グローカル雑記帳

異文化理解や国際交流、中国のこと、日本の地方創生などについて。
また、日々の思ったことなど。自戒も込めた記録です。

満洲族からモンゴル族への手紙 ~その翻訳と所感~2/3

2019年03月26日 | 中国や大連のこと
 前回からの続きです。

 作者の書いている内容に対し、私には同感の部分と違和感を覚える部分の両方があります。

 私も、文化に優劣はないと信じていますし、文化を守ることは大切だと思います。民族も、もちろん平等です。
 大学時代、ある英語の先生が、ご自身のアメリカ留学時代を振り返り、「違いがあるから楽しい」とおっしゃっていました。留学先で様々な出自の学生たちと触れ、そう感じたということです。正に、その通りだと思います。私も大連で、色々な民族や出身の人と知り合いました。
 ある生物種が絶滅してしまったら、それは取り返しのつかないことです。文化の消滅も、これと同じことではないでしょうか。

 また、作者は自分が満洲族だと言えないと書いていますが、私が大連で知り合った満州族の方々は、自ら「私は満洲族」と名乗ることが多々ありました。私が外国人だから言いやすかったのかもしれませんが、満州族であることを誇りに思っている人もいるはずです。

 私が違和感を覚えたのは、作者の歴史観、作者の語る満州族の歴史についてです。とは言いましても、今の中国では、作者の語っている歴史観が支配的であり、その様な設定になっているのだと思います。つまり、劣った非漢民族は、自文化を徐々に失い、漢民族に同化するという設定です。いわゆる中華思想や華夷思想とも言えるでしょう。

 この様な歴史観は、事実(史実)に反しています。中国の歴史を概観する前に、少し満洲族の文化について述べます。例えばチャイナドレスは、代表的な中国の服飾文化となっていると思いますが、元々は満洲族の服です。現代中国語も、その源流は清の王宮にあります。清は満洲族が建国しました。満州語を母語とする人たちの王宮で話されている中国語は、当然のことながら、満州語の影響を受けているのです。

 さらに、清末には、漢民族から「滅満興漢」という思想も生まれます。「滅満」とは、満州族を滅ぼすこと。「興漢」とは漢民族の復興であり、漢民族中心主義とも言えるでしょう。興漢だけを考えても、清に続く中華民国と中華人民共和国は、この漢民族中心主義の上に成り立っています。中華民国(台湾)は、民主国家ですので、あからさまな民族差別は弱くなっていると思いますが、中華人民共和国は、共産党(漢民族の支配層)の独裁と相まって、漢民族中心主義は強化されていると思えます。「滅満」という思想を生んだことのある社会の中で、満洲族が満洲族として生きていられたとは思えません。

 次回に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本日の大連(2019年3月15日)

2019年03月15日 | 中国や大連のこと
久しぶりに大連へやって来ました。
来る前は、「あまり空気が良くない」と聞いていましたが、私が来てからは良い天気が続いています。
空もきれいです。
本日は、大連海洋大学の近くまで出てきましたので、何枚か写真を撮りました。
写真は、フォトチャンネルにも追加しておきました。
(「9大連海洋大学付近1」から「13大連海洋大学付近5」までが、本日の写真です。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満洲族からモンゴル族への手紙 ~その翻訳と所感~1/3

2019年03月13日 | 中国や大連のこと
 「モンゴル圏」という中国の媒体に、「満洲族の女性からモンゴル族への手紙」という記事が配信されていました。「モンゴル圏」は、中国のモンゴル族を主な読者対象としていると思います。
 その手紙の内容を、翻訳してみましたので、以下に記します。

<以下は訳文>-----
 こんにちは。私は、満洲族の女性です。この手紙は、全てのモンゴル族の皆さんへ書くものです。
 私は、モンゴル族の地区で育ちましたので、学んだのもモンゴル文化です。民族は、大小や人数にかかわりなく、全て平等です。
 私は、自らの民族「満洲」をとても愛しています。私たち満洲族は、強大であった時代を経て没落し、自らの言葉と文字も失われようとしています。
 私が最も怖いのは、誰かから自分の民族を尋ねられることです。私は、自分が満洲族であると言う勇気がありません。なぜなら、満州族であると答えれば、「満洲語はできる?」「満洲文字は書ける?」と次の質問が来るだろうからです。この様な質問を受ける時、私はビクビクと目に涙をためて、何も答えることができないのです。
 また、別の人はこうも言うのです。満州族の文化や習慣はほとんど消えてしまって、満洲族はだんだんと別の民族になってしまうだろう・・・
 この様な思いを、モンゴル族の皆さんは理解できるでしょうか?
 私は、満州族たちが自らの努力で、祖先から続く満州族の言葉や文字、全ての文化や習慣を守り、発展させていくことを強く望みます。ですが、私たちの言葉や文字がどこにあるのか、私には分かりません。どこで、勉強できるのでしょうか。
 私たち満洲族は、かつて強盛を誇った民族ですが、後代の人たちは努力せず、先祖の功績の上に安住し、進んで学ぶこともなく、先祖の良き伝統も引き継ぎませんでした。自民族の伝統文化を好まず、また重視せず、私たち満州族自身の民族の伝統や習慣、言葉、文字を衰退させ、今日、それらは風前の灯火となっています。
 私はモンゴル族の皆さんに、自分たちの言葉や文字を守り、発展させていってほしいと訴えたいと思います。
 しかし、モンゴル族の中にも、遊ぶことに熱中し、自民族の伝統文化をしっかり継承しようとしない人がいます。甚だしくは、他の言語を学び、他の言語を自慢とする人までいるのです。このような状況は、自文化の継承と発展という観点から見れば、不利益となる要素です。
 私は、モンゴル族の皆さんに、しっかりと自民族の伝統文化を守り、次の世代へ伝え、世代を重ねるごとに、それを発展させていってほしいと願っています。さもなければ、いつかモンゴル文化も、今の満洲文化の様な状況になってしまうでしょう。
 私は満洲を愛しています。また、私が学んでいるモンゴル文化も愛しています。モンゴルの方々には、必ず自らの文化を次の代へ伝えてほしいと思いますし、悪い習慣に毒されて、漠然と人生を送ってほしくはありません。自民族の伝統文化をしっかりと守り、伝え、発展させることができなければ、モンゴル族の文化もいつの日か現在の満洲文化の様な結果を迎えてしまいます!
<訳文はここまで>-----

 次回、この手紙に関する私の所感を書きたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カルロス・ゴーン氏保釈 ~事件の推移から思うこと~

2019年03月09日 | 雑記
 カルロス・ゴーン氏が保釈となりました。これまで、ゴーン氏側の主張はほとんど報道されませんでした。さらに、既に有罪確定であり、ゴーン氏は罪人であるかのような風潮も作られていると感じます。違和感はぬぐえません。この風潮に対し、「推定無罪の原則」を指摘する意見も出ています。会見も開くようですので、ゴーン氏が何を語るのか、待ちたいと思います。

 真相は分かりませんが、日産からルノーやゴーン氏の影響力を排除したいという思惑からなのでしょうか。もし、日産にこの様な思惑があるのだとすれば、少し矛盾があると思えます。なぜルノーが日産と関係する様になり、ゴーン氏がルノーからやって来たのか。それは、日産が倒産の危機に瀕していたからではなかったでしょうか。経営が盤石なら、ルノーやゴーン氏も日産と関わることはなかったはずです。ゴーン氏以前の日産を知る方々、特にゴーン氏以前の経営陣は、何を思っているのでしょうか。

 さて、ゴーン氏を悪人とするような日本の報道と、それに影響された日本の雰囲気。これを見て、日本にいる在住外国人の方々、また、海外から冷静な目で本件を見ている方々は、何を感じているのでしょう。
 会社の会長や社長となれば、公私の区別は曖昧で、会社の金を私的に使うことくらい、額の差はあれ、誰でもやっているかもしれません。結局、外国人だから狙われたと、在住外国人の目に映っても、不思議はないはずです。
 また、日本は外国人労働者の受け入れを拡大しようとしていますが、ゴーン氏は排除されようとしている。結局、日本の本音は外国人を必要としているのか。本心から、外国人を受け入れる気はあるのか。ゴーン氏の様な経営層、または管理層はいらないが、安い労働力となる外国人なら欲しいということか。日本で働いても、外国人はガラスの天井にぶつかるだけなのか。
 在住外国人の心の中には、様々な思いが渦巻いていると、拝察します。

 ここまで書き、「民族資本」という言葉を思い出しました。もうほとんど使わない言葉でしょうが、人々の心の奥底には、この気持ちが眠っていると思います。ただ、「民族資本」の気持ちには、冷静に向き合う必要があるでしょう。
 例えば、伝統と品質を守り続けている老舗が、外国資本に買われようとしている。買われたら、品質は二の次となり、伝統も無視し、低品質多売となる恐れがある。または、ある旅館が外国資本に買われようとしている。買われたら、周囲が乱開発され、自然破壊の恐れがある。
 これらの場合、外国資本の拒否には、理があると思います。ですが、単なる排他的な感情から拒否や排除というのであれば、考え直す必要があるはずです。

 今回のゴーン氏に関しては、長い勾留期間に対し、人権の観点からも批判が出ているようです。いくつか派生的な問題も、日本に投げかけている気がします。私は、以上の通り、日本の閉鎖性や開放性、そして、ゴーン氏が日産に導入したダイバーシティ経営(違いを活かした経営)の難しさについて、考えました。
 皆さまは、いかがでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の中国観2/2

2019年03月05日 | 中国や大連のこと
 前回からの続きです。

 私は、極端で無分別な否定(批判)や肯定を避けたいと思っています。ただし、否定や批判がいけないと言うわけではありません。より良い関係のために、より良い未来のために、「好きだから」、あえて述べる批判的意見は、必要だと考えます。つまり、建設的な批判は、有益であると思います。批判や否定は、目的ではなく、より良い状態を手にするための手段とすべきです。

 また、両極端な言葉は、単なる感情の吐露であったり、扇動的な発言であったり、この様な場合が多いでしょう。これらの言葉に、何の意味があるのでしょうか。感情的な批判には、相手からも感情的な批判が返ってくるだけ。ここから何が生まれるのでしょうか。ただただ批判をしていれば、相手を打ち負かすことができるのですか。ただただ肯定をしていれば、友好が実現されるのですか。そんな単純な話ではないはずです。もう一度、冷静になって「何のために発言しているのか」、考え直す必要があると思います。

 自分が何のために発言しているのか、それを考える鍵は、考えや判断の軸(基準)を持つことです。判断の軸を持っていれば、その価値観や思想に照らして考え、発言することができます。また、自分の考えも、ぶれなくなると思います。私の場合、この軸とは、すでに何度か出てきましたが、より良い未来やより良い両国関係、より良い東アジア、さらに言えば、平和なのです。

【追記】
 中国を肯定するだけでは、友好は実現しないと書きました。中国と日本には、「中日友好」や「日中友好」を名前に冠した団体が山の様に存在します。にもかかわらず、本当の友好は実現していません。中国と日本の友好を阻害しているもの、それは歴史問題に他ならないはずです。日本には、中国を侵略した過去があります。加害者としての負い目から、中国肯定に向かう気持ちも、何となく理解できます。かつての私も、これに近い状態でした。ですが、侵略の歴史から目を背けたままでは、いくら中国を肯定しても、いくら友好を願っても、本当の誠意は相手に伝わらないのではないでしょうか。この歴史問題については、大連での経験も踏まえ、別で書こうと思います。ただ、日本はもっと、加害の歴史と真摯に向き合う必要があるはずです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする