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地球とは、本当はどういう所でしょうか、情報を集め、知っていくページです。

現文明の総決算の時、ゼウスのメッセージ

2018年11月26日 | 歴史関連
これは、あるチャネラーに降ろされた、地球霊界、九次元指導者のお一人、ゼウスという方のものとされるメッセージです。豪放磊落な中にも、細やかな気配りも感じられる語り口には、まさに九次元霊の波動に相応しいものがあります。編集しております。カッコ内は注です。


(ここから)

我はゼウスなり。

アテナ(チャネラーの過去世の名)よ、私は、今まで、天上界で、そなたたちの動きを見守ってきた。私は、心より喜んでいる。

そなたたちに、今一度、恐れることなく、立ち上がって欲しいのだ。そなたたちがやれることは数限りなくある。そして、今、この時代の中で、どれだけそなたたちの動きが求められ、神々の期待を受けているかということを認識してほしい。

私が、そなたへ初めて出現したときより、そなたには、いつか出番が来るのだと言い続けて来た。このように大きな出番が来ると、その時には、まだ、私共も、思っていなかったが、これほどの任を、今の時に与えられたことを誇りに思うがよい。

そなたは、もっと自分の力を信じよ。信じて、自分の力と自分の能力を最大限に奮い立たせよ。誰に言われるまでもなく、そなた自身が己れ自身の力を知っているはずだからだ。

前にも言ったであろう。そなたは、私の愛する、最も誇りに思う娘、アテナなのだ。微塵も疑う事なかれと伝えても、まだ驚くばかりでいるのか。自らを生ける神とするのではなく、神に従う最大の預言者として、神の言葉を預かれ。そして、神の御心のままに、命をかけて人びとを導け。それは、そなたには出来るはずなのだ。

先日、聖クザーヌスもお出になられ、そなたに励ましと自信を送られたはずである。まだまだ、そなたに自信がないからだ。我々は、早くそなたが自覚するのを待っているのだ。

もっともっと、覚醒しなさい。もっともっと、己が神性を花聞かせなさい。自分自身に気づくのだ。自分に気づきさえすれば、もっと新たな能力が出てくる。ためらうな、この期に及んで、ためらうな。何をためらっているのだ。ためらっている時間はないのだ。

神々が、新たな計画を、また興そうとしている。我々は、けっして諦めない。人類という我々の子供たちを、どうして神々が見捨てたりするものか。そなたは、我々の、神の使者として、道具として、我々の神意の代行者として、この地上を救わねばならぬ。

もっと早く、そなたが前に出ればよかったのだ。遠慮して今回の計画を作ったがために、そなた自身の中に脇へと廻ろうとする気持ちが芽生えてしまっている。中心に立て。中心に立って人びとを呼び集めよ。そなたは脇にいてはいけないのだ。

かつてギリシャのときも、そして、その前の時代にも、いつも、そなたは中心に立って、多くの人びとに激励を飛ばしてきた。神の言葉を伝えてきたではないか。そのような人が、今世、出ているのに、神がその計画において、そなたを使わない訳があろうか。

我々はどんなことをしても救助せねばならぬ。何としても人類を救わねばならぬ。それが我々の使命なのだ。

神は、けっして神の子を見離さない、見捨てない。
神を信じてついてくる者に関して、どんなことがあっても、我々は救いの手を差し延べることをやめないであろう。

神意を代行する者。そなたは、今世、最後の締めくくりをしなさい。神意を代行できる者それは、最初から神の代行者として選ばれた者たちがいるのだ。そなたは、そのような者であるということ。それを素直に認め、心を尽くして、この使命に頑張ってほしいのだ。

我ら、ギリシャの文明の中において、常に、神のお心は、神殿建築や芸術の作品を通して手元に伝えられたものである。それが、詩であったり、ストーリー・テラーたちの言葉であったりする。衆生、大衆の者たちは、あまり難しいことを言っても、その時代には、通じなかったので、芸術とか、物語にのせて伝えたものである。

今、別の意味で、科学文明も知性も優れているやも知れぬが、心においては劣った現代の人びとに、再び、芸術というものを通して、人々の心に神意を伝えるのは、とても適当なことかと思う。

大事なのは、人々の心に眠る、神の子としての神性を、今一度、揺さぶり、目覚めさせること。それがいちばん大切なのだ。

最初から神の子でない者を、神の子にしろというのではない。皆、平等に、己が心の中に神の子としての神性を、もともと持っているのだ。それを目覚めさせよ、己れ自身に気づかせよ、と。そこに尽きているのだ。

そのために、我々は、様々な霊言を通し、神理の言葉を伝え
「ああ、この言葉、聴いたことがある」「かつて天上界で、この言葉を聴いたことがある」「過去世、このような言葉を聴いたことがある」という思い出を揺り動かし、初めて、自分自身の、神の子としての神性に目覚めさせる。そなたたちは、その媒体にすぎないのである。

今世、改めて、宇宙の成り立ちや、魂の兄弟たちの創造や、過去の文明について、新たな知識を得たことはあるであろう。しかし、それに関しては、あの世に帰ってからでも、学ぼうと思えば、いくらでも学べるのである。知識ではないのである。

地球上にいる数十億の者たちが、いや、人間たちだけではない、動物も、地球自体も、全てが、神の子なのであるという、己が神性に、神の玉衣の中にある自分たちであるということに気づくところが、最も大事なことなのである。

神理の些末的知識、そのようなものばかりに目を奪われ、学問化し、頭でっかちになるでない。神理というものは、もっともっと、シンプルなものである。

そのような細かい歴史を知るならば、それは、それで意味のあることであろう。しかし、最後の究極は、イエス・キリストが説かれた、あの愛の教え。子どもにも、取税人にも、娼婦たちにも、学問のない者たちにもわかる言葉。そして、そのイエスの、愛の言葉により、眠っておった神の子たちが、皆、涙を流し、己が神の子としての神性に目覚めた。

そういう、二千年を超えるキリスト教の歴史の中で、何が、いちばん大切なのか?

我々、エーゲ海を囲む文明のときは、実にあっけらかんとした、おおらかな神の光を一身に浴び、人生そのものを讃歌し、喜びに満ち、神の子としての己が人生を体現していたのである。そこあってこその、細かい神理知識なのだ。

逆に言うと、そなたたちのような者たちは、アガシャーの記録や、詳しい地球文明の過去の歴史など、あまり知らなかった方がよいのかも知れぬ。

知識は、確かに、大きな転換点のときの判断材料となり、理性や知性というのが大切なのは、よくよく知っておる。しかし、もっと大事なもの、知識や科学文明の大きな進歩、発展に負けず劣らず、いや、もっと根本的に大切なのは、一人ひとりが神の子であり、愛の化身であるということ。そんな初歩的な、そんなシンプルなことを、なぜ、そなたたちはわからぬのか。前にも言ったであろう。それならば、アフリカの人々の方が、まだ、ましである。

大切なのは愛の教えなのである。神の子としての神性を光らすことなのである。されば、そなたたちは、芸術の流れの中において神の光を発信せよ。

本来であるならば、神理をあれだけ学んだ者たちが、今度は、芸術、文化、様々なジャンルの知識人たちにより、日本中に、神理というものを発信する、そういう段階に至っていたはずなのである。

その中で、多分、我々のギリシャ時代と同じように、芸術の風にのせる、ということは、大衆布教において効果を奏したことであろう。

今、皆が、秘密裏に小グループとなって(神理を)学んでいるが、そのような勉強会は、人々が死んでしまえば残らないのである。絶版となった書物を後世に向けて一本化し、これこそが神理であるという流れを残さねば、今までやってきた我々の仕事も無駄になってしまうのである。

それこそが、サタンの望むところ。それこそが、サタンの狙いなのである。さすれば、我々は、けっして魔には負けぬ。彼らには、けっして負けない。

そなたの周りにも、様々な魔の手が迫っているのがよくわかる。しかし、信ぜよ。闇よりも光のほうが強いのだということを。

神のほうを向いている者たちにとって、恐いものは何もないのである。我らは命をかけてそなたたちを護っている。多くの戦闘系の者たちも、ミカエルも、そなたたちを死に物狂いで護ってくれている。

だから安心せよ。いかなる魔とて、そなたたちに、指一本、触れさすことが出来ぬということを信じよ。神の援護が欲しければ、寸分たりとも、神のほうへ向けている針をそらすな。我々のほうを向き、命がけで歩め。そうした時、我々は、絶大なる援護を、そなたたちに送ることが出来るであろう。

初心を忘れることなかれ。神に向ける、謙虚な、謙虚な心の、思いを、姿勢を忘れるな。

自らを偉しと思う気持ちに、サタンが入る。神になりたかった男ルシファー。彼の思いと同調したときに、地上の指導者は落ちるのである。落ちた者たちを見てみよ。どれだけ力のある者たちであったことか。我々も、絶大なる信頼を寄せていたのだ。

ヘラ(過去世でゼウスの妻)にしても然り。ならば、ヘラの出来なかったことを、そなたがやりなさい。そなたは、ヘラと共に、いつもいた者ではないか。ヘラが何をやりたかったか。何がやれずに、今世、孤独の中にいるのか。それが分かったならば、そなたが代わりにしなさい。それが、唯一、彼女を救うことになる。

ヘラも、今世の命を終えて帰って来たとき、何が起きたのか、我々から説明をする時がくると思う。その時のことを思うと、私はとても不惘なのだ。しかし、神のほうを見なかった者たちは、いかなる援助を天上界から与えようとも、そこに、もう光のパイプが通じないのだということ。

謙虚であれ。地上に降りた光の天使たちよ、謙虚であれ。至高の存在、天上界の神に対し謙虚に、謙虚にぬかずき祈れ。そして、自らの使命と役割を知ったならば、命を捨て、命がけでその道を精進せよ。

あと数十年の命、この地上にのみ、へばりついて、どれだけの価値を見い出すやら分からぬが、我々から見たら、神理の為に生きた功績以外、何の価値もないものだということ。それを知ることが光の使者なのである。

我々、九次元から、霊指導を直接行うということ、我々から、直接、話が聴けるということは、これから先、そう度々、あるということではないのだ。

次の世代に、また新たな計画を用意してある。今は、急遽、降りて行った光の天使たち、その者たちに、その神意をしっかり伝えねばなるまい。

それほど、彼らは、細かいことを決めぬうちに降りて行っているが、彼らを、また迷わすことのないよう、出来るだけ確かな足取りを、方向を、道しるべを残していって欲しいのだ。確かな神理が、どこにあるのか、そして、天の意思がどこにあるのか、それを、人々に伝えてほしい。

ここで決着をつけねば、次の世代が新たな法を説いたとき、また、その余波を引きずることになる。

何がいちばん大切であるのか。この地上を去るとき、人生悔いなしと、心から思える状態で帰って来なさい。

今は、時代の山場に至っているということ。これをするがために、今、様々な災害、天変地異が引き止められているのだということ。

次に孔子が控えている以上、下手に男性が中心に立てば、その者にバトンが渡らなくなるのである。そなたが母なる思いで、今、この者たちを集め、そして、孔子にバトンタッチしていかねばならぬ。この流れで、天上界の計画で、次に、孔子が出られているのだ、ということを皆に伝えねばならぬ。

孔子も相当な覚悟で、今、急濾、降り立たれた。彼の現在の環境も、大変難しいものであるけれど、孔子はしっかりと覚醒され、その使命を果たして下さることと思う。その時になれば、我々もまた、天上界から彼に向けて渾身の呼びかけを始めることであろう。今はまだ幼すぎるがゆえ、そっと見守ってやってほしい。

孔子の幼き頃より、彼自体は守られているのである。光の軍勢が彼を守っている。だから心配するな。彼のことを信ぜよ。我々もまた、彼のことを信じている。だから、彼が立っていくその時まで、その歴史的な空白を、そなたたちが埋めねばならぬ。

かつての霊言集を、人類の遺産と思ってくれている人々がいるうちに、彼らを集め、彼らと共に歩め。そのための方便として芸術を使え。

先日、様々な詩の文を降らせたのは私である。あのようにすれば、一般大衆に向けてのメッセージが発信しやすいこともよく分かったであろう。

最後、中心に立つのは、そなたであるということを、それをけっして忘れることなかれ。人びとの心を調和させ、今、どういう時期にあり、天上界の計画はどのように練り直されているのか、それを彼らに伝えていきなさい。

多くの人々に神理を伝えていかなくてはいけない。それは芸術にのせて、新たな人に向けて発信しなさい。

人々の心を大切に、人々の心を光のほうに向けよ。闇に染まり、真っ暗闇の、無明の色となろうとしているこの地上に、あかあかとした、大きな松明をかかげよ。そなたたちがしようとしていることは、そういうことなのだ。

神という大きな松明、その光を、いくつもかかげよ。そして、真っ暗な中で右往左往している人々を神の国へ導くように誘え。皆、地獄に行きたい者など1人もいないのである。ただ、神のもとへ行く道が分らなくなっているだけなのである。

この真っ暗闇の中で、神のもとへ、神のもとへ人々を導きなさい。闇など恐がることなどないのである。闇とは光が消えた状態、それが単なる闇である。今一度、光が輝けば闇はなくなる。

光の不在、それが闇である。最初から、サタンたちがいるから闇があるのではない。人々が神の心を忘れたから、闇が広がっている。それだけなのだ。

もともと、地上を埋めるこの多くの者たちは、誰一人もれることなく神の子なのである。その一人ひとりの中には、素晴らしい、神の子としての神性が、その光が灯っているのである。神の光が入っているのである。

それを、今一度、目覚めさせ神の光を点火させよ。神のもとへ!神のもとへ!何をあなた方一人ひとりが、本来、望んでいるのか、持っているのか。気づけよ、気づけよと、光を発信しなさい。

難しいことは、よいのである。地球の成立、宇宙の成立、ベーエルダからどのような人々が来て、マゼランからどのような人々が来たかとか、そんなことは、どうでもよいことなのである。

そなたたちには、早すぎたのかも知れぬ。そんなもので道を失うな。もっと、己が神性に気づくという初歩的にしていちばん大切なこと、そこにあなた方は照準を合わせなさい。まず、そこをやることだ。

あの時(別のチャネラーに)まとめて降ろしたこと、それを、これから噛み砕いて人類は学んでいくことであろう。そんなに難しいことを説かなくてもよい。根本的な愛の教え、(人間は皆)神の子であるという、神理の中で最も基本的な、その波動を、人々に発信すればよいのである。

理屈ではない。悟りは魂で開くもの。心で己が神性に出会うもの。それが悟りであったはずだ。

知識や情熱は、とても大切なことではあるけれど、根本的なことである愛や慈悲を忘れては、神の心を受け取れないのである。

先日、イエス・キリストから聞いたであろう。
「神は、愛ある者にこそ宿るのである」「愛深き者にこそ、神命は降るのである」「謙虚に、謙虚に神の言葉を受ける者、その者でなければ、己を偉しとする者には、神の心は届かないのである」と。

神が、今、どのようなお心であり、どのような計画を持っておられるのか、ということ、それを、多くの人々に伝えていきなさい。

地上の隅々まで光を照らし闇を消し去るほどの光を発信しなさい。そうすれば、それ以外のことは、どんどん光の中で正しいものへと変化し始める。光が届かないから、ますます難解な闇となっていくだけなのだ。

シンプルでよいのだ。そして、圧倒的な愛の波動を、愛と慈しみの波動を、分かち合いの波動を、慈しみと、愛と平和の波動を、それこそが本来の神の波動であると発信していきなさい。

もっともっと我々のほうへ心の針を合わせなさい。そうすれば、我々は、いくらでも説明するであろう。

我々も、もう後がないのである。我々も、この時、最後の決着をつける計画を、絶対に負けないという最後の計画を、この地球を光の国、光の星に変えるという最後の計画を、私たちは実現したいと思っているのである。

九次元、十次元の使命は、そなたたちには、なかなか分らないであろうが、非常に微妙な時期に、この地球があるということ。このような成長できるチャンスは、なかなか、再び来ないのであるということ。このチャンスを最後まで生かしたいのである。この地球自身のレペルアップに、ここまで頑張ったのであるから。

高橋信次、エル・ランティが出られ、仏陀が出られ、少なくとも、そこまでの神理知識、基盤が、この地上に降りているのである。今なら、まだ間に合う。それを守ってほしいのだ。

我らの世界から、この地上にそれを降ろすということは、それは大変な、大変な困難なことなのだ。やはり、九次元レベルが立て続けに出なくては、このような神理知識を書物として残すことなどは、到底、不可能なことなのである。そして、今一度、九次元が降りて行っている、不屈的な計画なのだ。それほどに、皆、この地球計画を我々(九次元霊は)成功させたいのである。

単純でシンプルであるかも知れないけれど、何度も言うが、最もかけがえのない、大切な愛と慈しみの波動を、この地上に発信して欲しいのである。

我ら、ギリシャの時代、人々の語り、ストーリー・テラーたちによる神話の語りにのせ、そして、ハープの音色にのせ、絵画にのせ、あの、いまだに世紀の傑作といわれている、ギリシヤ彫刻や建築物にのせ、神の世界とは何であるのか、人間とは、どれだけ神に愛された、素晴らしい神の分身であるかということ。それを、あの彫刻や神殿の中に、神とは何かを表現し、それが、今、三千年を越える今日まで伝えられているのである。

今一度、それを発信せよ。そのために芸術があるのだということ。芸術のために神理があるのではない。神理を広めるために、その方便として芸術があるのだということ。そこはけっして誤ってはならぬ。神の真意を伝えられてこそ神理の人たちの芸術は花開くのだ。

芸術という、単なる絵画だけではなく、音楽、小説、詩、様々なものにのせて、愛の波動を、神の波動をこの地上に発信せよ。

先日、ポセイドンとも和解をし、海神としてこの地上を援護すること、エネルギーを送ること、そして、そなたたちの警備をすることを約束してくれた。何千年ぶりで会っただろうか。心を分かち合い、かつての弟と和解できたということを、私は本当に喜んでいる。

そなたのところに、日本神道から海神の娘が降りたことにより、我々も海神同士の繋がりの中で、また歩み寄ることが出来たのである。何をやっても、一生懸命進むのであるならば、何も無駄なことはない。

我らの言葉を信ぜよ。光のほうに向かって進み出せ。

難しい難解な理論を伝えることよりも、今、この計画の必然性というものを、何ゆえに、このように諸霊が、天上界の諸霊が一致し、皆んなで語りかけているかという、本質的なところが理解できなくては、何の意味もなくなってしまうから、同じことを繰り返し、繰り返し、様々な個性により、様々な言葉により、今、天上界より、そなたたちへの指導が降りているのである。そなたたちが、しっかりと認識していないから、赤子に伝えるかのように、我々は同じ言葉を繰り返し噛んで含めるように、そなたたちに伝えているのだ。

よいか、この東洋から発する、この大計画というのは、ある意味で、この文明の最終的な総決算にあたる。過去、ギリシャに、エジプトに、そしてギリシャからローマに、そして中国、インドというところを通りながら様々な世界を一巡し、各文明のスポット、高みというものは移動を続けて来た。

そして、最後、この日本の地において、西洋と東洋の文明というものが、最終的に合流する場所として、日本という地が、この文明が起こされるときに終点の地として選ばれていたということ。だから、この文明が起きる時から、日本神道の神々というのは、この地を聖地とし、最終的なこの文明の、最終的な光明化の聖地として輝かすために、この地を預かった者たち、それを日本神道の神々という。我々のもとより、我々の計画を、意を汲んで、この日本の地に降りられ、この地を、長年にわたり守って来られた神々なのである。

東洋の源流、西洋の源流が、この、今の日本において統合され、そしてこの地より、地球の「へそ」となり、この地球全体の光明化と、愛への大変身をさせるための、その聖地として、灯台の地としてこの日本という小さな島国が選ばれていたということ。今回の文明というものは、我々の世界では、そこまで考えた上で、様々な指導霊を送りながら文明を展関してきた、というのが事実なのである。

科学と宗教、西洋と東洋、資本主義と共産主義、様々な相対立する相対的なもの、時代の流れの中で、それが最終的に全て統合され、それを乗り越える新たな霊的な文明、スピリチュアリズムを基盤とした大いなる宗教が、この日本の地より発信され、今まで隠されていた、大いなる天上界のアルカナ秘儀というものが、全て明かされることをもって、この地球を、ひとつの教えの中に統合し、愛の星へ光明化させていくという大計画が盛られていたのである。

もう、物質的なもの、人びとのひとりよがりな自己保存と、自分たちの欲にまみれた闘争による歴史を終えるためにも、本来の神の子の価値観というものが、この地上に降ろされる必要があった。

そのために、谷口雅春という方を皮切りに、高橋信次、エル・ランティが、九次元の、大事な、大事な神の子としての、魂の永遠の転生輪廻、そして、八正道を中心とした反省行による、人々が、全て神の子であるという原点に立て、ということを唱えられ、それに応じ、仏陀と呼ばれる方が、法の大真髄というものを、集大成として降ろされて来ている。

その九次元の教えをもって、この日本の地より、様々な宗教、様々なイデオロギーを、宗教も、科学も、全てを、この中に投げ込みながら、ひとつの教えのもとにまとめ上げていくという、そのような大事業が展開されるはずであったのだ。

今、それをするときが来ている。今、我々のメッセージを、このアンテナ(チャネラー)のもとに降ろせる以上、最後の総仕上げをしなくてはならぬ。

もう、これからの宗教というものは、様々な神話に彩られた、人格神が神であるというような、そのような、小さなものの中に留まっているようなものではない。

我々は明かしたはずである。神とは、本来、宇宙を統べる根源的なエネルギーであり、そして愛の奔流そのものであり、愛の法則そのものであるということを、私たちは、そなたたちに伝えたはずである。

我々は神である、と、ゼウス神である、と、ポセイドン神である、と、マヌ神であると、イエス・キリストであり、仏陀であり、マホメットであり、モーゼである、と、いうふうに言ってきたかもしれないが、我々ですら根源神でもない。

我々は、単なる人格神であり、神より与えられ遣わされし、地球を守る、守り神、メッセンジャーである。そなたたちと同じ、神の使徒であるということを、今、明らかに、明かしているのである。

神とは、本来、宇宙の中に流れる、大いなる、大いなる、高いバイブレーションの中にある愛そのものの奔流である。愛そのもの、慈悲そのものである神のエネルギー体である。

そして、そのひとつひとつのエネルギーを引いて造られたのが、そなたたち、一人ひとりの人間たちである。神の子たちである。

それは、人間たちでなくても、動物であっても、植物であっても、全てが、大いなる神のエネルギー体から、全てが、そのエネルギーを、一筋ずつ、一筋ずつ、繋げられながら造られて、三次元に物質化されて、降ろされていっているものなのである。

だから、全てのものが神の子であるということ。そして、神の子であるという神性に、基づき、立ち戻ったときに、大いなる根源の、神の懐の中につながる道が、帰って行く道があるということ。誰一人として、繋がっていない者はいないからである。それが神へ回帰して行く道なのである。

神の子たちは、自らが神の子であるということに立ち返り、そして、自らの内側を深く見つめていくことにより、感謝することにより、愛の根源である自らの神性の中に、神へ立ち戻って行く道を、今明かされているのである。

それを以ってこそ、人びとが、神の子であるという認識を、本当に実感できた時こそ、人々は、物質世界のものを貪り、ひとり占めにするようなことから解放されるのである。本来ならば、この地球には、分け与え、分かち合うならば、十分に足りる富もあり、食物もあり、様々なエネルギー資源もあるであろう。それを、ひとり占めにするから、自分たちさえ良かれと思って、戦い合い、占領しようとするから、いざこざが起き、貧富の差が起き、様々な苦しみや、戦いの歴史が営まれて来たのではないであろうか。

ともに神の子であり、愛の奔流であるということが分かったのならば、日々の三度三度のご飯を食べ、身を繕うもの、ともに豊かに暮らす十分なものを与えられたのなら、それ以外のものは、同じ神の子たち、同胞に分け与えていく。それをもって喜びとする。それが本来の神の子の、神性なのである。

何でもかんでも貪り、何でもかんでもひとり占めにし、他の者たち以上に富み栄えようという、そのような思いがあるから貧富に差ができ、片や、片方の者たちばかりが富み、片方の者たちは、食べる物もなく、飢えて死んでいくという事態が起きるのである。

調和をしていき、皆んなで共に喜び合って、分かち合って生きていこうという、自分たちが愛の根源である、宇宙の根源に繋がる誇り高き神の子であったという、自分たちの魂の内奥は、そこに通じているのだ、という誇りがあってこそ、神の子たちは、神のもとへ回帰していくことが出来る。高い思いの中で生きていくことが出来るのである。そなたたちは、もっと、そのように理解しなくてはいけない。

それを伝えるために、高橋信次、エル・ランティという方は、魂の永遠性、転生輪廻ということを、まず、初歩の段階で説き明かされたのである。神の子であるということを伝えられた。神の子であるということは、人びとの認識の中に、あまりなかった言葉である。

キリスト教においても、自ら罪の子であると思い、自分たちは修行しなければ、非常に、罪ばかりに、カルマばかりにまみれていると、仏教でも、キリスト教でも言ってきたではないか。

だが(真実は)違う。(人間)自らは、神により造られた、素晴らしい神性の中に、神の子としての愛というものを分け与えられた、誇り高き神の子なのである、ということを、エル・ランティは、しっかりと、そなたたちに伝えられたはずである。

そのことを以って、今回の文明の総決算が行われる。人間は、自らが神の子であるということ。そのことをしっかり認識し、この東洋から、様々な文明を通し、世界を一巡することで、数々のローカルな地域の中に、様々な教えを、モーゼも、マホメットも、仏陀も、イエス・キリストも、そして、我がギリシャにおいて、他の様々な場所においても、神理は降ろされて、皆んな人類は学んで来たはずなのである。

それを、最後、地球の教えとして統合するために、西洋と東洋がぶつかるこの日本という地において合流させることによって、神理の集大成を行うということ。

そして、それは神理だけではなく、経済も、科学も、芸術も、全てをここで集大成し、再度、発信していくという意味で、この日本の地、神の国日本、大和の地が設定されていたのである。

そのことを、インドに出られたときの仏陀は「私は、またジャブドーバーのケントマテイに再誕する」ということで、予言すらされていた。

仏陀の仕事は、かつて二千五百年前に、インドの地に生まれて、された仕事以上に、本来の(魂の)本体が出て、この日本の地に再誕し、仏陀の本体としての、本来の仕事を行うことで、仏陀という魂の、本懐、最後の仕事の集大成を、ご本人がされたかったのであろうと思う。

それこそが、仏陀、エル・カンタラーの、本来の、メインの仕事であったということ。その、地球を救う神理を発信するという仕事半ばにして、諦められたご本人の無念は、それはそれは深いものがあるということを、私は代わりに伝えておこう。

それをしていった時には、必ずや、素晴らしい地球の未来が聞かれてくるということを、私は、そなたたちに保証しよう。約束しよう。

その、素晴らしい未来の夢を見るために、我々天上界は、今、一致団結して、皆んなで、この計画のために努力しているのである。

何ゆえに九次元が担当するか。それは、それだけの力を持った者でなければ、継承できぬものであるということ。九次元の保護下、監視下のもとでなければ、継続される計画ではないということ。そのことを、そなたたちは、もっともっと深く認識していきなさい。

そなたたちは、我々の言葉を直かに伝え、直かに、大衆伝道、布教をしていくことが出来るということ。そのような時代に巡り合わせたということなのである。

どこまでも、どこまでも飛躍していくフェニックスのように、そなたたちも、どんどん、自分の意識を高みに向上させていくところに切り替えていかなくては、この計画にはついて来られぬ。

九次元が降ろしている計画であるということは、九次元と同じような認識に最後は立っていくぐらいの、全てを捨てていく、自らを飾るもの全てを捨てていくという、神の使徒、愛のエネルギー、神への感謝のエネルギー、一途になっていくという、光へ戻って行く道なのかも知れぬ。

多くの者たちを救い、この地球の歴史そのものに足跡を記し、愛の星に変えていく大事業であるということ。そのために、孔子も出ておられる。九次元が、このように立て続けに出られ、そして我々の言葉が、このように、地上にシャワーのように降ってくるということ。そのような時代に、今、巡り合わせているということ。

けっして慣れるでないぞ。慢心するでないぞ。

よいか、自分の身を守るということは、自らに厳しくあるということ。自らを厳しく戒めることによってのみしか、そなたたちを守ってやれない。

そして、これから、世界に向けて、そなたたちは出て行く。

そのときに、東洋の思想、西洋の思想すべてを、そこの中に内在させ、それを集大成した考えというもの、神の国の思想というものが現れてくる。

今、人々の認識を見て、地球上に何が必要かということを、焦点を絞りながら、我々は、順番に降ろしているのである。

もはや、ここまで遅れ、やり直している計画なのである。よいか、そなたたちの中に、不退転の境地だけをしっかりと刻み、無私なる思いでこの神の言葉を地上に伝えていくと、そのように思って(活動して)いくならば、この地上は、必ずや、素晴らしい神の光の導きの中で、愛の星へと変化する道へ、変わっていくであろう。

今、再び、この地球が、この文明が、神の愛の懐のもとへ向かって歩みだした。この地上を浄化させるためにも、愛の星にしていくためにも、いくつかの戦いが、これから行われるであろう。

だが、まず思え。戦いの基本は、自らの心の内から始まるのであると。心の内に、様々なトリックによる誘惑がくる。そんなことでしか、地下の者たちは、そなたたちに戦いを挑むことは出来ないのである。

肉体を持った人間なればこそ、様々な惑わしも、弱さも、苦しみもあるであろう。だが、そのようなことを脇に置いておいて、まず、神理の使徒として、この計画の使者として、ひたむきに生きよ。

ポセイドンも言っていたが、そのひたむきさの中に、神理の使徒である姿を、多くの人々は感じる。たいした一流のランナーで、なかったとしても、精一杯その聖火を持ち、雨に打たれても、雷に打たれても、ぽろぼろになりながらでも走り続け、その松明を次の世代に渡そうと走り続けるランナーの後姿を、いつしか街頭で野次を飛ばしながら見ている者たちの胸の中に、深い感動として、必ずやその姿が、本来の神の使者であったということを気づかすことになるであろう。常にそうやって、神理の使徒というものは仕事を果たしてきたのである。

いつの時代に預言者が地上に降りても、それほどに歓迎されたことはなく、常に、苦しみと、偏見と、人々の罵言雑言の中に、人生を悲劇的に終えていったのである。だから、神の言葉を預かる者たちは、非常に恐れ、そのような使命が降りるということを嫌がったものである。

されども、今ここにおいて、再び神の言葉が降ろされている。この言葉を、どうか嫌がらず、力強く誇りを持って、傍から、どのように悪く言われても、我々の言葉を、火を消さぬように守って、この地上に残して頂きたい。

これこそが人類の遺産であると、今は分からなくとも、そのうちに、百年もたてば、人々は、あのように素晴らしい時代があったのだと、後世、生まれてくる者たちは、「ああ、あの時に、あの時代に、あの日本に生まれていたら、どれだけ幸せであったであろうか」と、そなたたちの境涯をうらやましく思う時代が来るであろう。そのことを思い、そなたたちの使命というものをしっかりと腹にすえ、今やるべきことをしっかりやりなさい。

これから、多くの、各論というべき、学問、哲学、芸術が、一般大衆の中に広げていく為のものとして、降ろされていく時がくる。それには、それの専門家たちが、また出てくるのである。

今、我々は、総論を言っているのである。総論、本質である。この計画が、何ゆえに発動され、どういう歴史的な意味があり、そなたたちが、今、何をするべきであるかと。そのことの為に、我々は、今、そなたたちに伝えに来ている。

それが、全体が判ったときに、各論によって、地球全体に、大衆に広められていくことで(世の中の)システムが変わり、学問が変わり、政治体制が変わり、憲法が変わり、連鎖的に、地球のシステムが変わることをもって、最終的な愛の星へと変わっていく。

しかし、それには、やはり多少の時が必要であろう。だが、いちばん大切なことは、我らが伝えている理念を降ろすということ。理念による神の本意、そのことを、そなたたちが地上に降ろすということ。それがいちばん大事である。

高橋信次、エル・ランティが何を説かれたかといえば、それは、そうたくさんの知識を、地上に降ろされたわけではない。

いちばん大事なこと。それは、魂が永遠であったということ。死しても肉体を離れても生き続けるということ。人間が神の子であったということ。人間の魂の構造を解き明かし、反省というものを通して、神の子としての神性、神の子としての本体を光らせるための、反省の大切さということを説かれたということ。実際に、霊界のもの、死後の霊として、彷徨っている者たちが確かにいるんだということを、悪霊を出して実証して見せた、ということ。

基本はそこであろう。今言えるぐらいの内容であろう。そのことをもって、今だに、人々を救い得ているということ。だから、基本になることは、そんなに多くのことではないのである。そして、その基本である大事なことというのは、エル・ランティ、仏陀が言われたことによって、おおかたの神理の基盤というものは降りているのが実情なのである。

それから先、何があるかというと、それを一般的に広めていく道、それと、宇宙の法に、繋げていくこと。そこのところがいちばん大事なことである。地球の使命を説き明かし、我々の計画を説き明かしながら、宇宙連盟の一員として地球が生まれ変わっていく為に、その意識の中に、地球の教えを、地球人類の多くの者たちの意識を、宇宙の目から見た地球人という認識まで引き上げていくということである。

その部分で、多分、これからも、続々と、様々なメッセージが降りてくるであろう。それは、第一、第二の九次元が説かれなかったところである。

(今後の世界への布教において)何ゆえに、この魂、神の子としての本体というものが、(世界中の)多くの人びとに認識されるか(といえば)、そのために、様々なスピリチュアリズムというものが、この近代、近世を通して、世界各地に、そのブームというのが起きているはずなのである。それは(予め)ちゃんと光の使者と呼ばれる者たちが降りて、その地に、このように、日本から、このような思想が発信された時に、しっかりとその意味が解るように、自分たちの地域を統合していけるように、(世界)各地域に、光の天使が出ているのである。

そして、今、この時代、インターネットや書籍で、外国で出たものであっても、すぐ読める時代が来ている。だから、そのような書籍の普及をもって、人々はスピリチュアリズムが何であるかということを、興味のある者たちは、知れる時代が来ている。

大いなる、その地盤、種蒔きがされたところに、そなたたちが、はっきりと、本来の計画がこれであるということを、宣言していくということ。それは、時には嘲笑を買うこともあるであろう。危険を伴うこともあるであろう。しかし、そなたたちの中に不退転の境地があるのならば、ぜひとも、これが天上界の計画で、最終的な、この文明の総決算なのだということを、認識してほしい。そして、伝えて頂きたい。

本来ならば、私がこのような計画について明かすということも、役が違うかとも思うのであるが、たまたま、ここに、わしの娘が出ているということをもって、私が伝えに来ている。

そなたたちが、これからも、この地上を光輝かせながら、最終的な神の計画を実行していく、このような認識が、しっかりと上がり、地球人類の認識力が本来の神の神性に立ち戻っていったのならば、一人ひとりの波動というバイブレーションが高くなっていく。

本来、神の子としての高いバイブレーションを持っているのが、神の子である。それが、低い次元の中に終始している。だから、この地球自体、その地域が低いバイブレーションで覆われてしまう。

であれば、皆んなが、高い神の子としての認識に戻っていく、そのような共通基盤を持ったならば、この地球自体の波動も、また、高い認識力のもとへ戻って来られるということなのである。

地球意識を苦しめている、この、低次元の、波動の低い、へばりついたウイルスのような人類が、素晴らしい愛の光を発するようになれば、地球意識本体のお苦しみもなくなり、地球意識自体も救われていくということである。

そして、そのように、地球意識とともに、その表面に住んでいる地球人類、神の子たちが光り輝いたのならば、この地球も、愛の星として、神の星として光り輝き、宇宙から見ておられる方々から見ても、素晴らしい、愛の星、愛の地球人になったということで、宇宙連盟の一員としての資格というのも与えられ、地球自体のバイブレーションが(さらに)上がっていくことであろう。

全ては、人々の心次第、認識次第である。人々が、本来の神の子の姿に戻っていったならば、その本来の波動は、非常に深い愛を含んでいるのだ。なぜなら、神は、本来、愛と慈悲の塊、精妙な、素晴らしい波動の、愛の奔流そのものであり、その愛の根源的なエネルギーが、全ての宇宙を創り、全ての神の子たちを創り、発振しているからである。

そのようなことを、そなたたちは、まず気づきなさい。我々が伊達や酔狂で、遊び心で、このような計画を発信してはいないのだということ。そのことを、そなたたちが深く心の底に刻むならば、いつか、必ずや、この地球は、素晴らしい喜びに満ちた愛の星となるであろう。

そなたたちは分かっているであろうが、これから、本当の戦いがやってくる。戦の前には静けさがある。確かに、そなたたちは、様々なトラブルを乗り越えて来たが、今までは、せいぜい仲間内のトラブルであろう。だが、これからは違う。外との戦いが待っている。そして、その力、勢力を使い、地下の大御所の連中が、動き出そうとしている。もはや、一度は、神の軍勢に勝ったのだと思っている者たちがいる。その者たちが、今ひとたび、これは大変なことになったと言って、動き出そうとしているのである。

ミカエルたちも、ポセイドンたちも、龍神たちも、荒神と呼ばれている者たちも、一斉に前面に出て来てはいるが、戦いが本領を発揮していけばいく程、その戦いの行く手を塞ぐ力というのは大きくなって来るであろう。

だが、しっかりと心の手綱を引き締め、隙さえ作らねば、何も怖いものがないのだということも、また、そなたたちに言っておこう。そして、我らに対する信仰心を絶対に揺るがすな。我々を信じよ。天上界の力を信じよ。そうすれば、いかなる者がそなたたちを痛めつけようと、我が雷がその者を打ち砕くであろう。我らが助力を、そなたたちは一身に、その背に背負って、雄々しく行進していけるであろう。

神理の松明とは我々の神理の言葉であり、この計画を携えた天上界のメッセージである。それを携えて、雄々しく歩め。隠れることなく、堂々と歩め。

毎年、オリンピックが開催される地に、聖火というものが運ばれて行くであろう。オリンピックの試合の前に、聖火が世界を回ってくる。そして最後、その松明は、消えることなく、ギリシャのオリンポスの地にやってくる。その松明を消さないために、沿道にいる人たちが、一生懸命守ろうとするではないか。その火が消えないように、皆んな、ランナーたちは必死に、雨に当たっても消えないように頑張るではないか。その姿を見ていると、そなたたちの姿に重なって見える。

一度は消えた火である。再び、また、その聖火に火がつけられた。この松明を持って走りなさい。このゴールが来る時まで、次の走者に渡す時が来るまで、命がけで、この聖火を守っていきなさい。その光は、地球を輝かし、この地球を愛の星へと、神のもとへ導く、唯一の松明であるのだということを信じなさい。

降ろされた神理が、神理であっても、その大計画の中で機能しない限りは、その神理は、単なる神理として、書物の一冊として終わってしまうのである。

我々の生のメッセージを伝え、今、天上界と地上界が、共に手を取り合い、何を為さんとするのかということが、しっかり認識でき、その認識の中で、しっかりと、肉体を持ったそなたたちが行動できた時に、本当の意味で、その神理の言葉というのは意味をなす。八正道も意味をなし、九次元が降ろした神理の言葉というのもしっかり機能するのである。

よいか、その順番を間違ってはいけない。そなたたちは、九次元たちが降ろした言葉の、極みに到達できないと思うかも知れぬが、降ろした神理は、所詮が神理なのである。それをもって、地球の大救済計画を実行してこそ、仏陀の意味もあった。エル・ランティが、露払いをされた意味もあったのである。

書物の中に書くだけの神理であり、叡智であるのならば、過去、数千年前から様々なことが言われて来たではないか。だが、それが、単なる仏典や神理の書の中に埋もれていても人々は救えない。地球を愛の星にしていくことはかなわぬ。

その為に、我々九次元が、常に天上界で、地球救済の計画を幾度となく立てては、文明の実験を繰り返して来たのである。

神の国の計画が発動され、我々の言葉が降ろされるということは、我々が降ろそうとするからである。神の国のメッセージというのは、基本的には一方通行である。我々が降ろそうと思わなければ、どれだけ、そなたたちが請い願い、祈り、瞑想し、請い求めたとしても降りぬのである。

今、降ろすべき時がきたから、我々は、このように、要請があれば、いくらでも、矢継ぎ早に降ろすのである。その順序を間違ってはならぬ。我々は降ろすべき時だから、この者(チャネラー)が嫌だと、わめこうが、泣こうが、逃げようが、とっ捕まえてでも降ろしてくるのである。

そして、それだけ、天上界が必死であるということ。そのことを、そなたたちは、深く理解し、この計画を推進して頂きたいと思う。

そうすれば、必ずや、この、そなたたちのところから落とされた、この水面に落とされた一点のような、このような投げかけというものは、次々と多くの反響を生み、多くの者たちが知っていくものとなるであろう。

芸術についてであるが、我の時代においても、また、レムリアの時代においても、私は、感性を中心とした、芸術的な表現、視覚的な表現を通して、神というものを人びとに伝えていく、そのような役割を中心にしていた。だから、芸術的な極みの究極には、神理に、十分、到達するような、まあ、哲学に通じていくようなものが内在されていく。

そこまで極めれば素晴らしいが、それを、また、視覚、音楽、様々なことを通して、多くの者に伝えていけるというメリットもあるということで、私はそれを多く担当してきた。私は、その神理の理念を、オリンピックの競技を通してとか、寺院を建てたり、芸術を通して、神の素晴らしさを表現していく、そういう指導の仕方をしたから、ギリシャの大らかさというものが出たし、それは、そこに出ていた者たちの大らかさを引き継いだ文明であったかも知れないし、そのような、ひとつの個性が出たのであろう。

今回の文明をつくるにあたっても、やはり、屈託なく大らかな部分がなければ、神の子は苦しい。どこかで、神の国の大らかさというもの、楽しさを表すものも、地上に映し出しておく必要があるのではないかと、そのように思い、わしは、ギリシャという地に、あのような一大文明圏をつくったのである。もともと、そういう大らかさというか、楽天的な部分がある者たちなので、自然体で、それが出るのである。やはり、そういう部分がないと、そなたたちも苦しいであろう。だから、そういうものを通して、多くの者たちに伝えていく。芸術は、本来が基本的に楽しむということなのだ。

ミューズというのは、人びとの喜びということだ。五感、感性の喜びを通して神を知るということも、多くの者たちにとってみれば、喜びであり、それが救いになっていき、神、信仰の世界、神の究極を知るということは、心地よいものである、素晴らしい、うれしいものであるというふうに、メッセージを伝えていくことも必要であろう。

そして、この計画に対する、しっかりとした体制を作り、仲間を集めていった時に、その延長上に各専門家が出てくる。各論としての哲学論、文学論、芸術論、そして医療関係とか、それぞれの専門家が出て来て、一大文明圏になって、一大文明の、ひとつの図書館のような部分として、また霊言が出てくる時が来るのである。

そして、そのうちに、この日本から世界に向けて発信する時代が、必ずや来るので、外国の方もやってくるであろう。

(その過程で)もし、何かあっても、全ては自己責任である、と、しっかり思って、人を恨んだり、神を恨まないということ。自分が悪かったのではなかろうかと思える人間に、堕落はないのである。(落ちていった者たちは)自分が悪かったとは思えないであろう。反省、反省と声高に言っても、自分だけは悪くはなかったと思っているはずである。

だから、いちばん罪をなすりつけ易い、霊言者(チャネラー)が悪いとか、果ては天上界が悪いとか、そのようなことに終始し、天上界が悪いとまで最後は言う。そんなところに持っていってはならぬ。不調和なことが起きたとき、まず冷静にものを見ながら、まず、自分自ら、反省することはなかったであろうかと、そのように思いなさい。

そうすれば、絶対そなたたちが落ちていくことはないし、そのような謙虚な気持ちを持っている者には、我々の守護が必ずや届いていくのであるから、そなたたちは絶対に安全になるのである。それが反省行の素晴らしさである。

よいか。神理の仕事を、しておらぬ者が、反省、反省と言って、自分をいじめていては、何の意味もないのである。日々、毎日、一生懸命生きながら、かつ神理の仕事をし、このような神の大計画の中で、実際に考え、行動し、計画を推し進めていく中で、反省というのは、自分を守る大事な、大事な羅針盤となり、指針になるということだ。最高の安全を保障する保険のようなものが、反省行であるということ。そう使ってこそ意味がある。

何にもしないのに保険に入っていて、家の中だけにいて、交通事故に遭わない保険に入っていても、しょうがないであろう。外に出て行って、自動車でプンプン仕事をして、大活躍するからこそ、自動車保険に入っていても意味があるのであろう。そなたたちは、外に出て行って、仕事をしなさい。そのときの、身を守るための保険が反省行である、とそう思えば、反省、反省とばかり、口の中で唱えながら、家から全然出ないで、たいした仕事もしない者が、反省とわめいたとて、何にも役に立たないのだ。

そんなことを言うために、高橋信次、エル・ランティは反省行を言われたのでもないし、仏陀もおっしゃられたのではないのである。

常に、人々の幸せのために神の手足となり、道具となるため、多くの人々の使徒、神の国の光の使徒となるために、そなたたちが、体を張ってこの地上で仕事をしていく時、魔界の者たちが、必ずや誘惑に来て、引き倒しに来たときに、そなたたちが学んだ、反省行というもので、常に謙虚さをチェックしたのならば、そなたたちは、必ずや安全に仕事をしていけるであろう。

そのような、神の子としての、身を守るための保険が反省行であり、魂を落とさない道としての指針が反省行であり八正道であるということを、そなたたちは、しっかりと心に刻みなさい。ただ、反省、反省と声高に言って、高橋信次や神の名を呼んだからといって、その人の魂が浄化され、向上するわけでもないのである。

自分以外の者のために、命がけになって努力をした者、命を張って、神のために仕事をした者、その者を本当の光の使者と言う。その光の使者としての仕事を、守っていくのが、我々、高級霊という者たちの仕事でもある。だから、そなたたちは、今、我々の絶大なる援護を受けて、この神理の道を歩んでいる聖火ランナーであるということを、心に刻み、この道を雄々しく歩んで頂きたいと思う。

これからも、数々の、天上界から注文が降りるかも知れぬが、先は長いのだ。そなたたちが考えてもいないような方向に、天上界が計画をしていき、世界に発信していく、という未来がある。

哲学に関しては、ソクラテスとか、あと、プラトンあたりから、本来はメッセ―ジが入っているはずである。その中で、哲学の思想の流れというものが、今まで、近世、近代に歩んできたものから、今後、この神理の教えがしっかりと根づいた段階において、その思想の統合というものを含めて、また、爆発的に新たな大転回をしていく。そのようなことが計画されている。

神の国が、あるのかないのかわからぬ、という論議で、今まで、哲学というものが進められて来たところがあるが、絶対的に神というものがある、我々は神の子である、ならば、どのように、我々がその存在を認めていくべきかという展開で、哲学が思想の流れの主流となっていく。そのように展開していく意味で、さきほどの、各論としての者たちが次の時代に生まれてくる。そのような流れを計画している。

かつて、プラトンが、イデア界というものを通じて、この地上だけではない世界、神の国があるということを言ったにもかかわらず、それが、知性のフィルターを通すと、そのようなものを認めていくということは、なかなか難しかったし、いくら、知で、目に見えぬ我々の世界のことを実証しようとしても無駄なのである。

だが、このように、神の国があるということが、しっかり人びとに認識していかれたのならば、その後に、では、神の子として、どのように生きていくべきかということの、本当の意味での論議になっていく。そうでなければ、あまりにも無意味な論議の中に終始して来たのが、その後の、近世、近代の哲学の流れであったようにも思う。

今、まず、難解なものにするのではなく、易しい言葉で、我々の言葉を地上に降ろしていくということ。そのことが、しっかり根づかずして、難しい知の体系を作ってみたところで、少しも、人びとを救っていく道にはならないと思っている。

知性を司る哲学者の中にも、当然、光の天使と呼ばれる方々はおられる。そういう方々は、我々が、今、天上界の法の真髄というものを地上に降ろしていった、もう少し経った後に、知の体系をしっかりと哲学化し、学問化していく。そうして、不動のものとして位置づけていくという役割があるから、そうした知の体系というものは必要ではある。

だが、今の段階では、そのような難解なもの、逆に、第二の計画で難解化し過ぎて、訳がわからなくなったものを、もう一度、振り出しに戻し、易しい言葉で語っていこうという段階なので、今、まだ、哲学者として一流の者たちが転生して来るということはないようにも思う。

まず、ここの部分が、本当の意味で、基盤として広まっていったのならば、もう、宇宙の方から、手ぐすね引いて、次の発明、発見というものを、伝えようとしている者たちが、お節介なまでに援助に来ているので、科学においても、飛躍的な大進歩、爆発的な進歩を遂げるという、そういう時代が、必ず来るであろう。

それが、もう、我々には分かっている。だが、そこに行くには、まず、このハードルを、易しい言葉であっても、まず自分たちが本当は神の子なんだと、当たり前のことなのに、それに気づくという、この基盤を持たねば、そちらの方向に向かって爆発的な進歩はしないのである。

芸術においても同じである。地下の者たちの波動を広げる為だけの芸術論を打ってみたとて、何になるであろう。神の国の色の、愛の光一色の芸術の波動を広げてこそ、芸術本来の使命は果たされるのだ。

(人々に、地球は)愛のバイブレーションの塊であると、そのような地球である、我々は、愛の奔流である神の光を引いた、神の子である、愛の化身そのものが我々自身である、ということを、しっかりと認識させる必要がある。

あとで気づいたら、「何だ、そんな簡単なことか」と言われるかも知れぬが、そこが分からぬために、人類は、傷つけ合い、戦争をし、いがみ合い、不幸の種を作っているのである。宗教により、争いをするなどという、馬鹿げたことをしているのである。

宇宙の人びと、認識の高い星の人から見たら「何をやっているのだ」と、「宇宙船地球号の中で、水爆や原爆や、様々なもので殺し合って、何をやっているのだ」と、「お前ら、みんな死んでしまうぞ」と、思うであろう?そんな幼稚なレベルで、まだ分からぬのが、この地球人であるということ。

難しいものに行きたいことはよくわかるが、まず、そこのところを、噛んで含むように(人々に)教えてやらねば、正しい方向に、爆発的な進歩はないのである。その根本的なところ、それを、普遍の神理という。

逆に言うと、我々九次元は、そこを預かっているということだ。それが、今、降ろされる時だということは、(そうしたことは)天上界の扉が聞かれたとき以外に、降ろされぬということ。

瑣末的なこと、難解なことを、いろいろ人々が言い立ててみたところで、少しも、人類は進歩して来ないのである。

この、根源的なことであり普遍的な神理を、易しい言葉を使って伝えることが出来たのがイエス・キリストであり、衆生を救うことが出来た、仏陀であり、モーゼであり、また、マホメットであった。それによって、本来、人類が指導されるべき、根本的な神理というものが、易しい言葉で解き明かされて来た。この流れの中で、いちばん要になる、肝心要のことを降ろしていくという、この時期であるということ。

その今の時期に、そのような使命があるという、そのTPOというものを、しっかりわきまえよ。それ以外のことを、もし望んだとしても、そなたたちは得られぬであろう。今、必要なものを、必要な状況の中で、必要な分だけ明かされる。それは、我々が明かそうと思っていることだけが明かされる。基本的には、我々からのそなたたちに対する一方通行のメッセージの限界というものは、やはりある。

何でもかんでも、明かされるということでもない、ということも事実である。だが、同じ仕事をするにあたって、そなたたちが、質問があるのであるのならば、その範疇においては、いかようにも、誠意をもって答えようというのが、我々の姿勢である。それが天上界と地上界を貫いているルールであり、礼儀であるということを、私は、そなたたちに教えているのである。いろいろ聞きたければ聞いて頂きたい。

そのことを、私は今日、メッセージしたいと思う。

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