おひとりさまの介護

母が認知症になった。なにもわからなかった介護の世界との格闘記

介護認定がおりた

2008年02月29日 | Weblog
今日ようやく母の認定結果の通知書をもらった。
要介護1である。
要支援でなくてほっとする。
介護保険自体が身体介護を基本としているし、よその人に対しては、おそろしくしっかりした応対をする母なので最悪要支援を覚悟していた。
要介護となればケアマネージャーさんにケアプランを頼むことができる。
本当は軽いほうがおめでたいのだが、いつ急激に進行するかわからない認知症なので、やはり要介護でよかった。
意見書をかいていただいた物忘れ外来の主治医の先生に報告しなければ。

認定待ち

2008年02月26日 | Weblog
この時期は間際になって依頼される仕事が多く、どうなることかと思っていたが、母の状態が安定しているのが幸いだ。

母の骨折事件は、今までの延長で進んでいったら自分の身動きがとれなくなることを気づかせてくれるいいきっかけだった。
休んだことにならなかったお正月明けの4日、さっそく区のお年寄り相談センターに相談に行った。
相談員の方が、看護師の資格があって、こちらのニーズを整理できる頭のいいひとだったので非常に助かった。
1月28日に認定の調査員が来訪。今は認定待ちである。
時間がかかるので、やはりこういうことは早め早めに手を打っておく必要があると思う。

ぼけ老人のいる風景

2008年02月24日 | Weblog
昨日の番組で、柳生博が言っていたが、子供のとき周りにボケたお年寄りがいて、それでも田植えのときは水路の幅を小石を使って調節するなど経験からくる役割を果たしていた、そんな当たり前の風景があったという。
ぼけ老人は昔からいた。
問題は、都市化と近代化かもしれない。
都市化は当然核家族化を内包する。
近代化による技術革新や変化の速さは昔の比ではない。
昨日の番組で指摘されていた。社会が脳が正常な人を前提に組み立てられているとき、認知症のひとは社会に適用できない。

告知すべきか

2008年02月23日 | Weblog
ETVの「ともに生きる」という番組で認知症の特集をやっていたので、実家で母と一緒に見た。
医師やヘルパーなど専門家サイドから3人。これから介護を受けるかもしれない(?)柳生博と義母の介護経験をもつ黒木真由美がコメンテーター。いい組み合わせだと思った。

一番興味があったのが、認知症を告知すべきかどうか、である。
わたしのような頭でっかちの人間は、知った上でどう対処すべきかということを考えがちである。
しかし、コメンテーターのひとりは、「告知することがかえって本人の混乱を招くことがある。それに翌日には忘れている。」と話していた。
実際、去年末は私が疲れ果てて、「アルツハイマーなのよ!」と叫んでしまったことがあったが、母の反応は「なんでそんなこと言うの?」だった。
無理もない。アルツハイマーどころか認知症さえ何のことかわからない。
番組を見ているとき、「認知症ってなに?」と聞くので、「自分がどこにいるかわからなくなっちゃうような病気のこと」と答えておいた。
認知症の人が日常生活で異常行動に出ているのを見ても「かわいそうねぇ。」との感想で、自分のこととは捉えられていない。

最近は認知症がよくテレビ番組で取り上げられるので、それとなく一緒に見るようにしている。
番組で、時計の図のテストをやったので、一緒にやってみようかと誘ってやってみた。
母は時計の文字盤は書けたが、10時10分を字で書き、「針でかくのよ」と促したが、かけなかった。
ボケないための予防活動について解説しているところでは、自分でやってみようという気になっているらしく、こういった番組を一緒に見る成果のひとつである。



命と老後の格差 つづき

2008年02月22日 | Weblog
去年仕事の関係で、国立病院を何件か訪問した。
各病院の台所事情を見ることができたのだが、病院がいかに厚生行政に振り回されているかを垣間見た。
保険診療に依存している限り、診療報酬を上げることが病院経営の根幹だからである。
採算の悪い病床を減らしたり、報酬があがるとなると看護師1人が見る患者の数のを減らしたり。

父が亡くなる最後の1年は入退院の繰り返しだった。
面白いことに、入院して3週間ぐらいすると、必ず先生から「もう退院していいですよ。」といわれた。
もちろん、危ない状態を脱したというのがあるのだろうが、今考えると、患者の入院日数が一定期間を超えると、保険診療報酬を減らされてしまうという理由があったと理解する。
実際、病院に頼んで置いてもらっていると話した知り合いの親は3年ぐらいずっと入院していたが、おそらくその病院に多額の寄付をしていたのだと思う。

厚生行政は慢性期の患者を病院から追い出して医療費の削減を狙っている。
慢性期の患者の多くは、高齢者である。
追い出された高齢者は、介護の世界に追いやられる。
公営の特別養護老人ホームは順番待ち。
民間の介護施設が即解決の受皿である。
地獄の沙汰も金次第ではなく、まさに老後の沙汰も金次第である。

命と老後の格差

2008年02月21日 | Weblog
医療や介護にせちがらい流れが続いている。

医師の友人が話していたが、命の重さには差があるということである。
父は糖尿病性の腎症で死ぬまで透析をしていた。
当時どうするか主治医と話したところ、「普通は80歳を過ぎたら透析はしないが、現役で活躍されているのでやりましょう。」となった。
つまり、その人間が死ぬことによって、どれぐらい社会的影響があるかである。
人間は平等である。その理念はわかる。だが、現実はそうではない。

去年、母の脳のMRIをとったところ、耳の下に線腫があるのがわかった。
近所の耳鼻科の先生にまず診せて、本来その先生の出身の大学病院にふられるところ、別の科で診てもらっている病院に統一してもらったほうがいいだろうと思い、あえてその病院の耳鼻科にふっていただいた。
現在のところ何か症状が出ているわけでないので良性のものだろうと推測された。
「細胞診はどうでしょうか?」と聞いてみたが、まず顔面神経が通っている難しいところで、傷つける虞があること、それから「高い医療費を使ってもね。。」といわれてしまった。
心の中ではわかっていても診察室で医師に言われたくない言葉だった。



まわりが困る

2008年02月15日 | Weblog
去年の11月に、聖路加国際病院の日野原理事長の講演を聞きに行った。
テーマは「言葉による人間のコミュニケーション」
副題「物忘れと認知症(アルツハイマー病)をもつ患者への適切な対応について」
印象的だったのは、「認知症のひとには、過去も明日もなくなる。今だけしかない。」という言葉。
現在の判断力はあるが、過去がないのだから「言ったじゃない」はいけない、ということだった。
しかし、こちら現役世代はなかなか認知症のひとに合わせるのは根気が要る。
言ったことや、約束したことが前提となって、こちらは次の行動をとるからだ。
だから、A4の用紙に大きな字でメモを書いておく。
しかし、本人はそれをいやがっているようだ。
叔母にそれを見せたくないと、隠したこともあった。
「お願いだから、私を助けると思って、ここにメモを置かせて」と頼むこともある。
そんなふうにされるほど耄碌してないと思ってるのか、やはりプライドなのか。
叔父が脳梗塞で倒れて言語不自由になったとき、筆談を嫌がっていた、ということも聞いた。
本人の気持ちと、周りの便宜が一致しないとき、どう解決したらいいのか。
やはりこちらが疲れはてる前に、介護の専門家に助けを求めるしかない。

IHに変更

2008年02月14日 | Weblog
大晦日の直前にガスコンロの魚焼きグリルが壊れた。
焼き網で焼くしかないね、と言い聞かせたが、何度言っても忘れてしまう。
1ヶ月たっても、なかなか点火しない口火をずっと炊きつけていたので、「それ壊れているのよ。」というと、聞いてなかったと言う。
ある日に行ってみたら、口火をずっとたき続けて魚を焼いてしまった。
食べたら、きちんと焼けていた。
ある意味、怖いことだと思った。
ようやく今日、IHヒーターへの交換が終わった。
あとは、これに慣れてくれるかだ。

骨折がきっかけ

2008年02月13日 | Weblog
去年の11月の勤労感謝の三連休の前日に、母が転倒して手首を骨折した。
夜実家に寄ると、口の周りが血だらけになり肘から下を腫らした母がいた。
きちんと頭の回る大人なら、三連休に入る前に医者に行っておこうという考えがおのずと沸いてくると思うのだが、母にはそれがない。
あったとしてもどこにいっていいのかわからないというところだろう。
専業主婦でやってきた母の世代の女性には、これといって当てになる人脈もないだろうし、それは致し方ないこととは思う。
いろいろないきさつがあって、父が子供のような母の後見役としてすべてやってきた。
だから母は銀行に行ったこともない。
父が亡くなった後は、父親のやっていたことがすべて私にふりかかってきた。
書類の作成、届け出。社会経験のない母には、ヒトが社会の中で生きていくうえでどんなに多くの手続きや紙の仕事があるのか、想像もつかないことだろう。

「お父さんは文句を言わないでやってくれた。」
何かにつけて、母は言う。
配偶者と子供は違う、と言ってもそれは母にはわからない。
でも私から見ると、そういうことを言わせてしまう母の日常生活の態度がどうかというがあったのだ。

骨折以降、これらの書類仕事&渉外役のほかに、家事仕事がさらに追い討ちをかけた。
ギブスをはめた腕は水に濡らせない。
洗い物、お風呂、いよいよ介護の世界の入り口にようこそ、だった。


もの忘れ外来

2008年02月12日 | Weblog
今日は3ヶ月ぶりに母を物忘れ外来に連れて行った。

昨年の秋、物忘れ外来の検査を受けてから、耳鼻科、眼科、整形外科、歯科などのつきそいでてんてこ舞いだったが、先月末に骨折もほぼよくなり整形外科の通院が終わったので、一段落した。
何がたいへんかって、通院のために母を連れ出すのが大変なのである。
通常の常識ある社会人なら、何時に迎えに来るからといえば、その時間に用意して待っている。
ところが、前の日に何度も知らせている上、メモを大きく書いて置いてきているにもかかわらず、認知症に母の身勝手な性格が加わって、用意できていないことがほとんどだった。
こちらは仕事をしている身、その時間を母のために特別にさいている。
その日に医者に行ってくれないと、玉突きで、どんどンスケジュールが狂ってしまう。
勝手に、今日は行かないと思っていた、とか、今日は気分が悪いから行かない、というのを気分がよくなったら行きましょうと、説得しながらそばでなだめすかして支度をさせる。
(もう、ひとりで勝手に行ってくれよ、というのがこちらの本音)
母も医者通いはたいへんだろうが、こちらも精神的に消耗してしまう。
そういうわけで、骨折などの急性疾患が優先で、内科のほうは、わたしが薬をもらいに行くだけというのが2ヶ月続いていた。

今日は予告していた出発時間の15分前に迎えに行ったが、珍しくすべて支度ができていた。
受診のあと、母を待合室に戻して私と先生だけで話したところ、先生も表情が穏やかになってますね、とおっしゃった。
薬が安定的に効いているのか、何か母の行動に影響することがあったのか、それはまた今後。