ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

阿弥陀寺阿弥陀如来坐像 序

2012年06月11日 | みほとけ
     
 吉野郡吉野町の龍門寺は、いま龍門岳の南麓に遺跡を残して既に昭和四年に遺跡の顕彰及び整備がなされた。そのためか奈良県下に数多い古代山岳寺院遺跡のなかでも知名度が高く、往時の参道が現在では龍門岳登山路となって一般の往来が遺跡にも及ぶ。
 いま俗に義淵開創の五龍寺の一に数えられるが、実際の草創は義淵以前に遡る可能性が指摘される。中世より興福寺の支配下にあり、周知のように「興福寺別当次第」の寛正二年(1461)「三ヶ度長者宣」による龍門寺別当の制が定められ、興福寺別当がこれを兼務する旨に龍門寺の格の高さがうかがえる。
 既に清和、宇多上皇の滞留を記録し、治安三年(1023)に藤原道長の参拝留宿を経て龍門庄の筆頭寺院に整備されて摂関家より荘園寄進をみたことは諸文献に知られる通りである。諸堂諸施設はかなりの充実をみたと思われ、安置の仏像にも優れた作品が存在したことが想像されるが、その方面の調査資料および報告類は意外にも乏しく、わずかに昭和二十八年に小林剛氏、吉川政治氏らによる美術史の項が「奈良県綜合文化調査報告書」に収録されたに過ぎない。

 龍門寺の旧仏としては西蓮寺の藤原期阿弥陀如来立像が「塔の旧仏」と伝承されるにとどまるが、それとは別に、龍門寺の麓にある龍門郷津風呂の在地武士津風呂氏に関して興味深い伝承が存在する。要約すれば、南朝方真木定観の執事をつとめた津風呂光季は熱心な阿弥陀信者であり、龍門寺の恵心作阿弥陀仏を常に拝んで南朝の武運隆盛を祈り、寺が焼かれた後は津風呂の里房に安置してこれを守り続けた、という。

 この津風呂とは現在の吉野町津風呂にあたるが、その中心集落は昭和三十年にダム湖建設による水没が決定、全六十五戸のうち二十戸が昭和三十三年より奈良市山陵町に集団移転入植し、奈良市津風呂町として発足した経緯が知られる。そのなかに寺院も含まれており、今回紹介する阿弥陀寺がこれである。かつては龍門庄津風呂の里寺とされ、その本尊阿弥陀如来坐像は津風呂村の本尊としてあがめられた事が報告書記載の像底銘文に明らかである。銘文にはさらに「エ心之御作」とあって、津風呂光季が龍門寺の恵心作阿弥陀仏を津風呂の里房に安置した伝承が思い起こされる。津風呂の里房が、津風呂の里寺とされた阿弥陀寺の前身であるならば、その本尊阿弥陀仏とは津風呂光季ゆかりの龍門寺の恵心作阿弥陀仏にあたる可能性が浮上する。

 この可能性に興味を覚えたのは一昨年(平成十九年)の吉野大峯奥駈隊活動にて龍門寺および龍華台院の遺跡を探査し周辺の仏像に関する情報を得てからであるが、そのときは前述の「奈良県綜合文化調査報告書」しか資料がなく、現在の吉野町教育委員会に詳しい方がおられなかったため、自分であちこち探し回ることになった。資料には旧龍門郷の古社寺の仏像が紹介されていたが、とくに津風呂の阿弥陀寺の阿弥陀如来坐像の写真が気になった。「エ心(恵心)之御作」の銘文と矛盾しないような姿形や作風にみえたのである。
 そこで阿弥陀寺へ行こうと思い立ったが、寺の原所在地は津風呂ダム湖の底であり、移転先を尋ねていくとなんと近所、母校奈良大学のすぐ横であった。学生時代から学舎の東に阿弥陀寺なる寺があることは知っていて、よく前を通っていたが、吉野町津風呂から移転した寺だとは知らなかった。しかも昨年(平成二十年)は津風呂町移転入植五十周年にあたっており、奈良大学で記念誌が刊行されていた。

 この阿弥陀寺を九月十四日に訪ねた。前日の夕方にあらかじめ訪問して予約しておいたので、お庫裏さんがこころよく本堂内に導いて下さった。まず寺の歴史を聞いたが、古い記録が失われているので創建も由来も全然知らない、という答が返ってきた。地方寺院の常として古い歴史や記憶の断絶がみられ、龍門寺が室町時代に宇陀沢氏の焼討ちを受けて全滅したらしい事と絡めれば、その里寺であった阿弥陀寺の由緒もともに忘れ去られたものと考えられた。山号も最初は極楽山であったのを近世に安楽山と改めており、近世津風呂村の成立に伴う阿弥陀寺の再出発があったことがうかがえる。その際に古い記憶は整理されたのであろう。

 本尊の阿弥陀如来坐像は、平成十二年に新築成った鉄筋コンクリート造の立派な本堂に安置され、本堂の前扉がガラス戸であるために堂外からでも常時拝むことが出来る。果たして津風呂光季ゆかりの龍門寺の恵心作阿弥陀仏であるのか、と緊張を覚えつつ像を見上げた。 (続く)


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