ココロの仏像

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大和路のみほとけたち 13  円成寺阿弥陀如来坐像

2011年11月11日 | みほとけ

 大和の藤原彫刻の流れは、京洛の定朝一門系統の作風と関連しつつも、大和ならばでの伝統的な造形との折衷を目指した。大和地方の藤原時代作品の多くにその傾向がうかがえる。
 円成寺本尊の阿弥陀如来坐像も、一般的には大和地方での造像とみて定朝様式の地方化の一例に挙げられるが、仔細に観察すれば決してそうではない。大和の仏像というより京都の仏像に多い特徴と要素を備えており、京都の仏像造形との折衷の成果とみるほうが適当である。その意味では大和の藤原彫刻の中にも京都寄りの一系譜が存在したということであろうか。定朝仏および周辺の作品群とは趣をやや異にするが、それこそ大和の特色を反映したものとみるべきであろうか。

 この阿弥陀如来坐像が円成寺の本尊とされた経緯は江戸期編纂の「和州忍辱山円成寺縁起」に詳しい。要約すれば、迎摂上人経源が定朝作の法成寺本尊像を天永十一年(1112)に移したとなり、史実であれば定朝仏であることになるが残念ながら違う。定朝仏の忠実な模倣像というのが正しい。

 経源は浄土教信者として南山城小田原にて活動、柳生円成寺とも遠からぬ位置関係にあり、阿弥陀信仰の拡大を図って円成寺に進出、現本堂の前身である阿弥陀堂を創建した。その平面は現本堂の解体修理時の調査でほぼ判明、現本堂がその規模を忠実に踏襲しているのみならず、内陣円柱の蓮座や供物棚が旧堂の遺物であることも判明し、経源による藤原期阿弥陀堂の様子がある程度しのばれる。阿弥陀如来坐像も旧堂以来の安置像であるが、経源は保安四年(1123)に没しており、それが阿弥陀如来坐像成立の下限とみなされるが、それよりは天永十一年の移安を新造時期とみなすほうが適当である。定朝作の法成寺本尊像を移したとの所伝は、おそらく藤原期浄土教の総本山的な位置にあった法成寺無量寿院以下の阿弥陀彫像群への経源自身の結縁の思いを仮託したのであろう。

 経源の本拠地小田原とは、現在の京都府相楽郡加茂町、浄瑠璃寺(西小田原寺)や随願寺跡(東小田原寺)のある一帯を指し、阿弥陀浄土教の一大信仰圏を成していたことが現存仏像遺品より知られ、とくに浄瑠璃寺の九体阿弥陀如来坐像は定朝一門の作である可能性が高い。もとは随願寺の院主であったらしい経源のこうした環境が定朝仏への意識の高さにも表われたとみるべきである。
 藤原時代当時は、定朝仏への完全な模倣が絶対的なものと理解され、多くの仏像が定朝仏の形式を踏襲し、意識のうえでは定朝仏同然にみられた。そのため定朝仏伝承とは、本物よりも模倣像のそれの方が圧倒的に多い。円成寺本尊像の定朝仏伝承も同様であろう。像が伝承通り移安されたのであれば、経源とともに小田原から移したのが実際であろうが、それにしてもこの像は、小田原地域の諸仏像とも異なる独特の作風をみせる。

 改めて像の特徴を観てゆこう。頭体の根幹部はブロック状部品を積み重ねたかのような角ばった輪郭を成し、首が短いので頭部が体部に直接乗っかる印象が強い。加えて両肩もいからせ気味で両腕もあまり左右に開かない。この状態は十世紀後半からの康尚活躍期によくみられるが、着衣形式は西院邦恒堂阿弥陀像タイプと目されるので定朝活躍期を経た頃の造像であることは間違いない。
 その頃の仏像彫刻のひとつの傾向として、体躯の内厚感が豊かになる点が挙げられ、円成寺像のゆったりとした姿もその例につらなる。両膝部のやや単調な造形も特色の一つだが、膝から足首に流される衣文処理は大和の藤原彫刻遺品のなかでも稀な洗練度をみせ、作者の優れた技量をうかがわせる。

 面白いのは腹前の衣襞の造形であり、まず鎬を一本たてて下を帯状として表面を薄く浚い凹面とする。この表現の祖形が但馬松禅寺や美濃萩八幡神社の十一世紀初期遺品にみられるが、前者の松禅寺像に定朝作伝承があるのは興味深い。おそらく定朝らの創案になる表現のひとつであろうが、円成寺像のそれは形式化が進んで単純な構成になっている。
 よく似た表現の例として、奈良市中墓寺阿弥陀如来坐像(十二世紀後半)が挙げられるが、ブロック状部品を積み重ねたかのような角ばった輪郭や両腕をあまり左右に開かない点も似ている。両膝部の衣文処理の洗練度も似通っており、同一人物の作とまではいかなくても同時期の作である可能性は高い。この点に注目すると、円成寺像の光背の透し彫り意匠の冴えや、唐草文の巻き具合は十二世紀遺品に多くみられるのも頷ける。
 また時期は異なるが、奈良市南明寺の阿弥陀如来坐像や奈良市来迎寺の阿弥陀如来坐像とも角ばった輪郭や両腕をあまり左右に開かない点で共通している。これらの作品に共通しているのは全て大和東部高原地域に位置することであり、その初期段階に位置する来迎寺阿弥陀如来坐像が十一世紀前半におかれて定朝仏の候補に挙げられるのは興味深い。

 以上の考えにより、大和東部高原地域の藤原彫刻には来迎寺阿弥陀如来坐像を起点とみなせる定朝様式の一傍流が展開していた状況が想定出来る。この大和東部高原地域とは藤原時代から摂関家の直轄領荘園の集中地であり、都祁郷や柳生郷、神戸四郷などは摂関流門閥の直接支配下にあった。そのため荘園堂や郷の惣堂の仏像は定朝様式の影響下に強く支配される傾向にあったが、それが山地づたいに小田原地域とも関連していた可能性は高い。造仏表現の系統もこの範囲内で独自の表現を育み、大和寄りとも京洛寄りともみえる作風を確立したのであろうか。円成寺阿弥陀如来坐像はそうした造仏傾向のなかで成立したように思える。実年代が十二世紀であるのは間違いないので、天永十一年を造立時期とみなしても矛盾はない。

 従来、大和東部高原地域の藤原彫刻遺品は平野部の遺品群よりも粗放で作域も劣ると見られがちであったが、実際にはそうではない。中世期には山中他界観にもとづく幽山深谷の浄土になぞらえて神聖視され信仰拠点も多かった地域であるので、その仏像もまた発展的に独特の造形世界を形づくるはずである。定朝仏を起点としながらも、定朝様式の典型にはまらない異質の表現が数多く生み出されているのもそうした環境による。その意味がもっと大和の藤原彫刻史のなかに反芻され投影されるべきである。大和東部高原地域に定朝様式の一傍流が展開したのであれば、いずれは大和平野部との作風交流や様式変遷の波を発生させたに違いない。

 若き日の運慶が円成寺にて大日如来坐像を造ったのも偶然ではなく、運慶なりに大和東部高原地域の造仏表現のありように魅力と可能性を見出していたように思える。大日如来坐像の類稀なる洗練度と完成度とが、かかる環境を背景としていたのであれば、大和東部高原地域の藤原彫刻遺品群の意味は限りなく大きい。円成寺阿弥陀如来坐像もその流れに位置する典型例として、定朝様式の地方化の一例にとどまらない重要な価値を有する。その色褪せぬ金箔の輝きに、言い尽くせぬ魅力と可能性とを感じ取るのは私だけであろうか。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、円成寺様の御許可を頂いた。)


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