アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

炎の男火麻呂、ふぢの御衣 Ⅰ

2016-12-05 01:19:18 | 物語
 むかし、火麻呂と呼ばれる防人がいた。
 防人十人の隊長、火長だったからそう呼ばれたのか、炎のような心を持って
いたからなのかはわからない。
 火麻呂は悪行の限りを尽くした。犯し、奪い、殺し、その上生みの母をも殺
そうとした為、日本最古の説話集、日本霊異記にその名を残した。

第一章 ふぢの御衣

 防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思いもせず

 武蔵国多摩郡鴨郷の外れの杜に防人に召集された壮丁とその家族が群れてい
た。
 雅は少し離れた小高い丘から吉志火麻呂を見送っていた。雑踏の中にどうし
ても入る気になれなかったのだ。
 逞しいはずの火麻呂がやけに寂しく小さく見えた。
 火麻呂の視線が藤衣の雅を片時も離さない。
 ようやく愛情が芽生えつつあったのに。三年もの間待つ事など出来るだろう
か。火麻呂が防人に行けば実家に連れ戻されるに違いない。
 同じキシでも一介の兵卒としていく難波吉志の火麻呂に比べ、雅は公卿の末
席に連なる紀氏の娘であった。

公卿の娘としての養育を受けた雅は親の期待に違わぬ教養と美貌を身に着
けていた。そんな雅に武蔵国守葛麻呂が懸想し、婚姻を迫った。
雅はどうしても貧弱で野卑な葛麻呂を好きになれなかったが、定めと思い
諦めていた。
そんな七月のある日の夕方、森はずれで一団の若者とすれ違った。
その一人、顔中髭だらけの逞しい男が雅に見とれて目を離さない。
「ああ嫌だ、まるで獣のよう」
 と思った。だけでなく侍女にそう囁いていた。
 言葉とは裏腹に雅は別のことを深層で考えていた。
「夫にするならあんな男が良いわ。契るなら、そよ風からも守ってくれそうも
無い葛麻呂より、せめて彼の男の胸に抱かれたい」
 突風が巻き上がり、砂煙が男の視線から雅を隠し、妄想を吹き飛ばした。

 その夜、激しい嵐が武蔵を襲った。
 そして雅の妄想が現実となった。昼間の男、吉志火麻呂が夜這ってきたの
だ。
 まるで餓鬼のようにして激しく雅を抱きすくめる火麻呂。激痛が走り、やが
て痺れるような快感に覆われ、恍惚の中に身も心も侵されていった。

 恍惚から醒めると森の中だった。
 嵐の中で火麻呂が全裸の雅を担いで走っていた。
「フオー! フオー! フオー!」
 走りながら歓喜の奇声を上げていた。
 この男は夜這って来ただけでは物足りず、まるで子供が荘園から柿でも盗む
ようにして雅を略奪してきたのだ。
 風と雨が雅の幸せだったとは言えない過去を洗い流して呉れるような気がし
た。何よりも嬉しいのがあの葛麻呂から逃げられるかも知れない事だ。

 住居に走りこんだ火麻呂は、敷き詰めた藁の上の敷物にそっと雅を下ろす
と、白い衣で濡れきった身体をまるで勾玉でも磨くように拭って行く。
 火麻呂を睨む雅。
 照れくさそうにして雅に衣を掛ける火麻呂。
 衣で乳房を隠しながら雅が尋ねた。
「誰だか知っているの?」
「知らぬ」
 名前を知らないことに初めて気がついたように呟く火麻呂。
「みやび」
「みやびと言うのか、姫御子は」
「貴方は?」
「火麻呂」
 眩しそうに雅を見詰める火麻呂がぶっきらぼうに答えた。
「氏は? 姓は?」
「難波の吉志じゃ、祖父様の代、大伴の大臣に連れられて武蔵に来た」
「私がその大伴氏と結婚すること、知っていました?」
驚いたようにして首を振る火麻呂。
「大伴の誰じゃ」
「葛麻呂の君」
「葛麻呂?! あんな奴やめたほうが良い」

 あくる夕方、火麻呂の母日下部真刀自が火種を持ってやって来た。
 竈に火種を仕込んで火を起こす真刀自、その上に水が入った土師器を乗せた
後、白米を入れた竹篭を雅に差し出した。
 無言で受け取る雅、篭を持って表に出た。
 近くの小川で篭を流れに浸す雅、米を洗おうとして途方にくれた。米を洗っ
たことが無いのだ。
篭の中が白く濁って行く。このまま置いておけばいいのだろうか? 石と石の
間でそっと手を離すと、石に挟まれた篭が固定され、篭から白濁の汁が出てく
る。
 恐る恐る右手を篭に入れる雅。今度はパシャパシャと米を掻き回してみた。
面白いように研ぎ汁が出てくる。「こうすれば早く出来るわ」、と一人で頷い
てみる。なんだか少し楽しかった。
 篭が影に隠れたので見上げると、火麻呂が立っていた。きれいに髭をそった
その顔は案外可愛げがある、雅はそう思った。
火麻呂は藁で数珠繋ぎにした鮎と自然薯を雅に渡して腰を屈めた。
けがれたものでも持つようにして鮎と自然薯を両手に下げて立ち上がる
雅。
無造作に手と顔を洗う火麻呂、小川の水をゴクリと咽喉に送り込んだ後、
竹篭の米を荒々しい手で掴んで、優しく丹念に、揉むようにして研ぎ始めた。
新鮮な空気を胸一杯に吸い込む雅、住居の方を何気なく見ると、藁葺きの
屋根が地上すれすれまでせり出していた。彼女が育った桧皮葺の館と違って竪
穴式住居だったのだ。
 米を研ぎ終えた火麻呂は、その篭を雅に渡し、代わりに鮎と自然薯を受け取
って住居に入っていった。
 このまま逃げてしまおうかと思う雅、だが、なんとなく火麻呂に続いてしま
った。

 竃の前で待ち構えていた真刀自、雅から篭を受け取ってジロジロと眺め回し
て確かめた後、濛々と湯煙を上げている土師器の上に甑を置いて、研いだ米を
その中にあけた。
「母刀自」
 真刀自に声を掛ける雅。
「こちらでは、いつもお米を食べておられるのですか?」
「まさか」と首を振る真刀自。
「獲れた米は十に二つと残らぬ、食べたのは二年前」
 串刺しにした鮎を竃の中に刺しながら火麻呂が言った。
 恐ろしく無愛想なこの母子は、略奪してきた貴族の娘を嫁にしようとしてい
るらしい、今夜は婚礼の祝なのだ。と雅は思ったが、よく理解できなかった。

当時の庶民の風習では、男女間の恋愛、というよりは性的な関係と言った
方が近い、その関係がかなり自由奔放であったが、子が生まれて初めて夫婦と
して新居を構えるのだ。
孕んだ子の父親を断定できない女性がいた筈だ。そんな時、女性は自分が
子の父親に一番ふさわしいと思った男を指差すだけで事が足りた。指名された
男の方も、露ほども疑わずに夫となり父親となった。

「八雲立つ、出雲八重垣」
張りのある美声で真刀自が歌い出した。
火麻呂は飲み干したばかりの椀にまた酒を注いで雅に渡した。
恐る恐る椀に口をつける雅、まるで酢のような味がしたので、無言のまま
椀を火麻呂に返した。
その酒を美味そうに飲む火麻呂。
「妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を」
 母も息子も顔を真っ赤にして祝っている。無邪気に喜んでいる。
「これは、・・・」
 満面笑を浮かべて二人が雅を見た。
「これは、婚礼なのですね。・・・私と貴方の」
「そんなものだ」
 真顔に戻った火麻呂がぶっきらぼうに言い放った。
「めでたい、めでたい」
顔をクシャクシャにして真刀自がはしゃいでいる。
「紀でも大伴でも今頃大騒ぎになっています。直に大勢の兵士が私を連れ戻し
にやって来ます。
どうするの?」
「ここは見つからぬ」
「ここは人里離れた山中、安心おし、決して見つからぬ」
「安心? 私が望んだわけでは有りません。喜んでいるとでも思っておられる
のですか?」
「そうかのう?」
「見つからなくても、隙を見て私が逃げたら?」
「姫御子が望むなら仕方が無い。逃げる必要なんか無い。ただ出て行けばす
む」
「それでいいの? 構わないの?」
「ああ」
 と言いつつも、火麻呂の声が寂しそうに掠んでいる。
「糞虫屑麻呂の慰み者になりたいなら戻ればいい。俺なら姫御子を大事にす
る。鬼からだって守
って見せる」
 突然雅に激情が走り怒りが込み上げて来た。
「鬼など怖くは有りません。糞虫とか、屑麻呂とか呼捨てにしていますが、あ
の方は恐れ多くも
天皇から正五位を賜った歴とした公卿なのですよ」
雅の言葉が激しくなるにつれて火麻呂が萎れて行くのがよく分かった。
「それに引き換え貴方は、みすぼらしく貧しいただの粗夷」
 火麻呂のキシも雅のキシも遠い祖先は同じかも知れない。共に大伴氏を盟主
として仰いでいたが、同国近隣の人と言われた紀氏に比べて、吉志は隷属して
いたに過ぎない。
 悄然として酒を飲み続ける火麻呂が少しかわいそうになる雅。それでも意を
決して表に出た。

 満天に星々が煌いていた。
 だが地上は真っ暗だった。
 雅はどの方角に行けば良いのか途方に呉れて立ち竦んだ。
 少しすると目がなれて辺りの様子がぼんやりと見えてきた。
 そうだ、小川に沿って下って行けば里に出る筈だ。と思いついたその時、火
麻呂が出てきて雅の傍らで片膝をつき、大きく広い背中を向けた。
 背負って館まで送るつもりなのだろう、存外細やかな心の持ち主らしい、と
雅は思った。
 火麻呂の横にしゃがむ雅、そっと火麻呂の右手に自分の手を添えた。
 雅を見る火麻呂。
「あれは何?」
 と、天空の星々を指差す雅。
 星空を見上げる火麻呂。
「天の川」
「そう、天の川、今夜は七夕でしたわね。・・・私、貴方が私の彦星なのか、
確かめてみたくなりました。わかるまでここにいます」
 真意がわからず戸惑っている火麻呂、優雅な雅の微笑を見てようやく無邪気
に笑った。
「その代わり、二つだけ約束してください。姫御子などと呼ばれるのは嫌、雅
と呼んでくださいまし。もう一つ、雅以外の女子を見詰めてはなりませぬ、私
だけを想うて下さい。誓えますか?」
「ああ、誓う」
「本当に?」
「俺は嘘をつかぬ。だが、一つだけ聞いてよいか、み、みやび」
 頷く雅。
「もし、誓いを破ったらどうする」
「知れた事。主を刺して私も死にます」
 火麻呂を睨む雅。
 こうして、浚った筈の火麻呂が雅の虜になり、永遠の愛を誓わせられた。
 2016年12月5日   Gorou


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