この長期休暇を利用して新婚旅行を・・・と思っていたが、10月以降休みなくバタバタしてチケットを取りに行く暇がなく、気がつけば12月。旅行会社に行ったもののすでにエアチケットは取れない状態で、今年は新婚旅行は断念することになった。また来年に先延ばしだ。
さすがに妻には申し訳なく、国内をまわることにした。
今日は野球からもMTからも離れて、今回の歴史旅を随想してみたい。
長州藩…山口県に行ってきた。
かつてここのブログでも紹介した「常在戦場」の長岡藩。この僕の修士論文で取り上げた長岡藩と戊辰戦争で戦ったのが長州藩である。
僕の心情的には「敵国」との印象をずっと持っていたのだが、敵をも知らねば歴史は客観的には語れない。…ということで訪れてみたかった場所のひとつである。
長州藩は幕府・諸藩に先駆けて攘夷運動を実際に行動に移し、馬関(関門)海峡を航行する外国船に砲撃を加え、翌年英仏蘭米の四カ国艦隊に逆襲される(馬関戦争)。
最初に訪れた馬関海峡・・・こんな呼び名で関門海峡を呼ぶのはいまどき僕くらいかもしれない・・・を見て体が震えた。早い潮流に、川の対岸のような九州、次々と海峡を通過する艦船。尊王攘夷運動というナショナリズムが高揚していた頃、この狭い海峡を外国船が自分の国土(長州藩)すれすれに航行していくのを見たら、僕でも砲撃を加えたくなったであろう。船に手が届きそうなくらい、この海峡は狭い。
長州人の狂乱的な尊王攘夷運動を僕はどちらかというと、例えば福沢諭吉のように、冷ややかな視線で見ていたが、やはり現地に行ってみると価値観が変わる。
その価値観の変化を次々と感じた旅でもあった。
「長州人は議論好きで軽薄で行動力がない」…これが幕末の長州人観であると、ざっくり言うと長州人にこんな評価を司馬遼太郎は下していたような気がする。
僕の研究した「長岡藩」を滅ぼした藩として、また会津人と未だに和解できていないといわれている長州人は、司馬遼太郎のその評価とも相まって、どうせ歴史的勝者のおごりをもった軽薄な「民族」であろうとの先入観があった。
僕も旅が好きで今までも多くの歴史的名所をめぐってきたが、今回の旅ほど人の温かさを感じた旅はなかった。
なんせ、長州人は親切である。
萩では目的の蕎麦屋を探して戸惑っていると現地の人が道を教えてくれ、そこの蕎麦は美味しい・有名であるとコメントしてくれた。
同じく「見蘭牛」という地元のブランド牛がある。その見蘭牛を出すある有名なレストランに行ってみたところ、だいたいが予約しないと入れないらしいのだが、「予約をとって翌日また来ます」と言っているにも関わらず、やりくりをして入れてくれたし…、とある定食屋では僕の目的だった「うに丼」を昼にしか出していないにも関わらず、特別に作ってやるといって夜に作って出してくれたし…(もっとも僕の次に店に入ってきたお客さんにも出していたが…)。
読んでいる人はなんだか僕が無理を言っている嫌な客のように感じるかもしれないが、断っておくが、僕は粘って交渉するどころか何も言っていない。自然の流れでお店の人たちが便宜をはかってくれるのだ。
さらに、津和野(は長州ではないが)の永明寺では、僕が遠方から来たと知るや、(なぜか??)パンをあげるよと言って配達されてきたばかり(らしい)の焼きたてパンを住職さんが分けてくれたりした。
なんだか食べ物のことばかりを挙げてきたが、もちろんそれだけではない。
観光スポットには必ずと言っていいほど地元のガイドが常駐しており、丁寧に丁寧に説明をしてくれる。
こんなにもたくさんの歴史的建造物が残っている街に僕は来たことがないし、こんなにも多くの地元の人と話をできた旅も、ちょっと記憶がない。
たくさんの人々からたくさんの温かさをいただいた旅であった。
こんなにも歴史的建造物が残っているのは、戊辰戦争という明治の革命戦争で勝った側の土地であり戦禍にあっていないからだろう、勝者・・・特に伊藤博文や山県有朋といった元勲たち・・・が自分たちの「輝かしい」功績を保存させたのであろう…そんな皮肉な見方を多少持ってしまうのは、僕がやはり「敗者の歴史」にスポットを当てたいと思っている歴史教育者である(と自分では思っている)からなのだが、この土地の人々の温かさは、どういう見方をしても文句がない。
萩・津和野はいい。
歴史もあり人情もあつい。
ちょっと長州びいきになってしまいそうである。
さすがに妻には申し訳なく、国内をまわることにした。
今日は野球からもMTからも離れて、今回の歴史旅を随想してみたい。
長州藩…山口県に行ってきた。
かつてここのブログでも紹介した「常在戦場」の長岡藩。この僕の修士論文で取り上げた長岡藩と戊辰戦争で戦ったのが長州藩である。
僕の心情的には「敵国」との印象をずっと持っていたのだが、敵をも知らねば歴史は客観的には語れない。…ということで訪れてみたかった場所のひとつである。
長州藩は幕府・諸藩に先駆けて攘夷運動を実際に行動に移し、馬関(関門)海峡を航行する外国船に砲撃を加え、翌年英仏蘭米の四カ国艦隊に逆襲される(馬関戦争)。
最初に訪れた馬関海峡・・・こんな呼び名で関門海峡を呼ぶのはいまどき僕くらいかもしれない・・・を見て体が震えた。早い潮流に、川の対岸のような九州、次々と海峡を通過する艦船。尊王攘夷運動というナショナリズムが高揚していた頃、この狭い海峡を外国船が自分の国土(長州藩)すれすれに航行していくのを見たら、僕でも砲撃を加えたくなったであろう。船に手が届きそうなくらい、この海峡は狭い。
長州人の狂乱的な尊王攘夷運動を僕はどちらかというと、例えば福沢諭吉のように、冷ややかな視線で見ていたが、やはり現地に行ってみると価値観が変わる。
その価値観の変化を次々と感じた旅でもあった。
「長州人は議論好きで軽薄で行動力がない」…これが幕末の長州人観であると、ざっくり言うと長州人にこんな評価を司馬遼太郎は下していたような気がする。
僕の研究した「長岡藩」を滅ぼした藩として、また会津人と未だに和解できていないといわれている長州人は、司馬遼太郎のその評価とも相まって、どうせ歴史的勝者のおごりをもった軽薄な「民族」であろうとの先入観があった。
僕も旅が好きで今までも多くの歴史的名所をめぐってきたが、今回の旅ほど人の温かさを感じた旅はなかった。
なんせ、長州人は親切である。
萩では目的の蕎麦屋を探して戸惑っていると現地の人が道を教えてくれ、そこの蕎麦は美味しい・有名であるとコメントしてくれた。
同じく「見蘭牛」という地元のブランド牛がある。その見蘭牛を出すある有名なレストランに行ってみたところ、だいたいが予約しないと入れないらしいのだが、「予約をとって翌日また来ます」と言っているにも関わらず、やりくりをして入れてくれたし…、とある定食屋では僕の目的だった「うに丼」を昼にしか出していないにも関わらず、特別に作ってやるといって夜に作って出してくれたし…(もっとも僕の次に店に入ってきたお客さんにも出していたが…)。
読んでいる人はなんだか僕が無理を言っている嫌な客のように感じるかもしれないが、断っておくが、僕は粘って交渉するどころか何も言っていない。自然の流れでお店の人たちが便宜をはかってくれるのだ。
さらに、津和野(は長州ではないが)の永明寺では、僕が遠方から来たと知るや、(なぜか??)パンをあげるよと言って配達されてきたばかり(らしい)の焼きたてパンを住職さんが分けてくれたりした。
なんだか食べ物のことばかりを挙げてきたが、もちろんそれだけではない。
観光スポットには必ずと言っていいほど地元のガイドが常駐しており、丁寧に丁寧に説明をしてくれる。
こんなにもたくさんの歴史的建造物が残っている街に僕は来たことがないし、こんなにも多くの地元の人と話をできた旅も、ちょっと記憶がない。
たくさんの人々からたくさんの温かさをいただいた旅であった。
こんなにも歴史的建造物が残っているのは、戊辰戦争という明治の革命戦争で勝った側の土地であり戦禍にあっていないからだろう、勝者・・・特に伊藤博文や山県有朋といった元勲たち・・・が自分たちの「輝かしい」功績を保存させたのであろう…そんな皮肉な見方を多少持ってしまうのは、僕がやはり「敗者の歴史」にスポットを当てたいと思っている歴史教育者である(と自分では思っている)からなのだが、この土地の人々の温かさは、どういう見方をしても文句がない。
萩・津和野はいい。
歴史もあり人情もあつい。
ちょっと長州びいきになってしまいそうである。
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