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大和の自然と心、天照大神(アマテラスオオミカミ)のメッセージ

2018年10月09日 | 情報
以下は、あるチャネラーの方に降ろされた、天照大神(アマテラスオオミカミ)と呼ばれている方の、霊界からのメッセージです。今から三十年ほど前に降ろされたものです。部分的に編集させて頂いております。


(ここから)

日本人である、多くのあなた方は、この日本という国土が、そもそも、どういう国土、どういう風土であるのかということを、もう一度、見回して、ご自分の心の目で、よくよく見て、確かめてごらんなさい。そこには、美しい自然が秩序と調和を保ちながら、春を、夏を、秋を、冬を、つくり出しているのではありませんか。

そうした自然の四季と、山の美しさ、海の美しさ、川の美しさ、こうした風景の美しさの中に、あなた方、日本人の心情とも言うべきものが、吐露されているのです。私は、みなさまに、この大和の心の美しさ、大和の心の優しさ、これを知って頂きたい。

そして、優しさを、美しさを知ったならば、そのなかに住む一員として、美しさを体現し優しさを実行していただきたいと思うのです。それは、みなさま一人ひとりが、大自然のなかの一部として溶け込み、大自然の一部となり切って、豊かに、穏やかに、輝きを失うことなく生きてゆくということです。神の目からみたならば、人間社会もまた、大自然の一部だということなのです。

さまざまな木々は、自らの独自性を主張し、自らの固有性を物語っているように見えますが、山という風景のなかで、景色の一部として溶け込んでいます。また、川の水もそうです。さまざまな山から下ってきて流れ込んだ水は、(最初は、別々の)小さな小川が流れ込んで来ますが、やがて一本の(大きな)美しい川として、流れていきます。

人間たちよ、あなた方も、自らに個性があることを隠す必要はない。しかしながら、その個性は、大いなるものの一部となるための個性である、ということを忘れてはならない。これが大和の心の出発点です。

大和(の風土)には、美しき心が現れていると言いましたが、この奥にあるものは、女性なるものの流れであろうと思います。この国の文化のなかには、女性的なるものが流れているのです。

私も、かつて、今から二千七百年も前になろうか、今の九州の、この地に生まれたことがあります。そうして、現在の天皇家の先祖にもあたるような、そうした役割を担っていたのです。

この時、私が主に気をつけたことは、結局こういうことであったのです。当時は、まだ、武人たちは気が荒く、戦好きの人たちでありましたから、毎日毎日、戦が中心であって、自分たちの周りには、敵が満ち満ちているといった状況でありました。こうした時に、誰か男性を一人立てると、それに対する嫉妬や憎しみ、怒りから、争いが繰り返されるということが、朝廷のなかにおいても、よくあったのです。そうした理由で、男性と男性との我が競い立つ時に、女性的なるものによって、その我の争いを治めんとしたのです。

私は、そうした時代に、人びとの心が荒み、戦いに明け暮れていた時に、その人びとの心を、母の如き気持ちで慈しみ、そうして、彼らをも深い深い愛で包まんがために、指導者となったのであります。

ともすれば、指導者というのは、力の理論とでも申しましょうか、力がある者、武勇の優れたる者が人をしてひざまずかせる、服従させるということがよく言われておりますが、しかし、それは、必ずしも、いつの時代にも神理とは言えません。やわらかき者が人の上に立ち、優しきものが人の上に立つこともあります。それは、大多数の人びとは、結局、子供のように自我というものを出し、争い合っているからであります。

近代において、西洋に、個人主義、自由主義という考えが出て参りました。そうして、その思想は、明治以来、日本の国に流れ込んで来ています。この、個人を尊重するという考え、個人の自由を尊重するという考えが、今時代の支配的潮流下にあるように思います。

この個人主義、自由主義の目指すものは何かと言うと、競争というものが生み出す、結果的な高みではなかろうかと思います。さまざまな個人が、個人の自由を求め、そして幸福を求めて相争った結果、全体としても著しく進歩する、進化するという考えが、そこにはあると思います。

確かに、それは、ひとつの人間心理でありましょう。人間のなかには、自分自身の気持ちに忠実に生きたいという心がありますし、神は、また、それぞれ、人間の心の支配権、統治権を、各人に委ねました。人びとの心を、強制的に他の人が変えることは、決してできないようになっているのです。この点において、自由主義、個人主義という考えも、一面の真理を突いていることは事実でありましょう。

しかし、私は、それによって失われた価値も、また大きいと思います。自由主義が台頭してきて以来、神というものが(人々の心の中で)急速にその存在価値を失っていったことは事実です。

古来より、日本では、自分ということをはっきり言うことを、恥ずかしいことだと言われてきました。「私が」という言葉、「自分が」という言葉をはっきり主張するということは恥ずかしいことだ、と言われてきました。それは、個人は、すべて、大きな神という名の大木の枝葉であって、幹において一つにつながっているという思想があったからなのです。枝葉が枝葉であることを誇り始めたときに、そこに大きな誤解が始まっていきます。女性なるものの本質も、結局は、ここにあったのかも知れません。

女性の特質は、自分というものを主張しない、というところにあったのです。あまりに自我を主張する女性は、これは日本の歴史のなかにおいて、卑しめられ、さげすまれてきたのです。女性というものは、謹み深く、深く深く神と関わっているのが、その本質でありました。

国全体が、個人主義の蔓延によって、ギスギスとした社会となっている時に、今、政治の原理として、一国の指導原理として、女性的なるものの必要性が叫ばれているのではないでしょうか。

女性的なるもの―それは、すべてを、大調和に向かわさんとする優しい心、包み込む心です。そのなかにこそ、真実の、多くの人びとを生かすための、生き方があるのです。大切なことは、大樹として、大木(の一部分)として、立派に生きていくことであって、一枚の葉っぱ、一カ所の枝の枝振り、これだけが大事なことではないのです。そうした観点をゆめゆめ忘れてはならないと思います。

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