ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 29  報恩寺阿弥陀如来坐像 上

2013年04月07日 | みほとけ

 奈良県桜井市には、俗に「栗原寺流れ」と称する一群の仏像遺品が各所に伝来する。例として挙げられる現長野清水寺の千手観音菩薩坐像以下七躯のうちに栗原寺旧像が含まれるとされるが確証はなく、千手観音菩薩坐像のみが石位寺旧蔵であることが明らかな他は由来が不明である。
 それとは別に、報恩寺の阿弥陀如来坐像、大願寺の阿弥陀如来立像、来迎寺の観音菩薩立像及び地蔵菩薩立像、興善寺の薬師如来坐像及び毘沙門天立像が栗原寺旧像の伝承を帯びる。何れも位置的には栗原寺の北西麓にあたって半坂越え旧街道筋に接するものの、栗原寺との関連を匂わせる資料はおろか口碑さえも伝わらない。

 仮にこれらの仏像群を一群とみなして概観すれば、全てが藤原時代に含まれるのは興味深い。天台薬師系の特徴を示す十世紀の興善寺薬師如来坐像あたりを上限として十二世紀までの各時期に並ぶ形となり、全てが栗原寺旧像であれば栗原寺における造仏活動の実態を示唆するものと理解されよう。
 この一群のなかで優れているのが十一世紀の遺品であり、法量および作域において抜きん出ているのが報恩寺の阿弥陀如来坐像である。地方には稀な丈六像であり、相当格の寺院の本尊級であったことが容易に推察されるが、「栗原寺流れ」の伝承によって直ちに栗原寺の主要安置像とみなすのは早計である。

 栗原寺については、いま談山神社に所蔵される塔露盤伏鉢の銘文によって天武朝の発願および持統八年(694)からの伽藍造営の順序が知られ、和銅八年(715)の三重塔竣工をもって整備が完了し本尊は丈六釈迦如来像であったことが明らかであるが、それ以降の経緯が詳らかにならない。いつ衰微して廃絶したかも不明である。
 ただ、南北朝時代の南朝方戒重西阿の「陣場」が「オウバラ堂跡」に設けられたとする伝承が知られ、その頃には既に遺跡であったらしい。参考までに前述の「栗原寺流れ」の仏像群の年代幅に着目すれば、栗原寺の最終段階を藤原時代末期とみることも可能であるが、いずれにせよ和銅八年以降の動向が不明であるのでこれ以上の推察はさほどの意味を成さない。

 以上の事情により、報恩寺の阿弥陀如来坐像は「栗原寺流れ」の伝承を帯びつつも歴史的には孤独の存在となる。報恩寺じたいの由緒も不明であり、現在の安置状況は当地での造立以来のものか、他所からの移坐の結果であるのかさえ知られず、まさに八方ふさがりのような状態に置かれて孤立の哀しささえ漂わせる。

 しかしながら、この巨像が沈黙のなかに沈み込むことは決してない。その明確な作風は藤原時代の典型を示し、飛鳥資料館刊行の「飛鳥の仏像」では十二世紀代に位置づけられるものの、最近の研究実績に照らせば十一世紀に遡らせるのが適当である。とくに定朝様式の発展過程を考えるうえで報恩寺阿弥陀如来坐像の造形特徴を見直した場合、天平時代以来の伝統的色彩のうえに新たな作風を重ねて模索する段階の試行の跡がうかがえ、定朝活躍期の初期に位置する作品と見なされる。
 これこそが、いま報恩寺阿弥陀如来坐像が語る最大の情報である。この点だけは、既に写真にて把握出来、大和にはまだまだ良い遺品が伝わっていると感動した。

 だから、この像の拝観の機会を事あるごとに願ったが、それが実現したのは意外にも遅かった。県文化財指定と解体修理計画の概要を知って寺に連絡をとり、拝観と撮影を許可されたのは平成21年の9月上旬であった。残暑きびしい磯城盆地から初瀬川を渡り、伊勢街道筋から集落内に進んで少し道に迷いつつも小堂に辿り着いた。
 山崎珠亨住職に挨拶して仏前に導かれた瞬間、やわらかな安らぎに包まれた。定朝活躍期の初期に位置する作品であることを確認しただけでなく、若き日の定朝の思い出が像の巨躯に満ち満ちてあるのを感じ取ったからである。 (続く)

(写真の撮影および掲載にあたっては、報恩寺様の御許可を頂いた。)

報恩寺阿弥陀如来坐像 頭部2

2013年04月05日 | みほとけ
 
阿弥陀如来坐像 木造 漆箔 坐高218.2 藤原時代  報恩寺蔵

報恩寺阿弥陀如来坐像 頭部1

2013年04月03日 | みほとけ
 
阿弥陀如来坐像 木造 漆箔 坐高218.2 藤原時代  報恩寺蔵

報恩寺阿弥陀如来坐像 上半身1

2013年04月01日 | みほとけ
 
阿弥陀如来坐像 木造 漆箔 坐高218.2 藤原時代  報恩寺蔵

泉徳寺薬師如来坐像 全身3

2013年03月21日 | みほとけ
 
薬師如来坐像 木造 漆箔 坐高83.0 藤原時代  泉徳寺蔵