夫に頼んで、会社帰りにレンタルしてもらい続けていた、『攻殻機動隊S.A.C.2nd GIG』を、全巻見終える。
最終回のDVDは、4回も見てしまった。
もうちょっと見てみたい気もする。
一日中、余韻に浸っていて、なにもかもうつろ。
★
去年の12月ごろ、ケーブルTVで見た、2ndシリーズなんだけど、
(よろしければ、攻殻機動隊①と攻殻機動隊②もお読みください……、って、言っても、かなり読解不能な文章です。予めご了承の程……)
深いし、かっこいいし、哀しいし、かわいいし。
そして、現実と同じくらい息苦しい。
あらゆる要素のところで、
言語にならない感想や余韻が、まだ渦巻いているのだが、
パブリックな形に変換できるところの感想を。
★
『表情とはなんだろう』と、思った。
近未来の話で、
「電脳化社会」で、
また、肉体も
事故などで、やむをえなかったり、
本人の希望などで、
「義体化」することが常識化されている世の中なのだが、
主人公の女の人は、全身を義体化していて、
もちろん、顔もそうなのだが、
例えば、爆撃にあって、瓦礫が当たり、
倒れる時は、スイッチが切れたように、無表情。
瓦礫の下に閉じ込められて、
もうじき核が投下されるという時、
同じように閉じ込められた男の人と
肩を抱き合う時も、無表情。
つまり、義体化された顔の筋肉は、
からだの神経や心(感情)と連動しない。
心とからだが、不一致なのだ。
この無表情が、
よく出来た人形みたいに見えるのだが、
ちっとも冷たく思えない。
強いて言えば、「透明」な感じがする。
が、かえって、この無表情が
感情の複雑さや、状況の緊迫を、
あますことなく、伝えているようにも思えてくるのだ。
ふと、この国には、お面や人形の文化があったな、
と思った。
「能」とか「人形浄瑠璃」とかだ。
何か、そういうものの
素晴らしさの一端に
触れたような感覚があった。
★
私が冷たく感じなかったのは、
もしかしたら、話の筋を追いながら見ているからかもしれない。
とすると、
私が感情移入しているから、
そういうふうに、見える、ともいえる。
確かに、かなり没入して見ていたし。
さらに考えると、
仕草などにインスパイアしているのかもしれないけれど、
「能」や「人形浄瑠璃」などが、
受け継がれてきたのは、
そういうものを見にきていた観客、つまり、
昔の日本の人たちが、もしかしたら、
ものすごく、細やかな感情が発達してて、
その無表情なお面や人形達に、
感情移入しまくっていたからかもしれない。
★
そしてまた、話を飛躍させるけれど、
ということは、
無表情な子供たちのほうが、
たくさんの感情を抱え込んでいるのかもしれない。
笑っていいのか、泣いていいのか、
わからない感情の前に、立ち尽くしているのかもしれない。
あぁ、そうか。
表情とは、「感情のすべての反映」ではなくて、
「感情の出口」なのだな。
だから、出口のサイズに合わない感情は、
胸の中に残っていくのかもしれない。
そして、出口のサイズに合う感情は、
確実に出すようにしておかないと、
出口の間口は小さくなっていって、
やがて、心とからだは連動しなくなるのかもしれない。
きっとそういうのって、
本能より学習なんだろうな。
★
随分、遠いところまで、いってしまった……。
もしこれを読んで、『攻殻機動隊』を見たくなった人がいたら、
その人の好奇心の素晴らしさに拍手する。
「能」や「人形浄瑠璃」とかに、
気持ちがいった人のほうが、納得する気がする(笑)
最終回のDVDは、4回も見てしまった。
もうちょっと見てみたい気もする。
一日中、余韻に浸っていて、なにもかもうつろ。
★
去年の12月ごろ、ケーブルTVで見た、2ndシリーズなんだけど、
(よろしければ、攻殻機動隊①と攻殻機動隊②もお読みください……、って、言っても、かなり読解不能な文章です。予めご了承の程……)
深いし、かっこいいし、哀しいし、かわいいし。
そして、現実と同じくらい息苦しい。
あらゆる要素のところで、
言語にならない感想や余韻が、まだ渦巻いているのだが、
パブリックな形に変換できるところの感想を。
★
『表情とはなんだろう』と、思った。
近未来の話で、
「電脳化社会」で、
また、肉体も
事故などで、やむをえなかったり、
本人の希望などで、
「義体化」することが常識化されている世の中なのだが、
主人公の女の人は、全身を義体化していて、
もちろん、顔もそうなのだが、
例えば、爆撃にあって、瓦礫が当たり、
倒れる時は、スイッチが切れたように、無表情。
瓦礫の下に閉じ込められて、
もうじき核が投下されるという時、
同じように閉じ込められた男の人と
肩を抱き合う時も、無表情。
つまり、義体化された顔の筋肉は、
からだの神経や心(感情)と連動しない。
心とからだが、不一致なのだ。
この無表情が、
よく出来た人形みたいに見えるのだが、
ちっとも冷たく思えない。
強いて言えば、「透明」な感じがする。
が、かえって、この無表情が
感情の複雑さや、状況の緊迫を、
あますことなく、伝えているようにも思えてくるのだ。
ふと、この国には、お面や人形の文化があったな、
と思った。
「能」とか「人形浄瑠璃」とかだ。
何か、そういうものの
素晴らしさの一端に
触れたような感覚があった。
★
私が冷たく感じなかったのは、
もしかしたら、話の筋を追いながら見ているからかもしれない。
とすると、
私が感情移入しているから、
そういうふうに、見える、ともいえる。
確かに、かなり没入して見ていたし。
さらに考えると、
仕草などにインスパイアしているのかもしれないけれど、
「能」や「人形浄瑠璃」などが、
受け継がれてきたのは、
そういうものを見にきていた観客、つまり、
昔の日本の人たちが、もしかしたら、
ものすごく、細やかな感情が発達してて、
その無表情なお面や人形達に、
感情移入しまくっていたからかもしれない。
★
そしてまた、話を飛躍させるけれど、
ということは、
無表情な子供たちのほうが、
たくさんの感情を抱え込んでいるのかもしれない。
笑っていいのか、泣いていいのか、
わからない感情の前に、立ち尽くしているのかもしれない。
あぁ、そうか。
表情とは、「感情のすべての反映」ではなくて、
「感情の出口」なのだな。
だから、出口のサイズに合わない感情は、
胸の中に残っていくのかもしれない。
そして、出口のサイズに合う感情は、
確実に出すようにしておかないと、
出口の間口は小さくなっていって、
やがて、心とからだは連動しなくなるのかもしれない。
きっとそういうのって、
本能より学習なんだろうな。
★
随分、遠いところまで、いってしまった……。
もしこれを読んで、『攻殻機動隊』を見たくなった人がいたら、
その人の好奇心の素晴らしさに拍手する。
「能」や「人形浄瑠璃」とかに、
気持ちがいった人のほうが、納得する気がする(笑)
まだセカンドまではみてないけど。
久々に見たくなりました。
このからだ、というものを再確認したくなるような、目の前の世界は私に見えているのかを再認識したくなるようなアニメでした。
私も義体になったら巨乳にするんだ…(´・ω・)
あたしゃ、アニメ系ばっかにレスしてる気がする.....orz
なんだかうれしいです。
深いですよね。
この世界はいろんな意味で深いです。
2ndは、最後のほうでは、
「生きる」でも「死ぬ」でもない、
第三の選択をかいま見るようなものがありました。
でも、それは、果たして、
選択として、成立するの?
違うんじゃないかなぁ。
違うんだけど、
年月を経れば、
成立するのかも……、
という、
すごい発想を見た気もしました。
それが全然、SFという、
全くのファンタジーとして、
見れなかったです。
という訳で、
お暇な時にでも、ぜひ見てください、2nd(笑)