前回からの続きです。
私は、極端で無分別な否定(批判)や肯定を避けたいと思っています。ただし、否定や批判がいけないと言うわけではありません。より良い関係のために、より良い未来のために、「好きだから」、あえて述べる批判的意見は、必要だと考えます。つまり、建設的な批判は、有益であると思います。批判や否定は、目的ではなく、より良い状態を手にするための手段とすべきです。
また、両極端な言葉は、単なる感情の吐露であったり、扇動的な発言であったり、この様な場合が多いでしょう。これらの言葉に、何の意味があるのでしょうか。感情的な批判には、相手からも感情的な批判が返ってくるだけ。ここから何が生まれるのでしょうか。ただただ批判をしていれば、相手を打ち負かすことができるのですか。ただただ肯定をしていれば、友好が実現されるのですか。そんな単純な話ではないはずです。もう一度、冷静になって「何のために発言しているのか」、考え直す必要があると思います。
自分が何のために発言しているのか、それを考える鍵は、考えや判断の軸(基準)を持つことです。判断の軸を持っていれば、その価値観や思想に照らして考え、発言することができます。また、自分の考えも、ぶれなくなると思います。私の場合、この軸とは、すでに何度か出てきましたが、より良い未来やより良い両国関係、より良い東アジア、さらに言えば、平和なのです。
【追記】
中国を肯定するだけでは、友好は実現しないと書きました。中国と日本には、「中日友好」や「日中友好」を名前に冠した団体が山の様に存在します。にもかかわらず、本当の友好は実現していません。中国と日本の友好を阻害しているもの、それは歴史問題に他ならないはずです。日本には、中国を侵略した過去があります。加害者としての負い目から、中国肯定に向かう気持ちも、何となく理解できます。かつての私も、これに近い状態でした。ですが、侵略の歴史から目を背けたままでは、いくら中国を肯定しても、いくら友好を願っても、本当の誠意は相手に伝わらないのではないでしょうか。この歴史問題については、大連での経験も踏まえ、別で書こうと思います。ただ、日本はもっと、加害の歴史と真摯に向き合う必要があるはずです。
私は、極端で無分別な否定(批判)や肯定を避けたいと思っています。ただし、否定や批判がいけないと言うわけではありません。より良い関係のために、より良い未来のために、「好きだから」、あえて述べる批判的意見は、必要だと考えます。つまり、建設的な批判は、有益であると思います。批判や否定は、目的ではなく、より良い状態を手にするための手段とすべきです。
また、両極端な言葉は、単なる感情の吐露であったり、扇動的な発言であったり、この様な場合が多いでしょう。これらの言葉に、何の意味があるのでしょうか。感情的な批判には、相手からも感情的な批判が返ってくるだけ。ここから何が生まれるのでしょうか。ただただ批判をしていれば、相手を打ち負かすことができるのですか。ただただ肯定をしていれば、友好が実現されるのですか。そんな単純な話ではないはずです。もう一度、冷静になって「何のために発言しているのか」、考え直す必要があると思います。
自分が何のために発言しているのか、それを考える鍵は、考えや判断の軸(基準)を持つことです。判断の軸を持っていれば、その価値観や思想に照らして考え、発言することができます。また、自分の考えも、ぶれなくなると思います。私の場合、この軸とは、すでに何度か出てきましたが、より良い未来やより良い両国関係、より良い東アジア、さらに言えば、平和なのです。
【追記】
中国を肯定するだけでは、友好は実現しないと書きました。中国と日本には、「中日友好」や「日中友好」を名前に冠した団体が山の様に存在します。にもかかわらず、本当の友好は実現していません。中国と日本の友好を阻害しているもの、それは歴史問題に他ならないはずです。日本には、中国を侵略した過去があります。加害者としての負い目から、中国肯定に向かう気持ちも、何となく理解できます。かつての私も、これに近い状態でした。ですが、侵略の歴史から目を背けたままでは、いくら中国を肯定しても、いくら友好を願っても、本当の誠意は相手に伝わらないのではないでしょうか。この歴史問題については、大連での経験も踏まえ、別で書こうと思います。ただ、日本はもっと、加害の歴史と真摯に向き合う必要があるはずです。