Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記240705  (その10)10. 形而上学 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

2024-07-05 11:05:50 | 研究論説

朝日記240705  (その10)10. 形而上学 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

 

  1. 形而上学 Metaphysics

 

形而上学 Metaphysics

 

いくつかの顕著な報文 

  • Monist形而上学シリーズ The Monist Metaphysical Series (1891–1893)
    • 理論の構造 The Architecture of Theories (1891)
    • 試された必然性の宣言The Doctrine of Necessity Examined (1892)
    • こころの法則 The Law of Mind (1892)
    • ひとのガラス的本質 Man's Glassy Essence (1892)
    • 進化的な愛Evolutionary Love (1893)
  • Synechismの光においての不死性Immortality in the Light of Synechism (1893 MS)

 

 Peirceは形而上学をつぎの三つに分割した divided;(1) 存在論ontologyまたは一般形而上学 general metaphysics, (2) 心理的psychical もしくは宗教的形而上学 religious metaphysics、および (3) 物理的形而上学physical metaphysics.

 

 

存在論 Ontology

普遍的な項目について、Peirceは学問的リアリスト scholastic realistであった、それは1868年代においてはやくも一般性のリアリティを言述していたのである。[167]

Peirceによれば、かれの範疇categoryは彼自身第三性"thirdness"とよび世界についてのより一般的事実として関心がありって、それを追加的メンタルリアリティextra-mental realitiesとしたのである。 

 modalities (possibility, necessity, etc.)に関して、彼は後年modalitiesに積極的リアリティを感じて惹かれていたことを言及している。

 

1897年の彼の著述である"The Logic of Relatives"「関係的なものの論理」で次のようにのべている:私は先に情報が与えられた状態において、そのどれが真でないかを知らないかの可能性を定義したのであった。

しかしこの定義は今日では歪んだ言明であったように思える、それは二重否定two negativesなることによってアナコルータムanacoluthon[1]を隠蔽していることになるからである。

われわれはある確かなことcertain thingsが真でないことを経験から事前に知っている、なぜならそれらのことが不可能であることを見ているからである。

Peirceは或る目的には役立つものとして、情報状態information statesという用語定義を保持したが、しかし彼は、プラグマティズム主義者が強度のモーダルリアリズムmodal realism に関与することを主張した、ここでの対象objectsは予想可能な一般的条件の提案という意味で認知しうる対象であり、その対象は確実な状況のもとで作動しているものあった。[168]

 

 

連続性 Continual

連続性とsynechismはPeirceの哲学での核心である;「私は最初にそれが哲学のマスターキーあったとは思わない、私は徐々にそれを見出していくのであるからである。」[169] 

数学的視点からは、かれは無限小infinitesimals をこころに抱きそして連続の数学についての長期にわたる研究をした。

彼は長い間、実数は擬似連続pseudo-continuumを構成するとしてきた[170];真の連続とはanalysis situs (topology)の実の主観体subject matterである;そしてinstantsの真の連続は―そして時間経過のなかに伴ってその置き場所roomを持ち―いかなるinstantsの Aleph number (かれがそう呼ぶようにいかなる無限のmultitude ) をも越える.[171] 

 

1908年にPeirceは 真の連続はその置き場roomを持つか持たないかもしれないことを見出したと記述した。 

Jérôme Havenel (2008): 「それは26 May 1908のことであった、Peirceは最終的に彼のアイディアをあきらめた、それはいかなる連続においても、どのようなmultitudeの集合体のための置き場roomがあるとしたことについてであった。以後、異なる特性をもつ異なる種の連続があるとする」[172] 

 

 

心理的もしくは宗教的形而上学 Psychical or religious metaphysics

 

Peirceは神を信じた(believed in God)、そしてその信仰をつぎのように特性化した、理念、野生事実、そして進化する習慣について好奇するなかで本能an instinctのうごきを見出したのであった。

そして信じる神は実際的actual もしくは存在的existent Being  (これらの言葉はPeirceの意味であうが、)のものではないが、すべて事実的real Beingと同じであるとした。[173] 

"A Neglected Argument for the Reality of God" (1908)[119]で、Peirceは神の事実性realityにたいしての論議をスケッチする、それは必要(必然)Being としての神の仮説であり、その仮説は通常のひとが好奇心musementと探求 inquiryにおいて使命感compellingにいたる性向をもつと彼は記述した。その通常のひとはその仮説によって導かれるが、それは理念ideas、野生事実brute facts、進化する習慣evolving habitsの様相featuresから納得できるものがあるというものである。たとえば科学の進展の過程で、そのような目的指向の思考thought of such purposefulnessが「仮説とともに成立したり、却下されたり」することになる。   

一方、Peirceによれば、その仮説は際限なく納得しえないbeingとして考える過程で、まだ合反決着がつかないうちに好ましい真の概念としてそれ自身の自然性があるとしてスターとしている、そして、仮説がその後どう大きくなるかに関わらずすすむ。

それはふたつあり、(A)不可避的にそれ自身が部分的に真、また部分的に曖昧として見なす、かつ際限なしにそれ自身を定義し続ける、そして(B)不可避的に神を漠然vagueであるまま成長growingとして‘見える化’する。それを必要(必然)的Beingとしての神は莫ではないにも関わらずである。しかしその仮説は神は無目的性purposelessの反対the oppositeというのは誤り more falseであるというべきである。 

Peirceもまた意志the willは自由freeであり、[174]シネキスム(see Synechism)でいう不死immortalityについての控えめな種のものがあることを論じた。  

 

 

 

物理的形而上学 Physical metaphysics

 

Peirceは客観的観念主義 objective idealismとよぶ観方を持っていた、それは「物質というのは遊びこころや、ながい伝統からうまれた物理法則である」"matter is effete mind, inveterate habits becoming physical laws".というものである。[175] 

PeirceはBerkeleyの形而上学metaphysical theoriesは一見したところ逆説の雰囲気をもち主流になりえない軽さair of paradox and levityがあると観察したのである。

Peirceは三つの現実性realityを主張する;(1)絶対的チャンス"absolute chance"もしくはランダムネス randomness (his tychist view), (2) 機械的必然"mechanical necessity"もしくは物理的法則 physical laws (anancist view), and (3) かれが愛の法the "law of love"とよぶもの (agapist view) 

 

彼は偶然的変化fortuitous variation(スポーツ的と彼は呼んだ)、機械的必然性mechanical necessity、そして創造的愛creative loveの三つが進化のモードであるとした(モードは "tychasm", 、"anancasm", そして"agapasm"である)[177] 

彼はラマルック的進化 Lamarckian evolutionに内蔵しているアガパスムagapasmの概念を造ったのである;如何なるケースにおいても全体の観念は終結もしくはゴールに向かっていく性向の進化であること(the overall idea in any case is that of evolution tending toward an end or goal)、そしてそれはこころや社会の進化にもまたなり得る(it could also be the evolution of a mind or a society);それは一般的意味でこころの働きを示す進化種kind of evolutionである(it is the kind of evolution which manifests workings of mind in some general sense.)。 

彼は空間、時間、法.[178]の連続性現実reality of continuitを保持していく連続主義者シネキストsynechis,[100]であった。    

 

 

[1] a sentence or construction in which the expected grammatical sequence is absent, for example while in the garden, the door banged shut.

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日記240705  (その9)9. 推測のモード 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

2024-07-05 11:02:07 | 研究論説

朝日記240705  (その9)9. 推測のモード 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

 

  1. 推測のモード Modes of inference

 

推測のモード Modes of inference

主記事 Main article: 探求  Inquiry

 

アリストテレス Aristotleからの組み概念を借用してPeirceは推測 inferenceの基本モード三つを試験した、―アブダクションabduction,、演繹deduction、そして帰納 inductionである^―それはかれの「論議の批判」"critique of arguments"または「論理の固有」"logic proper".においてである。 

Peirceもまたアブダクションを「レトロダクション」"retroduction"、「プレサンプション」"presumption"そしてすべての早期「仮説」"hypothesis"と呼んだ。 

かれはそれを説明的仮説explanatory hypothesisへの想定guessingそして推測inferenceとして特長づけたのである。 

かれはときに、推論のモードを範疇的な  syllogism Barbara (AAA) の転換transformationsを使って詳論する、たとえば、「演繹、帰納、そして仮説」"Deduction, Induction, and Hypothesis" (1878).[163] においてである。  

彼はルール rule (バーバラ大前提Barbara's major premise)を、ケース(バーバラ小前提Barbara's minor premise)をそして結果(バーバラ結論Barbara's conclusion)を再配置してこれを行った;

 

 

Deduction.演繹

 

規則Rule: All the beans from this bag are white.
この袋からの豆はすべて白い

ケースCase: These beans are beans from this bag.

この豆はこの袋からの豆だ

∴結果Result: These beans are white.

この豆は白い

Induction.帰納

 

ケースCase: These beans are [randomly selected] from this bag.

これらの豆は(無作為にとり出した)ものだ


 結果Result: These beans are white.
これらの豆は白い

∴ 規則Rule: All the beans from this bag are white.

この袋からの豆はすべて白い

Hypothesis 仮説アブダクション(Abduction).

規則Rule: All the beans from this bag are white.
この袋からの豆はすべて白い

結果Result: These beans [oddly] are white.
これらの豆は[ 奇妙にも]白い

∴ ケースCase: These beans are from this bag.

これらの豆はこの袋からのものだ

 

 

Peirce は1883 年に 確率的推論の理論"A Theory of Probable Inference" (Studies in Logic)のなかで仮説的推論hypothetical inferenceが対象性質への帰納inductionと等しいとした(彼は以前にその効果を知っていたのである[126]))。

事実、1903年までに、それらは不満足であることを知ったのであった、それは一度ならずすべてであり、彼が三段論法形式を取り、論理的拡張を言及をし、彼が考えたものが幾分基本的でないと理解していると記述したのであった。

1903年に彼はアブダクション推論のための論理形式を以下のように与えたのである;[164]

 

驚愕的事実Cが観測される;

しかしもしAが真であるなら、Cは当然のことmatter事実のものであろう、

よって、Aが真であることを疑う理由が存在する。

 

その論理形式は帰納をもまたカバーしない、なぜなら帰納は感情驚愕に依存しないし、その結論の新規の理念も提案しないからである。

帰納はひとつの仮説を試験するための事実を探索する;アブダクションは事実の辻褄をあわせるための仮説を探索する。「演繹は、なにかがあるはず must beであることを証明する;帰納がなにかが実際に操作可能であるactually is operativeことを証明する;アブダクションは唯なにかがあるかもしれないmay beことを示唆する」[165]  

Peirceはアブダクションすべてをカバーするような一個の論理的形式をまったく確信していなかった。[166]

彼の探求についての方法論的 methodeuticなもの、または理論において、アブダクションをさらなる推論と研究のための経済的動機として捉えていた、そしてこれら三つのモードは探求での基本的役割りでの調整によって明らかになると捉えていた;仮説説明hypothetical explanation、演繹的予測deductive prediction、帰納的試験である inductive testing。 

 

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日記240705  (その8) 8.記号 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

2024-07-05 10:55:31 | 研究論説

朝日記240705  (その8) 8.記号 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

 

  1. 記号 Signs

記号 Signs 

Main article: Semiotic theory of Charles Sanders Peirce

See also: Representation (arts) § Peirce and representation, and Sign (semiotics) § Triadic signs

A list of noted writings by Peirce on signs and sign relations is at Semiotic theory of Charles Sanders Peirce § References and further reading.

 

 

主なる報文Main article: Semiotic theory of Charles Sanders Peirce

以下を見よ: Representation (arts) § Peirce and representation, および Sign (semiotics) § Triadic signs

Peirceによって書かれた記号および記号関係は以下である、Semiotic theory of Charles Sanders Peirce § References and further reading.

 

 

記号関係 Sign relation

 

Peirceの記号理論は一般的要請に応えるものであるが、もっとも複雑な記号理論semiotic theoriesのひとつである。なにごとも記号a signである―それは絶対的にそれ自身ではないが、その代り何かの関係relationなどおいてのものである。 

この記号関係 sign relationは鍵である。それはつぎの三つにまたがる役割りを定義するからである、それは(1) 記号the sign, (2)対象its object、これは記号の主観物件 the sign's subject matterとしてよばれるもの、そして (3)翻訳体 記号the signの意味meaningもしくは分岐ramificationである。それは翻訳体 interpretant (さらなる記号、たとえば通訳)とよばれたある種の効用effectのなかに形成されるものである。

Peirceによればそれはトライアド関係 triadic relationでありこれはこれ以上単純化はできないものである。この役割りは、これらの役割りを満たすものがないときでさえ顕著なものである。その役割りrolesは三つある;或る対象an objectはひとつもしくはそれ以上の翻訳体interpretantsへみちびく、そして、それら記号signsとして、それらの(翻訳体)はさらなる翻訳体へと導くのである。 

Extension示量   × intension示強  = information情報  

ふたつの伝統的なアプローチが記号関係へ、しかも十分条件ではないが必要条件となっており、このアプローチは示量 extension (記号の対象sign's objects、息breadthとよばれるもの、指示するものdenotation、もしくは適用applicationするもの)と示強intension  (対象特性objects' characteristics、質qualities、記号signが表す属性attributes、深さdepthとやばれるもの、理解 comprehension、意義significanceもしくは共有意識connotation  )の道すじとなる。 

Peirceは第三のものを加える、情報の道すじである、これには情報変化を含み、他の二つがひとつとなった全体に積分するための道すじである。[152]

たとえば、上の式the equationがあるがゆえに、もしある言葉の情報のトータル量は同じとするとき、その言葉が示強(意図、内包)'intends'し、対象objectsについて記号化signifyすることが多ければ多いほど、その言葉が示量(外包)'extends'の(数量)、あるいは適用する対象(の数)は少なくなる。

決定性Determination。 ひとつの記号はその対象に依存する、それはその対象を表示する道すじでの対象という意味である―対象は記号を可能にし、そして決定するのである。これの物理的な起因の意味(センス)は ある記号が指示する反応indicative reactionにおいてなり立つときに成立するのである。 

 

翻訳体は記号と対象の双方に類似して依存しているのである―対象は記号を決定し、記号は翻訳体を決定するのである。しかし、この決定は二項事象dyadic eventsの連鎖ではない、ドミノ倒しの列のようなものである;記号決定は三角性triadicである。 

たとえば、翻訳体interpretantは単に対象an objectを表示representするなにかあるものを表示representするのではない;そのかわりに翻訳体interpretantがその対象the objectを表示representingしている記号as a signとしてのなにかあるものを表示representするのである。 

対象は翻訳体への記号を決定する、それはその対象にともなう担保経験collateral experience[153]を通じてである、その(経験に)おいて対象は見いだされあるいは、それが記憶されているものが呼びこまれる経験からのものである、このような記憶経験は記号a signがそこにない空席状態対象an absent object.との偶然的類似chance semblanceにおいてなり立つ。

Peirceが使う語での決定する "determine" とは厳密なる決定意味ではなく、特定化する"specializes"意味であり, bestimmt,[154]という意味であり、影響influenceのような変化する量amountを含むのである。

Peirceは決定性(triadic) determinationという[156] 用語において表示representationと翻訳interpretationを定義したのである。

対象objectは他の記号signを決定するための記号signを決定する―それは翻訳体interpretantである、それは対象object に関係するため記号としての対象である、かくして翻訳体はその対象の記号としてその機能を満たし、さらなる翻訳体記号を決定するのである。

このプロセスprocessは論理的にそれ自身永続perpetuateするために構造化される、そして記号sign、対象object、と翻訳体 interpretantが一般的において定義的definitiveとなる。[155]

 

記号論的要素 Semiotic elements

 

 

Peirceは以下のように記号論においてただしく三つの基礎要素(記号行動)があることを支持した:

 

  1. 記号A sign (表示representamenの記号)[157] 

これは代表表示のもっとも広域的可能感覚でのものである。

 

それはあるものsomethingがあるものsomethingについてのあるものsomethingを語るとして翻訳される。それはシンポリックにでも、言語的でも、または技術的である必要はない―雲はたとえば雨の記号かもしれない、遺跡は古代文明の記号かもしれない。[158] 

Peirceが時々それを置く(かれは最低でも76回 ため息sign を定義した[155]),このように、その記号はその対象が翻訳者であるためにそこに立つ。記号はある観方での対象をあらわし、その観方は記号の岩盤を著す。[133]

 

  1. 対象An object (記号論的対象semiotic object)

これは記号と翻訳者の主観的案件subject matterである、 それは考え得る何か、質、起こり、規則等であり、仮想のものでもよい、たとえばハムレット王子 Prince Hamlet.[159]。 これらすべては特定または部分的対象である。 その対象はもっとも正確には物語の宇宙universe of discourseでありあ、部分的もしくは特殊的対象にぞくするのである。[159]

たとえば土星の記号の摂動perturbationは土星についての記号であるが究極的には土星についてのみではない、対象は(i) 記号に即応し、そしてその記号で表示されるような対象であるか、(ii) 動力学的対象である、即応immediate 対象として岩盤"as on bedrock"となって、その上に現実である対象がいるということである。[160] 

 

  1. (翻訳者記号interpretant signまたは)翻訳者 interpretant は記号の意味や記号の分岐であり、理念の種類または効果、翻訳性、人間またはその他への形式としてである。翻訳者interpretantとは記号signであり、ひとつは(a)対象の記号であり、そしてもうひとつは(b)それは同じ対象の記号としての翻訳前任者(翻訳された記号)である。

 

翻訳者interpretantとは (i)記号への即応性immediateでありそして単語の通常の意味としての質や可能性の種類の種である、もしくは (ii)動力学的な翻訳者で、それは先導位置としてである、または (iii)最終もしくは正規翻訳者 dynamic interpretantである、それは学習集積であり、十分に考慮された記号が実用での効果をもつか、その学習で実際の翻訳者がもっとも間違いをおこさない場合である。   

 

こころmindが必要としている理解のある部分はその対象objectとの親近性familiarityに依存する。 

与えられた記号signが指示するのは何かを知るためにはある経験experienceが必要である、それは記号対象sign's object,であり、外側の経験であり、そして記号sign と記号システムsign systemへの担保collateralした経験experienceである。 

その文脈においてPeirceが語るのは、担保的経験collateral experience [153]、担保的観察collateral observation[153]、担保的知己collateral acquaintance、同じ用語で表れるすべてである。[153] 

 

記号のクラス Classes of signs

 

Peirceの多くの記号類型のなかで、三つがそこに立ち、相互にインターロックをかけている。第一の類型はその記号それ自身に依存し、第二はその記号が指示した対象のためにどのようにそこに立つか、そして第三はその信号がどのようにその翻訳者への対象のためにそこに立つかに依っている。

三つの類型のそれぞれは三筋部門three-way divisionである、  trichotomyである。これはPeirceの三つの現象カテゴリーcategoriesで構成される;(1) 感情の質quality of feeling, (2) 反応、抵抗reaction, resistance,そして (3) 表示、仲介representation, mediation.[161]

 

 

Lines of joint classification of signs.

Signsの結合分級の線
Every sign is各signは:[161]

 

1.

 

2.

 

3.

I.

Qualisign

or

Sinsign

or

Legisign

and

 

II.

Icon

or

Index

or

Symbol

and

 

III.

Rheme

or

Dicisign

or

Argument

 

この類型はすべての記号をその記号自体の現象的範疇により分級する―  qualisignは質a quality、可能性a possibility、第一a "First";

sinsignは反応、抵抗reaction or resistanceであり、特定の対象singular object、実際の事態や事実actual event or fact、第二a "Second"である;

そしてlegisignは慣習habit、規則rule,、表象的関係representational relation, 、第三a "Third"である。

 

 

 

II.アイコン、インデックス、シンボル Icon, index, symbol:

 

この類型、もっとも知られたもので、すべての記号をその対象を支持している記号の様式カテゴリーによって分級化される―アイコンthe icon(見かけまたは類似)これはそれ自身のもつ質qualityによるものである、インデックスthe indexこれはその対象objectへの事実上結合factual connectionによるものである、そしてシンボルthe symbolこれは翻訳者interpretantのための慣習habitや規則ruleによるものである。  

 

 

III. Rheme, dicisign, argument ( あるいは sumisign, dicisign, suadisign, あるいはseme, pheme, delome,[162] おいび 非常に広域の版は伝統的な語で、 用語term, 提案proposition, 議論argument):

 

 

この類型はいずれの記号signもそのカテゴリーcategoryによってクラス別けclassifyするが、カテゴリーとはその翻訳者interpretantが記号がその対象its objectを記述する仕方に帰属する―rhemeとは、ある記号のことであり、たとえばある語が質qualityに関してその対象を表示するために翻訳されたその記号のことである;

dicisignとは、たとえば提案であり、事実factに関して、その対象objectを表示うるために翻訳された記号である;

そして argumentとは慣習や法に関してその対象its objectを表示するために翻訳された記号a signである。

これは第三のものについての最終帰着類型であり、そこでは、その記号は推論の構造的要素として理解される。

すべての記号はつぎの三つの中のどれかのクラスに所属する(I)の中に、そして  (II) の中に、そして (III)の中にである。

かくして三つの類型のそれぞれは、各記号のための三つの価値化されたパラメータとなる。

これらの三つのパラメータはそれぞれに独立ではない;

共存分級の多くは空席である、その理由はそれからの慣習かろのもの、もしくは質からのもの、そして特定な反応での慣習の欠如に帰着するものである。

結果は27ではなく、そのかわり10の記号クラスで、分析水準において十分に特定化される。

 

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日記240705  (その7)7. カテゴリーの理論 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

2024-07-05 10:47:39 | 研究論説

 

朝日記240705  (その7)7. カテゴリーの理論 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

 

  1. カテゴリーの理論 Theory of categories

 

カテゴリーの理論 Theory of categories

 

主記述はCategories (Peirce)

1867年、5月14日に、27歳のPeirceは"On a New List of Categories"と題する論文を American Academy of Arts and Sciencesに提出したそして翌年にそれを出版したのであった。

その論文は術語predicationの論理を形づくるものであり、三つの普遍的カテゴリーを含んでいる。これは、PeirceはアリストテレスAristotle、カントImmanuel Kant、そしてヘーゲル G. W. F. Hegelを読んだ結果から開発したカテゴリーcategoriesであり、これらはPeirceがかれの人生の終焉まで彼の作業において一貫している。[20]   

Peirceに研究者は一般的にこの"New List"をPeirceの「構築ということの科学的研究」"architectonic"、プラグマティズム哲学のための青図のための基盤もしくは竣工として見なしている。

このカテゴリーにひとは感知し、集中するであろう、そのパターンは明解なる三つのグレードによって形式化されていることを知る、これは(1878 paper foundational to pragmatism)プラグマティズムへの基礎となる1878論文にあり、かつ彼の沢山のtrichotomiesの作業によっている。

"On a New List of Categories"(カテゴリーのあたらしい表について)はカント流演繹としての影響をうけたものである;それは説明が十分ではいが、密度のたかいかつまとめるには困難なものである。以下の表はそれと後年の研究から編みあげたものである。[129]

1893年にPeirceはその殆どを再記述し、より一般むけに供したのである[130]

 

Peirce's categories (technical name: the cenopythagorean categories)[131] Peirceのカテゴリー(技術的名称:セノピタゴリアン・カテゴリー

Name

名称

Typical characterizaton

典型的特性

As universe of experience

経験の宇宙として

As quantity定量性として

Technical definition

技術的定義

Valence, "adicity"

結合、「付加性」

Firstness[132]

第一性

Quality of feeling

感覚の質

Ideas, chance, possibility

理念、機会、

可能性

Vagueness, "some"

 

曖昧さ、

「或る」

Reference to a ground (a ground is a pure abstraction of a quality)[133]

基盤としての参考(基盤は質について純粋な抽象)[133]

Essentially monadic (the quale, in the sense of the such,[134] which has the quality)

 

基本的に単項monadic(quale, the such,[134]

という意味において、その such

は質を所有している)

Secondness[135]

第二性

Reaction, resistance, (dyadic) relation

反応、抵抗、(対応)関係

Brute facts, actuality

素朴事実、

実際性

Singularity, discreteness, "this"

特異性、

別々分離、

「これ」

"this"

Reference to a correlate (by its relate)

相関(その関係による)としての参考

Essentially dyadic (the relate and the correlate)

基本的にdyadic(その関係とその相関)

Thirdness[136]

第三性

Representation, mediation

代表、

仲介調整

Habits, laws, necessity

習慣、

必要性

Generality, continuity, "all"

一般性、

「すべて」"all"

Reference to an interpretant*

解釈の参考として

Essentially triadic (sign, object, interpretant*)

本質的に三元性triadic (記号sign, 対象object, 解釈interpretant*)

 *Note: 

Intepretantは或る解釈プロセスの産物という意味での解釈物(人間もしくはそれ以外)である。

 

論理的または記号学 Logic, or semiotic

 

1918年、論理学者C. I. Lewisは書く、「C.S. Peirceの記号論理学への貢献は他の記述投稿者以上に数多くそして内容的にも多岐にわたるものであった―少なくとも19世紀においてはである。」[137]

 

 

関係性論理 Relational logic 

 

  "Logic of Relatives" (1870)は最初の論文であるが、Peirceは  Augustus De Morgan.[b] の嚆矢になる関係性の理論  theory of relations を拡張したのであった。

1940年に始まるが、 Alfred Tarski  とかれの学生は関係性論理学のPeirceのより開けた学問展望を再発見したのであった。それは関係性代数 relation algebra の展望展開へとつながった。

コンピュータ科学computer scienceでは、データベースdatabasesのための関係性理論 relational model は Edgar F. Coddの業績のなか、Peirce学派での理念によって展開された、かれはPeirce学者Arthur W. Burksの博士課程の学生であった。  

経済学では、関係性論理は Frank P. Ramsey,  John von Neumann, そして Paul Samuelson  によって選好性preferencesと効utilityの研究のために使われた、そして Kenneth J. Arrow はSocial Choice and Individual Values,社会的選考と個人的価値において関係性論理が使われたのである。この研究は City College of New York においてTarskiのいるArrow研究派に引き継がれたのである。 

 

数量詞 Quantifiers

 

Peirceとその同時代者たちである Ernst Schröder とGottlob Fregeについて、Hilary Putnam (1982)[91]は資料をまとめた、それは Fregeの業績で量化論理logic of quantifiersの部分は彼の同時代者たちへ影響を与えなかった、しかしそれはPeirceとかれの学生 Oscar Howard Mitchellの業績の4年以前に公開されたにもかかわらずである。

 

 Putnam は 数学者および論理学者が数量詞quantifiersについてPeirceとMitchelによる独立的研究を通じて学んだことを見出したのである。それは特にPeirceの論理代数学"On the Algebra of Logic“を通じてであった; 

 

記号の哲学への貢献は  にて出版され、Peano and Schröderによって編じられたが、そこで取り上げられたひとのなかにはFregeは無視されていたのであった。

それらは記法、印字修正など現在つかわれているものを採用しているはPeirceに依って採用され進化してきた。

PeirceはあきらかにFregeの業績を無視していた、かれらの達成が論理、言語哲学、そして数学基礎(philosophy of language, and the foundations of mathematics.)のおいて共通していたにも関わらずである。

Peirceの形式論理の業績は  Ernst Schröder の他にも賞賛者がある;

  • 哲学的代数学者 William Kingdon Clifford[139]と論理学者 William Ernest Johnsonであり、双方とも英国人である;
  • 論理と基礎数学のポーランド学派、これには Alfred Tarskiをふくむ;
  •  Arthur Prior 、彼は 1964年の論文においてPeirceの論理的業績を研究し、かつ賞賛する[28] 、そして形式論理(これはPeirceのFormal Logic  「多分、これ以前にも以後にも他のいかなるひとよりも基礎に対して鋭敏な目をもつ」)というpage 4のことを指している)。

 

 

論理の哲学 Philosophy of logic

 

論理の哲学、これは彼のカテゴリーと記号論での基盤をなすものであるが、Peirceの記述から抽出できるし、Peirceの業績のより一般的なものから拾い上げ、擁護できる、

これは Hilary Putnam (1982);[91] が行っている; Nathan Houser et al. (1997);[140] での序論;そして Cheryl Misak (2004).[141]での Randall Dipert'sの章である。

 

 

 

哲学的なものとしての倫理  Logic as philosophical

 

 Peirce は論理それ自体logic per se を哲学の一部門division of philosophyと見なした、一つの部門として、それは美学estheticsと倫理ethicsを基礎においた規範科学normative scienceとし、形而上学metaphysics,[118]以上に基本的としたのである、そしてもうひとつの部門として、それを「研究の方法をあみだす技術(わざ)」であるとしたのである。  

より一般的には、推論inferenceとして、「論理logicはその社会原理social principleに根差している」なぜなら推論inferenceは立ち位置standpointによっており、その立ち位置は無制限unlimited.[143]であるからである」 

現今、論理"logic".と単純に呼んでいるモノの多くを「論理数学」"mathematics of logic"と呼んでいる(これは否定的な見方を意味してはいない)

 

 

彼は (哲学的な)論理(philosophical) logicと論理数学logic's mathematicsの双方に生産的なものをみていた、それらは彼の仕事と思考に深く結びついている。

 Peirce は論じた、論理logicは形式記号学formal semioticであるとした;広義の意味での記号形式研究formal study of signsであり、これは技巧的artificial、言述的linguistic,、または象徴的symbolicである記号である、しかしそればかりではなく類似性semblancesまたは行為反応reactionsのときの検索的indexicalなものになる記号でもあると論じたのである。 

 Peirceは「この宇宙すべてに記号signsが浸透し充ちている、それは記号signs,が、たとえば組み構築composedされ、特定の表示性representationalと推測性関係inferential relationsを伴うといった排他的exclusivelyなものではなく、記号signsが先に浸透、充実perfusedしている」[144] とした。 

 彼は論じる、思考thoughtのすべては時間timeを取るので、思考すべては記号signs[145]の中にある、そして記号プロセスsign processes ("semiosis")は探求プロセスinquiry processのようなものであると論じたのである。   

かれは論理を分けたdividedのである:

(1) 特定的な文法speculative grammar,  もしくは知識の応用論stechiologyである、これは記号signsはどのように意味を持ち得てon how signs can be meaningful andそして,その意味の関係においてどのような記号がそこにあって in relation to that, what kinds of signs there are, それらがどのように結合していてhow they combine, そしてあるものは体を持ち得るembodyか他の者と結びついて incorporatいるかである; 

(2)論理的判断性 logical critic, または論理的特性 logic proper,であり、これは推論のモード the modes of inferenceに関係するものとしてである; そして

(3)おおきな見方speculativeまたは宇宙観universal rhetoricとして, またはものごとの筋の一貫methodeuticとして,[115]哲学的な探求 理論 philosophical theory of inquiryとしてであり、それにはプラグマティズム pragmatismを含む,.

 

論理先行性 Presuppositions of logic

 

彼の"F.R.L." [First Rule of Logic](論理の第一則) (1899)は、Peirceはいう、それは第一のものthe firstであり、「ひとつの意味において、それ単体」"in one sense, the sole",であり、理性に則っているrule of reasonということは、すなわち学ぶために、学ぶことを望むことが必要であること、そして思考に傾注することに満足することに絶えることなく願望しつづけることであると言明する。[118]

而して第一則は惑うto wonder.ということであり、Peirceは研究実施research practicesと理論形成shaping of theoriesでの吟味判断課題critical themeへとむかう;そこでは定理からえられる系 corollaryにつながり、それ自身がたとえば哲学の街の壁面に書かれるに値するようなものである;つまり探求の道すじに妨げしてはならない。

Peirceはさらに加えた言う、手段と経済性が研究ではもっとも望ましいのであるが、試論において外側からの罪意識などを一切継承させない、それが入ると試行として持ち込んだものを経ての研究の障がいとなり、また研究意欲への阻害となる。

そして「人許されざる攻撃」は真理の前進に対して哲学的障壁となる、その攻撃側にある「すべての世代での形而上学の学者たちを以って、彼ら自体がもっとも中毒に置かされていることを証明してしまうこと"metaphysicians in all ages have shown themselves the most addicted".になってしまうそのような攻撃を意味する。 

 

Peirce はかれの著述に一貫して、 logic precedes metaphysics(論理性が存在性ontological, 宗教性religious, そして物理性physicalに先行する)として、論理が形而上学に先行するという立場を保持した。

Peirceは探索への障壁を四つあげる:

(1)絶対的確実性の主張Assertion of absolute certainty;

(2)あるものが絶対的に不可知であることを保持しているmaintaining that something is absolutely unknowable;

(3)あるものが基礎もしくは究極であるがゆえに絶対的に説明不可能であることを保持するmaintaining that something is absolutely inexplicable because absolutely basic or ultimate;

(4)完全な厳密性が可能であるとし、特に全く非日常的で、かつ例外的現象であるとして保持するholding that perfect exactitude is possible, especially such as to quite preclude unusual and anomalous phenomena.

 

 

絶対的な理論確実性を拒絶することは可謬主義fallibilismの中核である、Peirceは可謬主義をもって、そのような障壁barriersを立てることを拒絶する・

Peirceは可謬主義の論理的先行仮説logic's presupposition of fallibilismが発現機会chanceと連続性continuityにおいて非常に現実realであるという観方を長い歳月をかけて導いていった(tychism and synechism)[101]。   

論理の第一則The First Rule of Logicは、目下取り込んでいる理由undertaking reasonと論理logicが、こころの方が先行するという前提仮説mind's presuppositionsを保持するというものである;その先行仮説とはたとえば真理とその現実はあなたやわたくしのそれらについての意見opinionに依るのではなく、そこに矛盾がみられないような顕現表示の関係representational relation(それはとても十分とは言えないまでも)の調査結果を仮説をとるのである。(以下をみよsee below) 

彼はそのような観念を希望hopesとして記述した、それはある特定のケースでは、ひとはもはや深刻に疑うことが出来ないという事態で、それをまとめてそれを希望hopesと表現するとしたのである。[146] 

 

 

四つの無能力 Four incapacities

 

The Journal of Speculative Philosophy series 思弁哲学ジャーナル(1868–1869), includingつぎのものを含む;  

  • Questions concerning certain Faculties claimed for Man (1868)           ひとのために要求されるたしかな能力に関する質問(1868)
  • Some Consequences of Four Incapacities (1868) 

四つの無能力の必然性(1868)

  • Grounds of Validity of the Laws of Logic: 論理法則の有効性の基盤
    Further Consequences of Four Incapacities (1869)四つの無能力のさらなる必然性

1868–1869においての三つの著述,[145][126][147]で、Peirceは言述的もしくは誇張的疑念および第一義もしくは究極原理を拒絶し、われわれが持っていること(彼はそれらを数えあげたが[126])を論議した;

 

  1. 内観の無力 No power of Introspection. 内的世界のすべての知識は既知の外的事実からの仮説的理由によってもたらされる。
  2. 洞察の無力 No power of Intuition (それ以前の認知による論理的決定なしの認知)。  認知のない段階は絶対的にプロセスの最初である。こころの行為すべては推論の形式をもつ。
  3. 記号を伴わない思考の無力No power of thinking without signs. 或る認知はつぎの認知において翻訳されなければならない、それは全体として或る認知にあるためにである。
  4. 抽象的非認知なるもの無概念性 No conception of the absolutely incognizable.

 

(上での洞察という語の意味はほとんどKantのものであるとPeirceは語る。それは現今の本能instinctiveや半意識的推論性half-conscious inference などをカバーするような緩い意味とは異なる)

Peireはこのような無力性は現実性についての一般性、および連続性、理性のモードの有効性、および哲学的なデカルト主義Cartesianism (see below)の失敗性を含むと論じたのである。

Peirceは(Kantがよく指摘するように)未知の物自体thing-in-itself[126]の概念を拒絶し、そして「信念作りを却下する」"dismiss make-believes"ことがプラグマティズムの前提条件であると後に言明した。[148] 

 

 

形式的記号論としての論理 Logic as formal semiotic

 

Peirceは形式哲学的道すじを数十年をかけ広域の研究をとおして探求した。それは思考プロセスのつまびらかさarticulate thoughtのためにであり、そして科学の働きをも、説明するためでもあった。 

本来性と生育過程で根ざした探求の動力学的設問は高度に絡まっていて、これが彼をして記号論へと向かわしめた、それは記号と推測の概念を著しく広げるものであった。

そして、総合して、所謂「科学がいかに働くか」と研究方法の工夫といる仕事の探索理論へとつながったのである。

これは数世紀のあいだ教えられてきた中世的定義medieval definitionによる論理であり、芸術ついての術art of arts、科学についての科学science of sciencesであり、方法methodsすべての原理への道につながるのである。[142] 

  Aristotle の業績での探求の平行線についての点から発している、その軌跡loci としては、 On the Soul魂についてでの心理学psychologyの基本的語彙;解釈についてOn Interpretationでの記号関係sign relations の基盤となる記述である。 

 

そして推論の違いを三つのモードに別けたのである、それらはひろく一般になり、英語世界では、アブダクションabduction、演繹deduction、そして帰納induction,であり、これは Prior Analytics, での位置づけである。 

  analogy (Aristotleはこれを paradeigma と呼んだ)による推論と同様、それはPeirveは他の三つを含むものとしてみとめたのである。

Peirceは1860年代に記号論について書き始めた、それは三つのカテゴリーの彼のシステムの考案であった。彼はそれを semiotic  及び semeiotic.とよんだ。ともに単数型と複数型として現在存在している。

彼は三角的記号関係の概念のうえにそれの基礎とし、そして記号性を定義したそれは「行為もしくは影響性としての記号性であり、つぎの三つの協力を含む、記号、その対象そしてその解釈者である、この三つの相対的影響はそれらの二つの組みでは解決にならないようなものである。」.[149]

思考における記号として、Peirceはその逆を強調したのである;「思考というものはその瞬間に起こすことはできない、しかし時間timeが必要である、ということは別の道すじということになる、それはすべての思考all thoughtは別の、もしくは思考thoughtが記号signsのなかにあるということであるのだ。[145]

 

 

Peirceはつぎのように考えた、思考thoughtのすべては記号signsのなかにあり、それは解釈でそのもの、そして解釈からのもの(in and from interpretation)である、ここでは 記号sign は非常に広い語彙wordにわたる、概念的な類似semblances、関係図diagrams、隠喩metaphors、診断symptoms、信号signals、標識designations、シンボルsymbols、テキストtexts、さらに心の概念mental conceptsと理念ideas、こころもしくは擬的こころ quasi-mindの決定determinationsとしてのものすべてである、それはこころa mindのような機能functionsをし、たとえば結晶やミツバチの働きのようなものがそれである[150]―その焦点は、心理学psychology、言語学linguistics、また社会研究social studiesよりも、一般には記号行為sign actionにある(かれが探求する場ではある)

 

探求は推論プロセスの一種であり、思考と記号学の様態mannerをもつ。現象が記号として成立する現象の道すじ、および探求への下位仮定subsumption、そして記号プロセスとして進行する推論内での思考は以下の三つの水準の記号学的探求の研究になる;

  1. 有意義の条件顕著な要素の研究とその組み合わせ、それらの文法

 Conditions for meaningfulness. Study of significatory elements and combinations, their grammar.

  1. 有効性、真の代表のための条件。それら様々別々のモードでの議論の批判的位置付け。 Validity, conditions for true representation.Critique of arguments in their various separate modes.
  2. 解釈をきめる条件 相互に作用しあうモードでの探求方法論。 Conditions for determining interpretations. Methodology of inquiry in its mutually interacting modes.

Pierceはしばしばわかりやすい経験からの事例をつかう、しかしそのようなものを哲学的論理の用語において明言しかつ翻訳するのである。

形式的位置付けにおいては、Pierceはいう:論理の定義性について、論理Logicとは形式的記号論formal semiotic.である。

記号Aは何かあるものAである、つぎに何かあるものB、これは翻訳的記号 interpretant signを持ってこよう、そのAは、Bによって決定されるか、それによって創出されて何かあるものCを同じ種として対応correspondence((もしくは下位に位置する種 a lower implied sort))させる、そのがその対象object であり、それにおいてそれ自身がであるとして位置するのである。

この定義は、それは時間の経過とともにある粒子を置いていくとき、これを線の定義する以上の人間思考への如何なる参照を含むものでない[1]、それは定義からくるものであり、私が論理の原理principles of logicを演繹deduceするのは数学的理由性mathematical reasoningによるのであり、そして数学的理由性によって演繹deduceするのである、それは、私は敢えて強調するものであるが、 Weierstrassian厳密性の判断批判criticismを支持するものであり、そしてそれが完全に検証可能perfectly evidentであるということに依るのである。そこの定義での語「形式的」"formal"もまた定義される。[151]     

 

 

 

[1] This definition no more involves any reference to human thought than does the definition of a line as the place within which a particle lies during a lapse of time.

 

 

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日記240705  (その6)6.探求の理論 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

2024-07-05 10:42:06 | 研究論説

 

朝日記240705  (その6)6.探求の理論 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

 

  1. 探求の理論 Theory of inquiry

 

探求の理論 Theory of inquiry

See also: Inquiry

 

 "The Fixation of Belief" (1877) においてPeirceは、探求inquiry.の心理的原点と狙いについて取り上げる。彼の観方においては、個人としての気がかりや不安anxiety and uneaseよる感情feelingsから逃れるescapeことを願うdesireこと、これが個人をして探求inquiryすることへと動機motivatedとなると捉えた、Peirceはこのような気がかりや不安を猜疑の状態特性the state of doubtのcharacteristicとして取り上げたのである。  

Peirceは猜疑doubtこそが「不安uneasyにして、不満足dissatisfiedなる状態を記述するもの」であり、「その猜疑の状態から我々自身を解放free ourselvesにするために、かつ確たる信念の状態the state of beliefへとたどり着くためにわれわれはたたかう」としたのである。

Peirceは「苛立ち」"irritation"のような用語を使って、猜疑状態の経験を記述し、かつ我々は動機になるような経験をなぜみつけることを考えるのかを説明しようとしたのであった。 

猜疑doubtの苛立ち感情irritating feelingが鎮まるappeasedのは何に依ってかといえば、Peirceは言う、そのある満足状態の収まりa settled state of satisfactionへの到達は、我々の努力effortsを通じてであると。 それへの状態を伴うことによって、われわれは、その状態の上に着地するのである、その状態とは、第一義的に猜疑にある場所に導いてくれるような問い questionに対するわれわれの答えour answerとしてのもの(状態)なのである。  

この収まった状態、これを信念beliefと呼ぶが、Peirceによれば「静寂にしてかつ満足のある状態であり、それはわれわれが逃げることを願わない状態なのである」 

信念の満足に到達する努力は、我々がどのような方法によったとしても、それはPeirceが探求"inquiry"とよぶものである。

四つの方法を以下の節にまとめておく、それは思考の歴史を通じて実際に追求してきたものとして位置付けている;

 

 

批判的常識主義 Critical common-sensism

 

 批判的常識主義Critical common-sensismはPeirceが彼のプラグマティズムの必然性からのものであり、それは彼の Thomas Reid常識哲学Thomas Reid's common-sense philosophyと 可謬主義fallibilismとの結合したものである。

これはたとえば、多少曖昧ではあるが目下のところ疑いえない共有感覚common senseについて、科学scienceを通じての我々の世界へと転換性故に、これを設問questionとして取り上げることを認めあうrecognizeことにある。

それは、疑うことができない何かがあって、それが緩慢ではあるが変化をしているようなものを共有しあっている、そしてその核となるグループa core groupに対して、テストとして真の疑問genuine doubtsを働きかけること、そのための努力することを含むのである。 

 

 

探求の競合法 Rival methods of inquiry

 

確信の定着性"The Fixation of Belief" (1877)において、Peirceは一般的に探究inquiryを真の追求そのものtruth per se としてでなく、こころ定まらない苛立ちirritating、抑えることができないinhibitory疑問によって突き動かされるたたかいstruggleとして記述する、これは驚愕や不合意、および類似、そして確かなるものに達するために確信存在(これはひとが行動準備するのであるが)からのものである。 

それはPeirceの科学的探究の枠組みとするものである、その枠組みとは広い視界の一部分であり、そして、実際的疑問によってであり、単なる言語の、言いがかりのものではなく、もしくは実質的に意味のないハイパボリック疑問 hyperbolic doubtからのものではない。

Peirceが意見を落ち着かせる方法として以下の四つ方法を描写した;

  1. 持続性からの方法The method of tenacity ―それは心地よくそして内容がハッキリしてしるが、これに合わない情報や他の見解を無視しようとする試みに誘導する、あたかも真が本来的に個人的なものであり、公的ではないかのようではある。この方法は社会的なインパルスからの当初案と比較して甲乙つけがたいときに迷うので、その成功は輝かしいこともあるが、一時的なものである。
  2. 権威からの方法 The method of authority –これは意見の非一致を克服するが、ときに野蛮なものである。その成功は「寅の威を借る」ものであり、かつ永続的であるが、それでいてひとびとを心底納得させることはできない、それはさまざまな疑念にたいして立ち向かうことには十分ではないからである、人々は他の社会での状況と過去についてまなぶからである。
  3.  先見からの方法 The method of the a priori –  それは左程の乱暴ではない程度に整合性を推進するが、風味tastesのようなものとして意見を提供する、「何が理性にとって合意的であるか」というという意味においての会話、そして観方についての比較を喚起するのである。 これによって、それはパラダイムparadigms の中での様相に準拠していて時を経ても、この仕切り円内の内側のなかを動いている。それはより知的でかつ尊厳的であるが、上の二つと同様に、偶然な変化そして気風の変化を吸収するが、それに対する懐疑doubtを保持している。
  4. 科学の方法The method of science– ここでは探求inquiryでは現実のものは発見可能なものであるが、特定の意見とは独立なものである、 それは他の方法とは似つかわしくなく、探求はそれ自身の勘定によって、可謬(fallibilism)に落ちいるし、正しさにとどまるとは限らない、そして、斯くしてそれ自体を目的的にテストし、そして、それ自身を批判し、訂正し、そして改善する。

 

Peirceの態度はつぎのものである;実際事態に際して、道理的に納得に至ることが手間取り遅滞していることは、しばしばこれにより危険に(われわれを)晒されることになる、それよりも本能instinctと伝統的感情traditional sentimentの方に軍配をあげることになるが、科学的方法scientific methodこそが理論的研究theoretical researchには最もよく適合していること[117]、したがって、科学的方法を他の方法や実際的な決着があるからといって引き下げるべきではない;理性の「第一ルール」[118] とは、学ぶためには、ひとは学ぶlearnへの願望desireをしなければならないこと、そして、その系として探求の道すじを緩めてしまってはならないということである。 

科学的方法Scientific methodはもっとも安心なる確信に事実上―至るべく慎重に設計され、その確信のうえに、もっとも成功的な実用が組まれることになり、それは最終的には他の方法にまさるのである。

ひとびとはことが何であるか戸惑っているかわりに、それ自体は真ではないが、疑うことを控えるようなアイディアideaから始まる。ひとが闘争struggleを通じて、だれかが確信のまとめとなる真truthを提出するに至り、ただしく与えられた目標に導く可能性ガイドを真truthとして探求する、そしてそれらを科学的方法と結婚させることができる、それがどのように行われるかを彼は証明したのである。 

 

 

 

科学的方法 Scientific method

 

実用的反省pragmatic reflectionによる明確化が説明的仮説explanatory hypothesesに適合し、かつ予測および試験を提供してくれるかぎりにおいて、プラグマティズムは基本的代替foundational alternativesの通常の二元性the usual duoを越え指示している。:これは自明の真self-evident truthsからの演繹 deduction、もしくは合理主義 rationalism;および経験的現象experiential phenomenaからの帰納 induction、もしくは経験主義 empiricismである。  

Peirceのアプローチは三元の論議モードmodes of argumentの彼の吟味にもとづいているが、foundationalism もしくはcoherentismとは異なっており、それは以下の三つの探求位相的動力学phase dynamic of inquiryによる探求自然化をもとめるものである。 

  1. 真についての事前の保証をともなわない状態no prior assurance of truthでの理論の実効的かつ abductiveな創生 genesis: 
  2. 実用的含意を明らかにすべく、適合理論contingent theoryの演繹的deductiveな応用;
  3. 未来経験予想で‘とりあえずの理論’provisional theoryの有効性についての帰納的な試験と評価inductive testing and evaluationであり、ここでの経験は予測 predictionと制御control双方の含む:
  4. これによって、Peirceは、これまで帰納一般性イメージsimpliciterというどちらかと現象的パターンに単にラベルを替えるような平面的イメージからさらに遥かに個体的である探索アプローチを工夫したのである。
  5. Peirceのプラグマティズムpragmatismはここではじめて哲学的質問のための認識論epistemologyとして、それが科学的方法 scientific methodであると提案されたのである。
  6. われわれの世界を予測し、制御することにおいてその競合のもの以上に成功した理論は真理により近いと言われている。これは科学者が使う真理truthへの操作的概念operational notionである。

科学的理性の自然性について問題位置づけをするために象徴的論理の展開の初期のものであるが、古典的論理でのなまの物質から、その探求についてのプラグマティックなモデルもしくは理論 model or theoryを抽出し、かつそれと平行してそれをを磨いていくものであった。

 

アブダクションabduction, 演繹deduction, および帰納inductionはお互いに孤立していて不完全な意味を構成しているが、探求の共通目的に向かって協力するかぎりにおいては全体として理解されるべきサイクルa cycleとして容認している。

概念的にして実用的な意味を考えるプラグマティックな道すじでは、すべてのものは目的をもち、かつその目的は可能なものとして第一に留意されるべきである。

アブダクションAbductionは演繹deductionのための説明を仮説化hypothesizeする、それは帰納inductionがその仮説を評価することができるような試験実施をあきらかにする説明仮説なのであり、それは不確定性のなかでの混乱のなかで、よりたしかとおもわれるものを獲得するためのたたかいのなかでおこなわれるのである。  

(アブダクション、演繹、帰納など)個々の推論モードからの抽象化研究することが筋として伝統的であり、かつ必要的であっても、探求の総合化integrityとしては、これらの主要成分の modularityからの有効性だけでは限界につよく遭遇するのである。

Peireceの概容は§III–IV of "A Neglected Argument"[119]での科学的概容outlineとして以下にまとめられる(かれの他稿記述を除く)。そこでかれは蓋然性と機能的精密さをも吟味している(項目 critique of arguments)。

 

 

1 アブダクティヴ(遡及性)相     

Abductive (or retroductive) phase。

試みる価値のある最良の選択のための説明的仮説への想定、推論性。

すべての探求、それが観念であれ、乱暴な事実であれ、規範あるいは法であれ、これらはひとつ、もしくはいくつかの領域王国(たとえばすでに取り掛かっている探求の各段階)において観測から驚異性から引き起こされるのである。

理論の説明内容はアブダクションからのもたらされるのである、これは驚異的あるいは複雑的な現象のために単純で分かりやすい方法でまとめることであり、これに使われる観念の新規性を問わないのである。

 

われわれの推察guessesでのわずかな成功は、偶然的幸運からの成功を越えたものであり、磨かれた、もしくは固有の本能による自然への微細操作から生まれるようでもある、殊に最適な推察はわかりやくかつ自然的であるという"facile and natural"意味で尤もらしく、かつ単純simpleであるのが好ましいとされる。それは  Galileo'の理性の自然なかがやきや論理的単純性から抽出されるようなものである。[120]

アブダクションはもっとも肥沃であるが推測のモードはもっとも主張への拘りsecureがよわいものである。その一般的な説得性rationaleは帰納的inductiveにあり;それはしばしば十分性enoughを継承し、そして新たな真理new truthsに向かわせるにあたり、他の代替物substituteを持たないのである。[121] 

 

 

1903年にPeirceはプラグマティズムpragmatismを「アブダクションの論理」"the logic of abduction"と呼んだのである。調整された方法coordinative methodは尤もらしい仮説をアブダクティングabductingの域から、その試験を可能testability[123]にするために、かつ如何にしてその試験法がその探求の節約のためへの、判断judgingを導くのである。[122]

この仮説は、信頼性に欠くものである場合には実際的な立ち合いに持ち込まれる、それはすくなくともメンタル試験さらに科学においての科学的試験をかれらに誘導することになる。

単純にして尤もらしくない推測は、もしそれを見破るにコストが障害にならなければまず最初にテストに供されることになる。

ひとつの推測がもしそれが尤もらしさplausibilityをもち、あるいは納得いく客観的確率reasoned objective probabilityをもつならその推測はそのための固有的方式による試験となるのである、一方それが納得性reasonedをもつものであってさえ、主観的な尤もらしさ subjective likelihoodは、誤った方向への誘導となりうる。 

推測Guessesは、試験を戦略的にするためにそれらの注意喚起、呼吸、または非複雑性のために選択されよう。(Peirceはその注意喚起のためのの例として「二十の扉」 Twenty Questionsのゲームをあげた)[125] 

ひとは、十分な経験を通じて遭遇したことだけを見つけ出しdiscover、そしてそのポイントを押し付expediteする:調査の節約としてアブダクションを急かせ、なおその技そのものを支配することもありうる。[124]

 

  1. Deductive phase. 演繹の層

 

ふたつびステージ Two stages:

  1. 解釈Explication.  明解なる根拠はないが、可能なかぎりその部分を与えるような仮説についての演繹的な分析。
  2. デモンストレーションDemonstration: 演繹的説明、手順としてはユークリッド的Euclideanである。

見出されるべき証拠の予測としての仮説必然性についての明解な演繹。Corollarial 系としてまたは、必要なら、理論的Theorematic.

 

仮説の評価Evaluation of the hypothesis、演繹的な必然性についての観測によるもしくは実験によるテスト。

帰納則の永続的有効性は原理から演繹されるのである(一般に納得にいたる事前想定性presuppositional)、この原理ではリアルは「十分なる調査がおこなわれるであろう最終意見で対象のみである」[111]

換言すれば、そのようなそのプロセスを除けばすべてが、全くリアルではないであろう。

帰納性は証拠の蓄積過程に含まれるものであり、「十分に一貫した方法は如何様な事前設定の度合いの下でも誤差が消滅」していくのである。」

                                                                             

 

Three stages三つのステージ:

  1. 分級化Classification.。明確な根拠がるとはいえないが、これは一般的観念のもとでの経験対象の帰納的分級。
  2. 暫定性Probation:直接的な帰納的論議。粗い帰納、ひとつの事例経験を基礎にしている(CP 2.759),、これは問題の未来での経験がこれまでのすべての経験とは大きくは外れていないことを想定presumesしている。(CP 2.756)

漸次的帰納Gradual Inductionとは各試験のあとでの仮説での真の厚みをもっていく推定であり、定性的もしくは定量的である。

定性的漸次帰納Qualitative Gradual Inductionは、調査のもとにある課題クラスのさまざまな定性的な相対的証拠比重を推定することに依っている。(CP 2.759; see also Collected Papers of Charles Sanders Peirce, 7.114–120).

 

定量的漸次帰納Quantitative Gradual Inductionは公正なサンプルでのSの出現の頻度に依っている、ここで Sの予測のためにPが実効的に伴うことによって見いだされる(CP 2.758)。それは測定、もしくは統計、もしくは数え上げに依るものである。

iii.感性的帰納Sentential Induction。「それは、帰納的事由によって、感性的な帰納としては異なる暫定性が望見appraiseされる、そこで、それらを勘案して、これらの望見appraisalsから自己的望見self-appraisalを作り、そして全体結果としての判断をきめるような…」帰納である。

 

 

デカルト主義に対して Against Cartesianism

 

Peirceは四つの不可能性four incapacitiesでの方法論的な示唆methodological implicationsを与えたのである― 

それ自体本質的な内観はありえないno genuine introspection、

推論を経ない洞察はありえないno intuition in the sense of non-inferential cognition,

記号を使わない思考のありえないことno thought but in signs, そして

抽象的認知のない概念のありえないことno conception of the absolutely incognizable—彼は挑戦することを目的として哲学的なデカルト主義をつぎのものであるとした;[126]  

 

1.「それが教えるのは宇宙すべて疑いから始めるなければならない」ということ―

われわれは、代わりに先行概念preconceptionsをもってはじまるが、「われわれにとっては起きることがない偏見prejudices [...]を設問とすることができる」、あとでそれらへの設問への理由をみつけるかもしれないにも関わらずである。 われわれはこころで疑ってもいないものを哲学において疑った振りをしないようにしよう。

2.「それはつぎのことを教えるとき、すなわち確実性の究極的試験は…個人の意識のなかにある」―科学ではある理論は合意に達するまで仮承認としてそこに留まるので実際的な懐疑者を残さない。個人単独ではだれも哲学的な多世代間の夢を満たすことを望むことができない。「率直でかつ規律あるこころ」はある理論的案件に不合意が続いているとき、その理論の提唱者はそれについて疑念を感じるべきである。

 

3. それは「しばしば疑念をいだかない前提に依っている推論の一筋」に信頼する―

それに代わって哲学は「成功した科学のように、具体的にして、吟味した前提で、かつ単一の論議に対する信頼からのみで前に進めるべきでないこと。そのかわり、「多重にして多種の論理」へつながるものである、それは少なくとも虚弱なリンクレベルの鎖ではなく「繊維の束のケーブル」、さらに「細いながらも十分な数でかつ密接につながっている」ものである。

 

4.それは「‘神がそのように創られた ’ということが説明として見なされるのでなければ、絶対的に説明できない」ことをたくさんの事実に与えることになる。[127] ―そのかわり、哲学は「非観念的」[128]であることを避けるべきである、これは事実的なものの可能な観念をすべて劣化させ、そして不可避的に「なにか絶対的に説明できないもの、非分析的な究極」を想定させるのである、これらの説明的まとめは何も説明する内容をもたず、そして受け入れられないものである。

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日記240705  (その5) 5.プラグマティズム 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

2024-07-05 10:37:38 | 研究論説

 

朝日記240705  (その5) 5.プラグマティズム 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

  1. プラグマティズム Pragmatism

 

主な著書: プラグマティズムPragmaticism, プラグマティズム格率 Pragmatic maxim, andおよび真についてのプラグマティック理論§Peirce  Pragmatic theory of truth § Peirce

いくつかの知られている報文と講義は以下である

 

  1. 信念のかため The Fixation of Belief (1877)

 

  1. われわれの理念を明確にする方法How to Make Our Ideas Clear (1878)
  2. 機会について宣言The Doctrine of Chances (1878)
  3. 演繹の確率性 The Probability of Induction (1878)
  4. 自然の秩序 The Order of Nature (1878)
  5. 演繹、帰納、そして仮説 Deduction, Induction, and Hypothesis (1878)
  • プラグマティズムに関するハーバード大学講義The Harvard lectures on pragmatism (1903)
  • プラグマティズムとは何か What Pragmatism Is (1905)
  • プラグマティシズムの案件 Issues of Pragmaticism (1905)
  • プラグマティズムPragmatism (1907 MS in The Essential Peirce, 2)

 

 

Peirceのプラグマティック思考のレシピはプラグマティズム pragmatismとよれ後にいわゆるプラグマティック格率pragmatic maxim.でのある版ではプラグマティシズムpragmaticismと再帰的強調されてよばれた。これは、彼の強調的な再回帰 emphatic reiterationsのひとつである。 

practical bearings[1]、それはあなたが意味する概念 conception の対象objectsをあなたが概念 conceive するものであるが、なんらかの働き(効果)がそのpractical bearingsを概念的conceivably に持たしめるかもしれないような、その働き(効果)とは一体何であるかを考えよう。   

そうすれば、それらの働き(効用)の概念性conceptionは、その対象についてのあなたの概念性conception の全体the wholeである。[2] 

ひとつの運動としてプラグマティズムは1870年代の初期に始まった、それは the Metaphysical ClubでのPeirce、William James, 等のなかでの討論であった。就ちゅう、Jamesは、Peirceのいくつかの報文を "The Fixation of Belief" (1877) として、特に "How to Make Our Ideas Clear" をプラグマティズムpragmatismの基盤的なるものとし認めた。[109] 

 

Peirce (CP 5.11–12)は James (Pragmatism: A New Name for Some Old Ways of Thinking, 1907)同様、プラグマティズムを実体のある優しい態度のものとして見た、それは哲学的にであるが,そして問題について実りある思考をするためのあらたな信頼のおける方法として内容を磨いたのである。

かつ現実的のいて、これらの用語のいくつかの意味において差異をもつものであった。それは彼自身の哲学的ムードの好みからくるものであった。

1905 年にPeirceはプログラマティシズムpragmaticism という名称をあみだした、それはもとの定義を正確に表すためでありJames' および F.C.S. Schillerの流れと合流する旧称"pragmatism"との整合がある。それは旧称は無用の攻撃で、誤って引き合いに出されている状況によっている。

 

それでもなお彼が指摘する1906年の原稿でかれはJamesとShillerとの違い、そして1908年出版では彼のJamesとの違いを 、文芸作者Giovanni Papiniのプラグマティズムの非定義性の宣言と同様にみるものであった。

Peirceは如何なる場合でも彼の見解をつぎのようなものとみなした、真truthは不動で無限immutable and infinityであること、それは他のpragmatistからの反対にしてもである、しかし彼は他の案件で彼らと連合を組んでいた。[110][circular reference] 

Pragramismはその信仰が、誰がその行動を準備したかに依ることという理念をもって始まる。PeirceのPragmatismは対象類の概念の明確化の方法である。

それはある対象の概念はその対象の効用の概念を等価させる、その効用とはいま考えている実践のための概念をも包含して、さらにその一般的拡張への対象の概念である。

それは概念上の混乱が起きたときにそれを選別する方法である、たとえば、(ときに必要とされるにもかかわらずが)形式としての未だ実践な差異をつくっていない場合である。

かれはプラグマティズムpragmatism と統計的原理statistical principlesの双方を科学的論理の観方として形式化したのである。彼の著作「科学論理の事例」シリーズがそれである。

 

 

第二のものは、我々の理念を如何にして明確にするかであり、Peirceは概念の明確性に三つのグレードを論じたのである;

  1. 未だ分析されずかつ展開されていない場合であっても、その概念が身近でかつ使えるような明確さにあるもの Clearness of a conception familiar and readily used, even if unanalyzed and undeveloped.
  2. ある概念が、その部分が明確であることによって、論理者がその理念を「区別できるもの」"distinct"ことによって、明確になる、

すなわち、なにがそれを利用できるかの分析によって明確にされるのである。他ではKantに呼応して、Peirceは類似した区別定義を規範"nominal"と呼んだのである。(CP 5.553)

 

  1. その対象の認識できる効果を認識できる実際性を含む明確さによる明確さ、困難なる課題に関して特別に意味ある理由を与えてくれるような場合である。かれはプラグマティック格率pragmatic maximと後に呼んでいる。

 

 

概念を如何に明確にすう例を使うことにより彼は真と実についての概念を所在化addressedした、これは一般的には理性化の先行設定presuppositions of reasoningの課題とした。

明確性の第二グレード(規範グレード"nominal" grade)では、彼は記号signの対象objectへの対応としての真truthを定義したが、これはそのような対応性のある対象としての現実性である。真と現実が君、私またはなにか実際のものがなんであるかとは関わりなくしかるべきコミュニティでの探求者community of inquirersが思考するような明確性である。

明証性の第三段階(プラグマティック、実用指向段)において、これは必要にして制約されたステップ(needful but confined step)のあとであるが、彼は早かれ遅かれ到達するであろうその意見としての真truthを定義した。

しかし、事実はその最終的意見にいたるにはまだ程遠く―たとえば帰納則での長期にわたる有効性のような、何か他の理論的な議論においてのアッピールに依存することは避けられない。[111] 

 

Peirceは次のように論じた;真とその現実性についての独立性と発見性independence and discoverabilityについて論じる場合でさえ、そのような独立性と発見性をもつ真が存在すると先行想定presupposeがあるべきであること、それはとくに議論のまな板のうえにある設問案件についてであった。  

Peirceは言う、概念のもつ意味conception's meaningというのは合理的指向の一般的モードすべて"all general modes of rational conduct"においてなり立ち、  それはまた概念の「受け入れ」によって内包impliedされるのである―すなわち、もしひとが何よりもまず、その概念が真であると受け入れたとしよう、するとそこでその概念が真であると受け入れたひとすべてが、それが合理的指向必然にして一般性のあるモードであるために、ひとは何を獲得することが出来きることになるか―そのような必然的にして一般的なモードこそが全体的な意味あるとしたのである。  

 

 

かれのプラグマティズムは概念性意味conception's meaningと知的作為intellectual purport,とを等しくequateするものではない、そのようなものは概念的な便益か概念性それ自身との対価を伴ってのものなのである。 

それは単なる見かけmemeであり(または、プロパガンダpropagandaといっておこう)、その真なる存在its being trueの見解perspectiveの外にあり、また概念ということでの一般性generalがあることになるが、その意味は実際必然性actual consequencesと等価meaning equatedであるというものではない、またその概念性や真価の内容を開発upshots corroboratingしていくようなものでもないのである。    

彼のプラグマティズムは中途半端なプラグマティズムとはなんら類似するものではない。

"vulgar" pragmatism "とは功利的mercenaryな、あるいは政治的な優位をもとめる抜け目ない  権謀術数者Machiavellianがやる探索を意味している。

それに代わって、プラグマティック格率pragmatic maximは彼のプラグマティズムの核芯heartでありそれは実験的精神の反映 reflection[112] の方法であり、概念性の宿す確信conceivable confirmatoryと(状況の)非確信disconfirmatory circumstancesとの意味での概念性conceptionsに至るのである―説明的仮説explanatory hypothesesの形成、そして使えるuseものとなるための教導、そして証明性への未達の修復にいたるための一時退避的な場hospitableをあたえる方法なのである。[113]  

 

[1] practical bearings 真理の実用的意味。哲学的な概念の哲学的分析を行うことは、その実用的な意味を示すことです。この観点から、真理や概念の実際的な適用に焦点を当てます2(検索「practical bearings」、Copilotから)

[2] 原文「Consider what effects that might conceivably have practical bearings you conceive the objects of your conception to have. Then, your conception of those effects is the whole of your conception of the object.」

 

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日記240705  (その4) 4.哲学者として 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

2024-07-05 10:32:05 | 研究論説

朝日記240705  (その4) 4.哲学者として 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

 

  1. 哲学者として As a philosopher

影響と遺産 Influence and legacy

 

影響と遺産 Influence and legacy

Peirceは30年間現役の科学者であった、そして議論のあるところであるが専門哲学者としてはJohns Hopkins大学で5年間講義をした。

彼は読書によって哲学を学んだ、日々、カント Immanuel Kantの純粋理性批判Critique of Pure Reason,をドイツ語原文で読んだ。これはHarvardの学部学生のときである。

 彼の著述は学問の広範囲に亙る、数学、論理logic,、哲学、統計学、天文学[28]、気象学 metrology,[3]、測地学geodesy, 、実験心理学experimentalpsychology,[4]、経済学 [5]、言語学linguistics,[6]、および科学史と科学哲学である。

この業績は新たな興味および承認、再活性化を引き起こす、それは科学進歩の最近のものを予測したばかりでなく、哲学が如何にして人類問題にたいして有効適用されるかの彼のデモンストレーションにもよっている。

 

Peirceの哲学philosophyはひろく知られた三つのカテゴリーシステムを内包している:真理truthは不変immutableでありかつ実際的見解(fallibilism)とは独立independentであり、かつ発見しうる(過激な懐疑主義ではない)という信念である、記号signsの形式的意味性formal semioticの議論、そして探求での― 哲学的プラグマティズム pragmatism(これは彼が基礎付けたものであるが)、批判的常識主義critical common-sensism、そして科学的方法 scientific methodである―そして形而上学での形式的論理である。  

スコラ哲学的現実主義Scholastic realism, たとえば John Duns Scotus、神への信仰、 自由、そして少なくとも、つつましい不死観attenuated immortality、客観観念主義 objective idealism、連続性continuityと絶対機会absolute chanceについての現実性reality、機械的必然性mechanical necessity、そして創造的愛creative loveの信仰beliefであるとしたのである。[100]  

 

 

彼の業績において、 可謬主義fallibilismとプラグマティズムpragmatismは幾分か懐疑主義 skepticismと実証主義 positivismに似た働きをするようにみえるかもしれない。

しかしながら、Peirceにとって、可謬主義fallibilismは反懐疑主義anti-skepticismと はバランスしていて、それが絶対機会性absolute chanceおよび連続性continuity,[101] の現実性を信じる基盤である、そしてプラグマティズムはひとをして一般性現実性において反名義主義anti-nominalistへの信念を採らしめている。(CP 5.453–457)   

Peirceの目には第一哲学、かれはこれをセノスコピーcenoscopyとも呼んだが、これは数学よりも少々基本でなく、そして特定科学よりはより基本である。

それは一般には実証的現象positive phenomenaを、いずれのひとにおいて、覚醒wakingしているときに有効なる現象phenomenaを研究するものであり、そしてそれは特定の経験へと区分けすることによって設問questionsを落着としないのである。[102]  

 

彼は哲学をつぎの三つに分 dividedけた、(1)現象論 phenomenology (ファネロスコピーphaneroscopy or カテゴリックcategorics ), (2) 規範的科学normative sciences (美学esthetics, 倫理学ethics, そして 論理学logic), and (3) 形而上学metaphysics; 彼の観方は以下に順を追って論じるものである。 

Peirceは美学aestheticsと倫理学ethicsを展開的に言述してはいない[103] が、1902年まで美学aesthetics、倫理学ethics、および論理logicは、この順において規範科学normative sciencesによって包含斎合化comprise。[104]   

彼は美学aestheticsを善good(称揚されるべきものthe admirableとしてとらえた)の研究として、そして而してすべての教導conductと思考 thoughtを統べる終焉目的endsの研究として位置付けたのである。[105]  

 

 

影響と遺産 Influence and legacy

 

Umberto Eco によって「間違いなく我々の時代においてもっとも偉大なる公開されざる著者」[106]として、そして Karl Popperによって「「すべての時代にわたって最大なる哲学者のひとり」[107] としてPeirceを記銘する。

 

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日記240705  (その3) 3.数学 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

2024-07-05 10:19:48 | 研究論説

朝日記240705  (その3) 3.数学 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

 

  1. 数学 Mathematics

Peirceの純粋数学においてのもっとも重要な業績は彼が論理的および基盤的分野においてであった。彼はまた線形代数 linear algebra、マトリクスmatrices、様々な幾何学、トポロジーとリスティングナンバー topology and Listing numbers、ベル数Bell numbers、グラフgraphs、四色問題 four-color problem、そして連続性continuityについての本質についてであった。

彼は応用数学に関して、経済学、工学、そしてマップ射影についての業績をもつ、そしてとくに確率論probability と統計学statistics[86]において活発であった。 

 

 

発見 Discoveries

 

否定論理和 Peirce arrow 、"(neither) ... nor ..."のためのシンボルもまたQuine dagger 

である。

Peirceは形式論理と基盤的数学において数々の顕著な発見をした、そのほとんどすべては彼の死後から年数を経てはじめて恩恵をもたらしている。

1860[87] に、彼は基数算術を無限数に対して提案した、それは Georg Cantor のいかなる研究よりも以前の歳のことである(Cantorhaは彼の博士論文 his dissertation in 1867 を完了したがBernard Bolzano's 1851 (posthumous) Paradoxien des Unendlichen.へのアクセスは残していた状態であった。

1880–1881に彼は Boolean algebra が繰り返し十分な単純二元操作を使ってどのように行われるかを示した、これはHenry M. Sheffer よりも33年早い予測であった。(See also De Morgan's Laws.) 

 

1881[89] に自然数算術の公理化axiomatization of natural number arithmeticを設定した、これはRichard Dedekind および Giuseppe Peanoより年数において早期であった。

同報文において、Peirceは有限集合の最初の純粋基数定義cardinal definition of a finite setを与えた、これはDedekindにすぐる早期であった、現在ではこれを「デーデキント有限」"Dedekind-finite"として知られている、そしてさらに無限集合infinite set (Dedekind-infinite)の重要な形式定義を行った、これはその固有のサブセットproper subsets.のひとつと一対一対応a one-to-one correspondenceにもちこめることができる集合a set としてである。 

1885[90]年には、彼は第1次数と第2次次数との間の定量化区分を行った。[91][92]

同じ報文において、彼は第1次的公理的集合理論first (primitive) axiomatic set theoryとして設定したがこれは後年20年後に Zermeloに先立つものであった。

 

Existential graphs: Alpha graphs

 

1886年に、彼はブール代数計算を電気スィッチを使って実施したのである、これは  に先立つこと50年を越える早期であった。

1890s[94]年代のおわりごろに、彼は存在グラフ existential graphsを考案した、これは予測計算 predicate calculusのための図式的記法であった。 John F. Sowaの 概念グラフconceptual graphs および Sun-Joo Shinの図式的理由性diagrammatic reasoningは彼の存在グラフに基づくものであった。

 

 

数学のあたらしい要素たち The New Elements of Mathematics

 

Peirceは  という題名で入門テキストの原案を書いた、それは独自の視点からの数学を与えるものである。

その原案と彼の未発表の数学的草案などは最終的にThe New Elements of Mathematics by Charles S. Peirce (1976) [86]として世に顕れることになった、これは数学者Carolyn Eiseleに負うものであった。

 

  

数学の本質 Nature of mathematics

 

PeirceはAuguste Comte に同意して数学を哲学および特定の科学(自然および精神)よりも基礎的なものと位置づけた。Peirecは数学を以下の三つに分類した:(1) 論理の数学mathematics of logic, (2) 数列discrete series, そして (3) 擬連続pseudo-continua (彼の呼称であったが、そこには実数 real numbersをふくむ) および連続 continuaである。

 

彼は父 Benjaminによる影響で、数学は純粋に仮説的対象purely hypothetical objectsを研究することおよび単に量の科学the science of quantityではなく、必然なる結論necessary conclusionsに導く科学the scienceであると論じたのである;すなわち数学は論理をたすけるが、論理が数学をたすけるのではない;論理logicはそれ自身哲学philosophyの部分であり、そして必然性および非必然性結論necessary and otherwiseに導くことについての科学the science である。[95] 

 

 

論理の数学 Mathematics of logic

 

数学的論理と基礎、いくつかの代表的報文

  • 論理のブール算術の改良について"On an Improvement in Boole's Calculus of Logic" (1867)
  • 関係性の論理学の記号の記述"Description of a Notation for the Logic of Relatives" (1870)
  • 論理代数について"On the Algebra of Logic" (1880)
  • ひとつの定数をもつブール代数"A Boolian [sic] Algebra with One Constant" (1880 MS)
  • 数の論理について"On the Logic of Number" (1881)
  • ノートB;関係性の論理学 "Note B: The Logic of Relatives" (1883)
  • 論理代数について "On the Algebra of Logic: 記号化哲学への貢献A Contribution to the Philosophy of Notation" (1884/1885)
  • 関係性の論理学"The Logic of Relatives" (1897)
  • 最単純数学"The Simplest Mathematics" (1902 MS)
  • プラグマティズムのための言い訳原論"Prolegomena to an Apology for Pragmaticism" (1906,存在性グラフについて on existential graphs)

 

 

確率と統計 Probability and statistics

 

Peirceは、科学scienceは、統計的確率statistical probabilitiesに到達すること、それは確実性certaintiesではなく、かつ自変化性向spontaneity (絶対的確率"absolute chance")が現実realであるとする見解を保持した(かれの観方としてTychism をみよ)。  

 彼の著述のほとんどは確率の頻度的解釈を推進するものであり、そして彼の著述は主としに対しての確率 probabilityの使い方につての批判吟味にあり、特に、それは解析者のモデルが対象試験としてランダマイゼイションobjective randomization.[96]に基づいていないとを見たときにである。 

Peirceは発現頻度主義者frequentist,ではあったが、彼の可能的世界意味論 possible world semanticsは、確率の仮説モデル理論 "propensity" theory of probabilityを導いたのであった、これは Karl Popper.[97]以前である。 

 Peirce (ときにJoseph Jastrow一緒に)は 実験的テーマ(つまり主題、課題)の統計的検定probability judgments を研究した。実験的心理学experimental psychology や(後年呼ばれるところの)ベーズ統計学Bayesian statistics.[2]といった主観主義的確率論 subjective probabilitiesの"おそらく最初の"提唱者である 。

 

 

Peirceは統計学の確立者founders of statisticsのひとりである。彼は(科学論理の図解)"Illustrations of the Logic of Science" (1877–1878) and (1883)および(確率的推論の理論)"A Theory of Probable Inference"で現代確率論を数式化したのである。

(繰り返し測定設計)repeated measures design,をもって、Charles Sanders Peirce と Joseph Jastrowは目隠し、制御ランダム化試験blindedcontrolled randomized experimentsを導入した(Hacking 1990:205)[1] (before Ronald A. Fisher)。[2] 

彼は重力場での実験のための最適設計optimal designを発明した、そこでは彼は手段"corrected the means"を修正したのである。

Peirceは相関correlation と平滑化  smoothingを使ったのである。彼の父Benjamin Peirceによる異常値outliersに関する業績をひろげた。[2] 

彼は「確信」"confidence"と「尤もらしさ」"likelihood"の術語を導入した(これは Jerzy Neyman および Fisherより以前である)。( Stephen Stiglerの歴史的著書とIan Hacking 1990.[1]をみよ)

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日記240705  (その2) 2.業績 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

2024-07-05 10:09:17 | 自分史

朝日記240705  (その2) 2.業績 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

  1. 業績 Works

つぎもまた見よ: Charles Sanders Peirce bibliography

 

Peirceの名声は学術論文に米国の科学および学術誌におおきく遺されていている、たとえばthe American Academy of Arts and Sciences会議予稿集、The MonistPopular Science Monthly展望的哲学論文集、the American Journal of Mathematics、忘備録the National Academy of Sciences、 The Nation, 他である。

これらのオンラインリンクでの拡張的リストは Articles by Peirce, published in his lifetimeを見よ。

彼の著書として十分な長さをもつ著(抽出でも抄録ではないという意味であるが)で、Peirceが著者としてかつ彼の生存中に出版されたという意味ではPhotometric Researches (1878) がそれに当たる[78]、天文学の図式的方法spectrographic methodsの応用に関する181頁数の専門書である。

Johns Hopkinsで彼は Studies in Logic (1883)論理学学習を編纂した、これは彼自身とかれの大学院学生graduate studentsによる章を含むものである。(1879–1884)年間での彼の講師を別にすれば彼は少なくも9シリーズの講義をし、その多くはいまなお出版されている;Lectures by Peirceをみよ。 

Peirceの死後、 Harvard University はPeirceの未亡人から彼の研究で見つけられた論文を寄贈された、しかし  1964年までそれらはマイクロフィルム化されなかった。Richard Robin (1967)[79] が  Nachlassとしてカタログ集したにしたあとではじめてそれがPeirceがおよそ1,650編の原稿、総ページ数にして100,000 pages,[80] を越えていたことが明らかになったのである。 

そのほとんどは on microfilmにあるのを除いて未だ未公開である。 彼の論文の周辺資料については Houser (1989).[81]をみよ。論文などは不満足な状態に残されていると報告される。[82]

 

Peirceの業績の没後の版はながく光の当たられており、しばしば重版になって、印刷体として保存されている。

Peirceの報文の最初の論文集はMorris Raphael Cohen, が編纂した Chance, Love and Logic: Philosophical Essays, 第1巻1923であり、紙の印刷物である。

他の選集はOther one-volume anthologies 1940, 1957, 1958, 1972, 1994, and 2009

でありほとんどが紙の印刷物である。

Peirceの没後の多くの版[83] はながく光彩をはなち、しばしば重版となっていたり、あるものは紙の印刷体のままである: 

1931–1958: Collected Papers of Charles Sanders Peirce (CP), 8 volumesはそれまでに未公開の業績とかれの交信のものからの収録である。

1860s to 1913でのかれの業績からの収集した永蔵的版であり、1893 から1913.でのもっとも行き届いた調査のものとして残っている。

 

課題ごとに編纂されてはいるが、しばしば講義シリーズなどでテキストがボリュームをまたがるものがある、精通された訪問者にはメモをのこされることが乞われる。[84]

 Charles Hartshorne とPaul Weiss とが (1–6)編纂し、Arthur Burks, (7–8)を印刷とオンライン化している。

1975–1987: Charles Sanders Peirce: Contributions to The Nation, 4 volumesは The Nation での1869–1908に公開された300の評論と報文を含んでいる。これはKenneth Laine Ketner が編纂し、 James Edward Cookがオンライン化している。

1976: The New Elements of Mathematics by Charles S. Peirce, 4 volumes in 5はPeirceの数学課題の未発表原稿が含まれており、ここにはPeirceの重要な数学の報文が含まれている。Carolyn Eiseleが編纂し、印刷に送られている。

 

1977: Semiotic and Significs: The Correspondence between C. S. Peirce and Victoria Lady Welby 

 (2nd edition 2001)は   Victoria, Lady WelbyとのPeirceの通信(1903–1912)全体が含まれている。the 20-odd pre-1890 itemsは、これまでのところWritings.は Charles S. HardwickとJames Cookによって印刷化された。

1982–現在: Writings of Charles S. Peirce, A Chronological Edition (W), Volumes 1–6 & 8, of a projected 30.

the Collected Papers はMax Fisch、他が1970年代に監修したがこれは収録範囲が限られ、編纂にも間違いがあった、より完全で検討した編年版を準備する使命を担ったものではなかったが、後年 Peirce Edition Project (PEP)の準備的なものであった。

7巻のみが今日披露されているが、 1859 to 1892の期間をカバーしている、Peirceの最盛期の研究の多くがここに収録されている。 

Writings of Charles S. Peirce, 8は2010年11月に発行されたが;そしてWritings of Charles S. Peirce, 7, 9, and 11.がプリントとオンラインのための作業が継続されている。

 

1985: Historical Perspectives on Peirce's Logic of Science: A History of Science, 2 volumes.

Auspitz は語る,[85] 

 「彼の時代の科学においてのPeirceの影響浸透についてはかれの Nation [...]とかれの論文での展望において検証される、そして彼の論文のなかに歴史的にして実用的なその応用と著者展望とを与えている。」これはHistorical Perspectives. Edited by Carolyn Eisele, back in printに後年に紹介されたものである。

1992: Reasoning and the Logic of Things はPeirce's 1898 seriesの講義をひとつにまとめたものである。

 

1992–1998: The Essential Peirce (EP), 2 volumesはPeirceの哲学的著述の最近での重要なサンプルであり、プリン用につぎの者たちによって編纂された;(1) Nathan Hauser and Christian Kloesel そして(2) Peirce Edition Project editors, in print

1997: Pragmatism as a Principle and Method of Right Thinking Peirceの1903 Harvard "Lectures on Pragmatism"(プラグマティズムに関する講義)は研究用の版であるが、彼の講義の準備草稿のものである、それらはそれまで単に蒐集としてのものとしては出版されていた;The Essential Peirce, 2. Edited by Patricia Ann Turisiとしてプリント化されている。

2010: Philosophy of Mathematics: Selected Writings「数学の哲学」;巽著はPeirceのよる重要な記述を集めたものであるが、そこでの標題は未プリントのものである。 Matthew E. Mooreがプリント用に編纂している。

 

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日記240705  (その1) 1.生い立ち 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

2024-07-05 09:36:02 | 絵画と哲学

朝日記240705  (その1) 1.生い立ち 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

―本文―

 

1.生い立ち Bibliogaraphy

早期での人生 Early life

 

Peirceの生誕地は、いまのLesley Universityの人文科学大学院があるキャンパスのなかである。 Peirceは Cambridge, Massachusettsの3Phillips Placeに生まれた。彼の両親、母はSarah Hunt Mills と父はBenjamin Peirceであり、父はHarvard Universityで数学と天文学 astronomyの教授であった。[a] 

 

Charlesは12歳のときにRichard Whatelyの論理の要素Elements of Logic、これは当時このテーマでの英語での代表的テキストであった。それが論理と理性的なものに生涯魅せられることになる。[14] 十代の後期から以降、彼は神経状態の問題を患ったのであった、当時「顔面神経痛」とよばれ、今日では「三叉神経痛」trigeminal neuralgiaと診断されるものであったであろう。

彼の伝記作者である Joseph Brent は、苦痛のなかにあるときは、「彼はまず、ほとんど馬鹿になって、そして攻撃的になって、風邪ひき状態になって、落ち込み、極度に疑いぶかくなって、目の前にちらちらするものにいらだった、そして激しい癇癪を起した」という[15]。 そのことは彼の後の人生を社会的孤立にしてしまったのかもしれない。

 

教育 Education

 

Peirceは芸術学士と芸術修士を取得するためにHarvardに行った。  年に  校が化学学士とHarvardの最初の summa cum laude chemistry 学位を修得した。[16]かれの学術記録はほかに際立つものがなかった。

Harvardでは、つぎの人たちとの生涯の交友の始まりであった; Francis Ellingwood AbbotChauncey Wright, and William James.[18] 

彼のHarvardでの指導教師のひとりは Charles William Eliotであったが、彼はPeirceについての好ましからざる見解を形成することになった。これは運命的であったのは、EliotがHarvardの学長である期間1869–1909がPeirceの活躍期間のほとんど重なっていたからであり、該大学でのPeirceの採用は何度も拒否される結果となった。[19]

 

合衆国沿岸測量 United States Coast Survey

Peirce in 1859

1859 から1891の間、Peirceは途切れながらも合衆国沿岸測量がもつ多岐の科学部門に採用されたのであった、これは1878年に United States Coast and Geodetic Survey,[20] と名称があらたになった部門である、ここで彼は彼の隠然たる影響力からの保護を結果的には享受したのであった、それはその父の 1880.[21]の死をもって終わる。この部局では、彼はおもに測地学geodesy と重力測定gravimetryの分野において 振り子 を使って地球の重力性における局所的な変動を決定するものであり、振り子pendulumsの使用取り扱いの上の向上を目指すものであった。 

 

 

南北戦争 American Civil War

 

この雇用はPeirceをして南北戦争 American Civil Warへの任務をになう義務から免除した;このことはこれをして彼の立場をきわめて不自然な位置awkwardにすることになった、丁度、南部 Confederacy.[22]に対して同情的な ボストン・バラモン階級Boston Brahmin のエリートとしてになる。 

 Peirce家のだれも戦争ボランティアや、登録することはなかった。 Peirceは白人優位は所与のものであり、奴隷制は自然であるとする家系に育ったのであった。[23]

Peirceの父は分級主義secessionistとして自身を記述した、その戦争が起きるまでそうであったが、勃発後は北軍Union に味方し、北部の戦争事前を先導する衛生関与Sanitary Commissionに献金したのであった。

Peirceは論理の伝統的形式が非現実的である例示としてつぎの三段論法syllogism 野礼二を好んだ(第一前提にすでに議論になるべき結論を仮定しているassumes the conclusion):[24]);

すべてのひとは政治的権利において平等である。

黒人はひとである。

したがって、黒人は白人の政治的権利において平等である。

 

 

欧州への旅行 Travels to Europe

 

彼は1867年1月に 米国人文科学学術院American Academy of Arts and Sciences  の専任研究員に選出されたのであった。[25]

調査団は

五回にわたり欧州に彼を派遣した。まず 1871年に日蝕solar eclipseの観測にグループの一員として送られた。そこでは、 Augustus De Morgan,  William Stanley Jevons, および William Kingdon Clifford,[27] に巡り合ったことになる。かれらは英国の数学者であり、かつ論理学者であり、その思考方式が彼自身のものと近いものであった。

 

 

ハーバード大学天文台 Harvard observatory

 

1869 から1872年に彼はハーバード大学天文学観測所の助士として雇用された、その主要な業務は星f starsの光度と銀河系Milky Way.[28]の形状の決定に関する重要な任務であった。 

  1872年に、かれは 形而上学クラブ Metaphysical Clubを設立した、これは会話論議的哲学クラブであり、ここにはPeirceはじめ、未来の最高裁判所判事Supreme Court Justice  Oliver Wendell Holmes Jr.、哲学者にして心理学者 William Jamesがおり、これらはJanuary 1872年1月、 Cambridge, Massachusettsにて設立、December 1872年12月に解散している。

このクラブの他のメンバーは Chauncey Wright,  John Fiske,  Francis Ellingwood Abbot,  Nicholas St. John Green, およびJoseph Bangs Warner.[29] ここでの検討議論はPeirceのプラグマティズムの観念を実質的に生むことになった。

 

国立科学アカデミー  National Academy of Sciences

 

Peirceの球を正方形への射影法は赤道上の孤立した4点を除いて角度を真に保つkeeps angles true ことができる、そしてこれは  Mercator projection よりも少ない尺度変化scale variationを持つものである。これは  tessellatedすることに成り;すなわち辺と辺とを連続的につなぎわせることで済むのでコピーをつくりやすい利点をもっている。

 

 1877年 4月20日に、彼は  National Academy of Sciences.[31]の一員として選ばれた。 1877年には、彼はメートル尺を測るに然るべき周波数の光の波長の大きさをつかうことを提案して、この定義の系統は from 1960 to 1983の間採用されている。

 

 1879年にPeirceは  Peirce quincuncial projection を開発した、これは H. A. Schwarzの 1869 conformal transformation of a circle onto a polygon of n sides によって啓発されたものであった( Schwarz–Christoffel mapping として知られている)。

 

 

 

1880 年から1891 年まで 1880 to 1891

 

1880年代は、Peirceの官吏の経験での詳細は顕著ではなくその質そして納期においても光彩を放たなかった。

Peirceは数か月で完了すべき報告書の作業に年単位の時間を費やした。[according to whom?] 

その間彼は百科事典 Century Dictionary.[33]の項目執筆をした、それは1883–1909にわたり、哲学、論理学、科学、そして他の項目、究極的には数千項目に達した。

1885年に Allison Commissionの調査でPeirceを無罪としたが、監督Julius Hilgard と他の幾人かの沿岸測定要員に対して公的資金の不適使用の件をもって罷免へとつながった。

1891年にPeirceは 監督Thomas Corwin Mendenhallの要求によって沿岸測定から回顧されたのである。[35]

 

 

ジョンホプキンス大学 Johns Hopkins University

 

1879年にPeirceは Johns Hopkins Universityでの論理学の講師として採用された、この大学は当時哲学 (Royce and Dewey がHopinsでPhDを終わっていた)や心理学(G. Stanley Hall が教鞭を取っており、 Joseph Jastrowが研究にあった、後者は後にPeirceとの記念碑的経験研究の共同著者となる)そして数学(  J. J. Sylvesterはそこで教鞭をとっていた、彼は数学と論理学でのPeirceの研究業績についてすでに賞賛していたのであった)のようなかれが興味をもつような分野でつよい部門をもっていた。 

彼のStudies in Logic by Members of the Johns Hopkins University (1883)には彼自身と Allan MarquandChristine LaddBenjamin Ives Gilman, とOscar Howard Mitchell,[36] による研究成果が含まれている、そのうちの幾人かは当時彼の大学院学生であった。[7] PeirceのHopkinsでのこの非専従地位こそは彼が得た唯一の学術世界での獲得したものである。

 

BrentはPeirceが決して疑われることのない何かについての記述を残す、それは彼の学術界での採用、地位、そして科学的尊敬性についてはその時代の力あるカナダ⁻アメリカ人科学者の表にあらわれない反対によって妨害をうけた、その名はSimon Newcombであった。[37] 

NewcombはPeirceの父がお気に入りの学生であった;「疑いなく輝いた才能」であり、「あの映画Peter Shaffer's Amadeus での Salieri の彷彿するそれであった、Newcombもまた自らが天才ではないことを知悉する才能は十分にもち、そしてそれを有する誰かを 憎む狭量性をも十分備えていた」

加えて、「つよい信仰心と文字通りの厳格な道徳基準のキリスト者」であったことから彼がPeirceのその個人的欠点にこだわったことによって道が閉ざされた」.[39] それに対して、Keith Devlin はPeirceの業績が彼の時代をはるかに先のものであったのでその時代での学術的世界から評価をうけることはなく、そしてそれが彼の この世界での定席を獲得することの障害となってしまっていたと確信したのであった。[40]

 

個人の生活 Personal life

Juliette and Charles by a well at their home Arisbe in 1907

井戸端にて、ジュリエッタとチャールズ、かれらのホームのあるアリスビ

 

Peirceの個人生活は疑うことなく彼の職業的成功に不利に作用した。彼の最初の妻  Harriet Melusina Fay ("Zina"), は 1907年 に彼のもとを去った。[41] 

Peirceは、法的には結婚のまま、1883年に he married Juliette.[45] と深い関係になった、彼女の姓はFroissy  およびPourtalai,[42]として様々にあり、そして国籍的には確かではない(彼女はフランス語を話した)[43] 

彼の  との離婚は 1883年に最終的に成り、彼は Juliette.と結婚した。[45] その年、NewcombがJohns Hopkins trustee財団の理事にそのことを指摘したのであった、一方Johns Hopkinsの職員がある女性と旅行した、その女性とは彼は結婚していなかった;必然的にスキャンダルが 1884年1月.[46]  彼の解雇へとつながったのであった。 

その後においては、Peirceは様々な大学での学術的身分雇用を求めたが、成功することはなかったのである。[47] 彼にはいずれの結婚によっても子供は恵まれなかったのである。

 

後の生活と窮乏 Later life and poverty

Arisbe in 2011

Charles とJuliette Peirceの墓石 grave

 

 

 1887年にPeirceは彼の両親からの遺産の一部の Milford, Pennsylvaniaの田園地 2,000 acres (8 km2)に暮らした、これからは経済的な資を得ることはなかった。[49]

  に彼の設計で農家邸を改装した。[50] Peirceはそこを「Arisbe」と命名した。そこに彼らはほとんど中断することなくかれらの生涯を過ごしたのであった。[51] 

Charlesは彼の晩年の二十年は冬の暖、およびその地のパン屋が提供してくれる固くなったパンを買う余裕に窮していた。

文房具にも事欠き、彼は書き古した原稿の裏 verso sideに執筆した。

暴力沙汰や不払い債務からおきる令状は彼をしてNewYork市にしばらく逃亡せざるをえないこともあった。[53] 

幾人かのひとびと、彼の兄弟である r James Mills Peirce[54] 、そして  Gifford Pinchotの彼の隣人、親戚がPeirce の借財を清算し、そして税や抵当権を払ってくれた。[55]

Peirceはいくつかの科学と工学コンサルタントをしそして沢山の書きものをのこしている、これは貧しい収入であった。主に The Nation (この編集者はWendell Phillips Garrison であり、彼は友誼に篤かった)のための百科事典の項目書きとレビューであった。

彼は  Smithsonian Institution のための翻訳に携わった、これは監督 Samuel Langley の配慮であり、Peirceは Langleyの研究である動力飛行に関する実質的数学計算であった。

 

金策のためPeirceは発明に試行した。[56]

彼はいくつかの著述を試みたが完成しなかった。[57]  1888年に Grover Cleveland 大統領は彼を 試験委託者 Assay Commission.[58]に指名した。

 1890年に彼はChicagoのJudge Francis C. Russell にひとりの友人と称揚者を得たのであった、このひとはPeirceを Paul Carus と Edward C. Hegelerに紹介した。このひとたちは新分野開拓となる米国哲学誌 The Monistのそれぞれ編集および所有者であった、ここに実際にPeirceは14報文を投稿している。[60]

彼は 哲学と心理学事典James Mark Baldwin's Dictionary of Philosophy and Psychology (1901–1905) に沢山の項目テキストを書いた;彼に宛てられてそれらの半分は実際には彼への発注監督者である  Christine Ladd-Franklin であったことが判明している。

 

彼は 1902年に新設された Carnegie Institution  にグラントを応募した、彼の生涯の仕事を記述する系統的著述を仕上げるためであった。その応募は闇に葬られた;彼の仇敵  であり Carnegie Institution の理事会のメンバーであり、そしてその理事長はPeirceがJohns Hopkinsを解雇されたとき以来の該大学の理事長でもあった。 

Peirceがこのような絶望的な時機にたすけるための尽くしたのは彼の旧友である Will to Believe (1897) であった、彼の (1898 and 1903).[63] をPeirceに捧げ、かつPeirceが収入を得るべくHarvardにて、そしてその近傍にて講義コースシリーズを二つを提供したのであった。 

もっとも重要なことは 1907 から毎年、Jamesが逝去する 1910 まで、Jamesはボストンの知識層である友人たちにPeirceのための資金援助を要請してきたのであった;その資金はJamesが死去したのちも継続されたのであった。 

PeirceはJamesの長男を彼の遺産相続として繰り返し記した、それはJukietta PeirceがPeirce自身よりも早逝した場合を条件としていた。[64] それは次の点でも表れていた、彼はそのミドルネームに(英語で"St. James"を意味する)"Santiago"を使っていたからである、しかし1890年の初期での印字ではCharles Santiago Peirceとして使っている。さらなる詳細についてはCharles Santiago Sanders Peirce をみよ)

 

 

逝去と遺産 Death and legacy

 

Peirceは  Milford, Pennsylvaniaにおいて貧しく死んだ、彼の未亡人が20年彼の骨壺を Arisbeに身元に置いた。

  に、ペンシルバニア知事  Gifford Pinchot はJuliettaのためにMilford共同墓地へのアレンジをし、Peirceの遺灰のもとにJuliettaを埋葬したのであった。[65]

Bertrand Russell (1959)は、「疑いをこえて彼は19世紀後半のもっともオリジナルな精神のひとりであったしそして確実にアメリカの思想家の最大偉大なるももであった」と書く。[66] RussellとWhiteheadの数学原理 Principia Mathematica, は1910 年から 1913年の出版であったが、Peirceについては何ら触れることがなかった(Peirceの業績はさらに後まで広くはしられていない)。[67]  

  1. N. Whiteheadは、1924年にHarvardに着いたすぐにPeirceの未公開原稿のいくつかを読んでいる一方で、衝撃をうけた、それはPeirceが如何に彼自身の "process" thinking. を予測していたかを知ったからであった。(Peirceとプロセス形而上学process metaphysicsについて、 Lowe 1964.をみよ)[28]

 

Karl Popper はPeirceは時代をこえてのもっとも偉大なる哲学者のひとりとして評価した。

それでもなおPeirceが達成したものは直ちには調べられていない。かれの同時代の  は彼を賞賛しているし、そして William James と Josiah Royce[69]も、そして  Columbia大学の Cassius Jackson Keyserそして C. K. OgdenもPeirceについて敬意をもち、なおその影響についてはかり知れないと記している。 

Peirceについて最初に専門分野に対して注意を喚起させた学者は Royceの学生であったMorris Raphael Cohen  であった、かれはPeirceの著述の集積Chance, Love, and Logic (1923)  編集者であり、Peirceの逸散している著述資料の最初の編成の著者であった。[70]

John DeweyはJohns Hopkins.[7]でのPeirceの学生であった。1916年以降、Deweyの著述には尊敬をもってPeirceを繰り返し称揚した。

1938年の彼の Logic: The Theory of Inquiry が多くPeirceに影響を受けている。[71]  Collected Papers (1931–1935)の初版の六つの巻はPeirceのもとでの研究時代へのもっとも重要な業績であった、そしてCohenは必要なファンドを起こすことを可能にせしめた。[72] ;しかしながらそれはつぎの段階への出発をうながすことにはならなかった。

 これらの巻の監修者であったCharles Hartshorne and Paul WeissはPeirceの専門家ではなかった。

二次的文献の初期の成果となったのはBuchler (1939), Feibleman (1946), and Goudge (1950),  Arthur W. Burks の1941PhD論文(彼が巻7と8を編纂した),そしてWienerとYoung(1952)によって編纂された研究であった。

 

 

 Charles S. Peirce Society が 1946年に設立された。ここでは季刊の学術的報文集として1965年以降のPeirceのプラグマティズムと米国哲学の報文が掲載されている[73] (See Phillips 2014, 62 for discussion of Peirce and Dewey relative to transactionalism.)

1943年までにPeirceへの評価は、少なくとも米国においては次のようなものである、 Webster's Biographical Dictionary の記述において、Peirceは「彼の時代でのもっともオリジナルな思想家でありそしてもっとも偉大なる論理学者であるとみなす」ものである。[74]

1949年に、数学史家である Carolyn Eisele (1902–2000) は、歴史資料の調査のなかで偶然にPeirceによる自叙伝的書簡に遭遇した。彼女は以降 四十年に亘る Peirce研究がはじまり、ついに彼女をして彼を「数学者ならびに科学者」の最高峰の位置Eisele (1976, 1979, 1985)に至らしめた。 

1960年代にはじまり、哲学者と歴史家のPeirceに関する権威ある研究が現われ、特に historian of ideas Max Fisch (1900–1995)が顕著である。(Fisch, 1986).[75]  

MaxFischはそこに1983年の彼のPeirceの思想の真迫性impactについて質の高い相当数の調査報文をそこに収めている。

Peirceは国際的な追従者を増やしていった、大学の研究センターが顕著でありPeirce研究とプラグマティズムpragmatism への貢献である、それは、ブラジル (CeneP/CIEP) 、フィンランド (CeneP/CIEP) 、ドイツ (Wirth's groupHoffman's and Otte's group, および Deuser's と Härle's グループ[76]) 、フランス (L'I.R.S.C.E.), 、スペイン (GEP) そしてイタリア (CSP). である。 

 

彼の著述はいくつかの国への翻訳が行われてきており、それはドイツ、フランス、フィンランド、スペイン、そしてスウェーデンである。1850年以降はフランス、イタリー、英国、そしてブラジルの学者たちの注目が続いている。

長い年月、北米の哲学部門でPerceへもっとも貢献してきたのはトロント大学 University of Torontoであり、特にThomas Goudge and David Savanの指導力に負うところおおい。

近年では、米国でのPeirce学者はIndiana University – Purdue University Indianapolis, さらにPennsylvania State Universityに集合しており、これらがPeirceの研究再編基点を形成している。

現今では学術的哲学の分野の以外の研究者がPeirceの理念に大きな関心がおかれている。

この関心は産業、技術、情報機関、そして軍;そして相当数の機関、研究所、企業、そして研究機関においてであり、そこではさらにPeirce概念の厳密化への展開へと研究の進展がおこなわれている— Robert Burch2001年から 2010年(updated )[20]

近年では、Peirceの記号に関する三分法trichotomy はマーケッティングや設計分野でさらなる利用法に目が向けられている。

John DeelyはPeirceは モダニズムthe "moderns" の最後、そしてポストモダニズムの最初"first of the postmoderns"ち書く。彼は、Peirceの記号doctrine of signsに関する宣言はポストモダニズム時代の黎明への貢献として評価した。 

Deelyはさらに、「Peirceは Augustineを以ってカトリック世界の聖師父the Western Fathersの最後、そして中世の始めthe medievalsとするのと類似的な位置付けとして立つ」と付言している。[77] 

 

 表紙へ ↓

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする