の天使であり、それこそが、神の子の、本来あるべき姿です。

その、神の子たる、本来の姿に、地球の一人ひとり、全てがなった時に、この星は、誰も、殺し合いをしたり、他の者を中傷したり、陥れたり、飢饉や、子供達が死んでいくような貧困や、悪想念が満ち満ちた所から来る、病ばかりが流行るような、そういう事態は、終わりを告げるのです。そして、大調和の姿として、この地球が、愛に包まれ、神の許に戻って行った時に、地球は神の国ユートピアになって、人々は幸せに満たされることでしょう。そのことを以って、悟りというのです。

悟りというものを、難しい難解なものにしてしまった罪は、我々指導者にも、あるかも知れない。多くの人々が、小さき者、弱き者の幸せの為に生きる姿、それこそを宗教は目指し、神は、宗教を様々に興しながら、地上の者達を指導して来たのです。あまねく神の子達を、幸せに生かしたい、神の子本来の姿に戻していくことにより、大調和の中、この星を、祝福された愛の星にして行きたい、と願う、その姿こそが、神の許へ導く道であり、悟りの階梯なのです。はき違えてはいけません。

いつの間にか、悟りのはしごを昇って行くことが、まるで自分の地位や位を上げていくかのように思ったり、悟りを、難しく難解な、一部の者達だけのものにしたり、ハードな修行、難行苦行を通した、一部の(宗教的)エリート達だけの苦行の姿であるというふうに(考えられるように、なってしまっておりますが)、(そのように)誤解させてはなりません。全ての者達が心を切り替えて行ったならば、全ての者達やすくが、一躍跳入、神の子の、悟りのボサッターの境地になって行けるのです。簡単なことなのです。

「自分を愛するように他者をも愛せ」と、インマヌエルが、イエス・キリストがおっしゃられた。それを実行するだけ、心根において、思うだけ、それで、神の子の愛の姿に戻って行ける。それほどに簡単なもの(であって)難解なものではないということ。それを、わたくしは、法を預かる立場の者として、語っておきたいと思うのです。

インマヌエルは、イエス・キリストは、ナザレの地に於いて説かれた時に、易しい言葉で、自然に、娼婦たちにも分かる、当時、何の学問もない者達にも分かる易しい言葉で、神の愛の法を説かれたように思います。易しい言葉で語れるのです。易しい言葉で語ってこそ、神理であるということ。そのことを思って頂きたい。

法の再編纂、霊言集の確立、理念の確立、天上界の青写真を地上に降ろし、次の者達へ引き継ぐという、大使命が、あられるのも事実です。それが出来たのならば、今度は、神の法というものを、根源的な所で、易しい所で、まず唱えなさい。

難しいものを難しいとして言い立てることは簡単なことです。難しい所まで高まっているものを、簡単な言葉に絞って、万人に分かる言葉として、エッセンスを出していく。それこそが本当に実力のいることなのかも知れません。そして、その易しい言葉で、神理が伝えられて行った時、地上の二割の、難しいことが分かる者より、八割の、難しいことの分からぬ神の子達を救っていけるのです。八割の者達が救われなければ、この地球は愛の星にはなりません。八割の者達も神の子達です。その者達に分かるように伝えるのが、神の慈悲でもあります。神のお心でもあります。そのように、どうか皆様方、愛というものを-。

仏教の最高峰として、仏陀が、法の高みを降ろされる、ご使命がありましたから、高みを、非常に難解なものとして降ろされたこともあるでしょう。しかし、その後、無駄な難解さに陥って、道を誤ってしまいました。高みを出したのなら、次は、広がりが必要なのです。広がり、大衆伝道に出していくには、法の高みにあったものを、ポイントを絞った、愛のエッセンスにして、易しい言葉で伝えて行く、その作業に当たらねばなりません。次は、そこに来るのです。

数々のメッセージが出て、多くの人々に、違和感なく、我々の霊言や、神の語る言葉が、人々の心に染み入っていく時こそ、人々の間に、霊言ブームと申しますか、多くの方々が連鎖反応的に救われていく、という事態が起こるのです。難しいものを、難しいからと出さないでいることは、巷の霊媒師と同じだと(人々から)思われる、ということもありまして、ある程度、難しいことも申しております。しかし、わたくしが思うには、法というものは、元来が、易しいもの
(なのです)

あなた方は、一度、オリオンからの通信を受けたことがありますね。オリオンの、この方(チャネラー)の母上から来た通信です。彼女の言葉には、大きな愛と、やさしさが満ちています。彼女の言葉、「難解なものはいらないのだ」と「神の子として、あなたらしさを、あなたの愛を表現して帰っていらっしゃい」と、母親として、おっしゃっていたでしょう。その姿に尽きているのです。

頭でっかちに、難しいことばかりを言っていることが、決して、進化した証ではない。(そうしたことをしているのが)愛のレベルの高い星ではないのです。愛に対する、すばらしい感受性の中に、愛の思いを抱きしめて生きている。そのように、(愛を)表現して生きておられる。その(愛の)質の高さ、その(愛に対する)感性の豊かさ、それこそが、進化した星の方達の、愛の姿なのです。

法の極みを、その時代の最高の知者、賢者といわれる者達が、預かり、管理することは、実際にあります。しかし、皆んなが皆んな、難しい顔、しかめ面をして、難しそうな言葉で、難解な哲学的な議論をしなければ、愛の価値が高まらない、(進化した)高度な星にならないと思うのは、大きな間違いであるということ。わたくしは、法を管理するものとして、あなた方にお伝えしたいのです。

この地上では、二元論的に、善悪というもの(があるとされ)、(あなた方がご存知の)「スター・ウォーズ」という映画にも、ダークサイドと、フォースというものを預かる善なる者との戦いという(かたちで)、キリスト教社会では、二元論的に、(善悪が)描かれていると思います。

なぜ、(善悪という)二元論的な所で(価値観を)出しているか。それは、まだ、地球が、未発達の小学校レベルの星であるからこそです。未熟だからこそ二元論がまかり通るのです。大宇宙に、二元論はありません。日本神道の方がおっしゃられるように、(進化の過程で)光一元になって行くのです。

闇というものは、ダークサイドというのは、そのように、未発達の、神の子としての神性を悟らぬ者達が多く住んでいる星で、人間が、神より与えられた創造性という自由意志を乱用した姿の、影の部分として、ダークサイドが出ているのであって、大宇宙を照らす大いなる愛の法則、愛のエネルギー全体から見れば、ほんの僅かな、一点の、小さな小さな影の部分に過ぎないのです。

圧倒的な光、圧倒的な愛の、荘厳な旋律の流れる大宇宙で、愛のエネルギーを湛えている圧倒的な愛の量から見れば、悪と言われている、善悪の、悪と呼ばれている者達が放つエネルギーなどは、ほんの僅かな、点にも満たぬのです。そして、これは、地球だけではなく、他の星でも、未発達の所では、そのような段階にあるということは事実です。それは、発達段階としてあることなのです。自由意志の濫用です。

神は神の似姿をもって、神の子達を創造されました。神、自らが創造される、ということ、天地を創造されたという、創造するエネルギーを持たれている故に、わたくし達にも、自由意志で、創造する力を与えられております。

それを、素晴らしい方向に使っていくのか、そして、ダークサイドの方に来る(行く)ような、悪想念としてのエネルギーを作ることも、それは、わたくし達が、修行過程(の自由意志)として与えられているものなのです。ですから、地球という星の、レベルの低さによって、このような陰の部分が、人間の自由意志で作られているわけであって、神のお心が、神が、地獄界を創造されたのではない、ということ。そのことも、わきまえて頂きたいのです。

この地球自体が、浄化され、小学校レベルから中学校レベルになり、傷つけ合ったり、殺し合うことが、結果的には自分自身の為にならぬ、と、人の幸せを願うことが、巡り巡って、自分の幸せにもなる、と言うことが分かって来たら、暗黒面の部分、地獄界の部分は、自然に解消され、消滅していくのです。その時を、悠久の時の流れの中で、我々は待ち望んでいるのです。

地球意識が、お苦しみになっておられる、その姿を、本当に申し訳ないことであると、わたくし達は思うけれども、「どうかどうか、地球人が、神の子達が、迷いながらも学んでいる最中であります。もう暫く我慢して頂けないか。もう少し学んで、彼らが脱皮する時まで、お待ち頂けないか」と、お願いをしながら、地球という場所を、修行場としてお借りしている、ということが事実なのです。

地球意識も、相当、お苦しみであられます。そのことを考えると、もう、そろそろ脱却して行かなければなりません。いつまでも、このようなことをしていたら、がん細胞のようになって、地球意識が苦しまれているし、地球人としても、あまりにも、進化発展が、なさ過ぎるのです。

大きなターニングポイントとして、今回の、救世の大計画が降ろされている、と言うこと。その為に、九次元が、何人も何人も(地上に)降りて来て、天上界が、総力を挙げて、このような異例の通信を送っているのです。そうでなければ、過去のような、単なる修行場(として)だけで、次の文明を降ろせばいい、と言うことなら、とっくに、この文明はなくなっているでしょう。

でも、ここまで(人々の意識を)進化させ、このチャンスを(得る為)に、わたくし達は、数千年という時をかけて、この文明を造って来ました。数千年、数千年と言いながらも、アトランティスの時から見たら、また、数万年という時を考えながら、一つの大きなローテーションの中で、わたくし達は、地球を、進化発展させているのです。

このチャンスを逃したなら(後がない)、(これは)アクエリアス、アクエリアンエイジ、水瓶座の時代と呼ばれている時代の中で、この一つのバイブレーションの中で、霊的な進化をとげる、丁度いい、追い風に乗って来ている時代なのです。このチャンスを、我々は、ちゃんと使って、地球の次元を上げて行きたい。その為にも、思想的な意味でも、この計画の続行を、非常に無理な形かも知れませんけれども、あなた方に、お願いしながら、引き継ごうとしているのが、実態であります。

愛というのは無限なものです。あなた方の心に、ふつふつと湧いてくる愛の思い。神の子としての愛の思い。それは、永遠に、無限に出て来るもの。しかし、それは、自ら、自身を信頼することから、しか出て来ません。自らを否定して、自分の現実から逃げた時には、神がお与えになった、あなた方に、本来創られた、能力も、才能も、愛の力も、出て来ないのです。

ですから、今回、一度っきりの人生、今の瞬間を生きるのは、一度だけです。今という、この瞬間に、神の子として、最大限、あなた方の尊厳と誇りをかけて生き抜き、愛の心を発信し、輝き渡らせ、この運動の為の、一条の光として、あなた方が、立派に使命を終えられ、わたくし達の世界に戻られることを、お待ち申し上げております。その時こそ、天上界の者達は、あなた方を、拍手喝采をもって迎え入れることでしょう。

地上で、富や財産や、地位や名誉を手に入れることよりも、神の使者として、地上で素晴らしい人生を生き、天上界に、喝采をもって戻られる、そのことを、あなた方が、本来の、自らの幸せであると思って頂けるならば、どうか、わたくし達の為にも、地球の為にも、神の為にも、そして、あまねく神の子達の為にも、愛の存在を光り輝かせ、戻って来られることを、わたくしは望みます。

マイトレーヤーとしての、わたくしの法の話は、多少、仏陀とは違っているかも知れません。でも、星を越え、どんな立場をも越え、法を預かる者は、神の思いを伝える所に使命があります。わたくしが説く法、マイトレーヤーとして説く法も、エル・カンタラーとして説かれる方の法と、根本においては同質です。

これからも、あなた方から要請されるならば、法の輪郭について、お話し出来ることは、させて頂きたいと思います。どうか、わたくしを、これからも、お呼び下さることを望みます。
今日は、ありがとうございました。失礼させて頂きます。

(2005.7)

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