不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

仏典、聖書、ジョージ・アダムスキー氏により伝えられた宇宙精神文明(空=言葉=天の父=宇宙の英知=真如=法・ダルマ=灯明)

ワクチン薬害、祈りの科学的研究、人体構成分子によるオーソモレキュラー医学、医学の大罪、太陽系惑星文明の科学的証拠

No.3地球の戦争と悪魔教: アダムスキー氏の解説に基づく考察3 日本の神道

2019年08月24日 22時46分52秒 | 金融権力、地球の戦争と悪魔教: アダムスキー氏の解説に基づく考察

地球の戦争と悪魔教: アダムスキー氏の解説に基づく考察3 日本の神道

 

4.日本の神道

 

あらゆる宗教の原型となった古代の悪魔帝国バビロンの奇怪な宗教の様相と、その形式がキリスト教に取り入れられていった経過に関しては、一時期アダムスキー氏の仕事を引き継いでニュースレターを出されていたC.A.ハニー氏の記事があり、それらは下記のアドレスにあります。

 

現代の宗教の起源

http://www2.adamski.jp/pdf/ucon/013.pdf

http://www2.adamski.jp/pdf/ucon/014.pdf

http://www2.adamski.jp/pdf/ucon/015.pdf

http://www2.adamski.jp/pdf/ucon/016.pdf

 

この記事によれば、悪魔帝国バビロンの帝王ニムロドの死後、妻のセミラミスは、ニムロドが唱えていた「太陽と蛇の崇拝教」を「救世主の出現教」と結び付けて両者を融合させ、ニムロドを救世主としました。

さらに、セミラミスは、超自然的な神の力で身ごもって子供を産み、その子はニムロドの生まれ変わりであるとし、セミラミスとその子は、直接神につながっているとされました。

このようにして、神=ニムロド=太陽=蛇、聖母セミラミス、神の力で生まれた子供、の3つからなる信仰形式が作られました。

現代のキリスト教で見られる聖母子像の原型は、古代バビロニアの聖母セミラミスとその子供の形式にありますが、意味しているものは全く異なります。

 

ハニー氏の記事によれば、古代の悪魔帝国バビロンの悪魔教のこの形式は、様々に名前を変えて、バビロニア、ペルシャ、インド、エジプト、ギリシャ、ローマにまで広まっていたことが分かります。

悪魔教がバビロンからインドまで広まっていれば、後の仏教と同様に、シルクロードを通って、カシミール、中国、チベット、朝鮮、日本にまで広まることは、容易に推定できます。

 

 

今我々が暮らしている日本という国は、中国大陸と朝鮮半島からの渡来民が稲作技術を持ち込み、騎馬軍団を中心とした武力により軍事侵攻して作り上げた国のようです。

また、シルクロードにいた様々な民族の日本への移住も伝えられています。

日本は、エジプト、パレスチナ、バビロニア、イラン、インド、カシミールから中国へつながるシルクロードの東の終着点なのです。

このため、大陸の悪魔教がそのまま持ち込まれ、古来からある日本の神道に多大な支配力を持っていると推定されます。

 

ここで日本の神道を調べてみると、ニムロドの悪魔教の3要素「太陽信仰」「蛇(竜)信仰」「人の生贄(人身御供、人柱)」が含まれている記録があることが分かりますので、Wikipediaから引用します。

 

 

(1) 太陽信仰 Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E

 

天照大神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本人の総氏神[1]ともされる。『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されている。

天岩戸の神隠れで有名であり、記紀によれば太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされる。神社としては伊勢神宮が特に有名[2]。

 

『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)[3]。神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)[4]、大日霊(おおひるめ)[5]、大日女(おおひめ)[6]とされている。

『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、『日本書紀』においては複数の神名が記載されている。伊勢神宮においては、通常は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う[7]。

 

 

(2)蛇 Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%93#.E4.BF.A1.E4.BB.B0

 

日本においてもヘビは太古から信仰を集めていた。豊穣神として、雨や雷を呼ぶ天候神として、また光を照り返す鱗身や閉じることのない目が鏡を連想させることから太陽信仰における原始的な信仰対象ともなった。もっとも著名な蛇神は、頭が八つあるという八岐大蛇(ヤマタノオロチ)や、三輪山を神体として大神神社に祀られる大物主(オオモノヌシ)であろう。弁才天でも蛇は神の象徴とされる場合がある。大神神社や弁才天では、神使として蛇が置かれていることもある。蛇の姿は、男根、剣、金属(鉄)とも結びつけられることから男性神とされる一方、豊穣神・地母神の性格としては女性と見られることも多く、異類婚姻譚の典型である「蛇女房」などにその影響を見ることができる。この他、蛇そのものを先祖とする信仰もみられ、『平家物語』の記述として、「緒方維義の祖先は明神の化身たる大蛇という伝説(緒方家における祖神信仰)があり、その話から武士達が集まった」と記され、祖蛇信仰が権威として利用されたことがわかる内容である。

 

 

補足

神社の「しめ縄」は、2匹の蛇が絡み合った姿を現しているように見えます。

これは、西洋の医術(昔は魔術と医術は一つのものでした)のシンボルのカドゥケウスを連想させます。

島根県・出雲大社の巨大なしめ縄の作り方は、次のサイトに写真と解説があります

「一般初公開!国内最大級の出雲大社「大しめ縄」制作現場レポート」

https://www.kankou-shimane.com/pickup/8985.html

 

(3)人身御供 Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%BE%A1%E4%BE%9B

 

人身御供(ひとみごくう)とは、人間を神への生贄とすること。人身供犠(じんしんくぎ[3]/じんしんきょうぎ[4])とも。

転じて比喩的表現として、権力者など強者に対して通常の方法ではやってもらえないようなことを依頼するため、もしくは何らかの大きな見返りを得るために、理不尽にもかかわらずその犠牲になることに対しても使われている。

 

 

日本[編集]

日本では、犠牲となった人間を人柱とも言い、転じて同様の行為を行うこともそう呼ばれる。「白羽の矢が立つ」とは、元々このことをいった。白羽の矢はいわゆる匿名による指名行為であった訳だが、これらは霊的な存在が目印として矢を送ったのだとされ、この矢が家屋に刺さった家では、所定の年齢にある家族を人身御供に差し出さなければならないとされた。

事例をみると、中国の歴史書『三国志』の魏志倭人伝に、「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者百餘人」邪馬台国の卑弥呼が死去し塚を築いた際に100余人のが殉葬されたとあり、『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したという(埴輪の起源説話であるが考古学的には否定されている)記載が残っている。 他にも、儺追祭(なおいまつり)の起源にまつわる話や、『日本書紀』に登場する茨田堤(大阪府)の人柱に関する記載、諏訪大社(長野県)の御柱にまつわる伝説、倭文神社(奈良県)の大蛇伝説など、人身御供にまつわる話は数多く残されている。

近江国伊香郡には、水神に対して美しい娘の生贄を奉ったが、当地では生贄となる娘が片目であったとされる[6]。柳田國男の『一つ目小僧その他』において、人身御供と隻眼の関係が説かれている。

柳田國男の「日本の伝説」[7]では、神が二つ目を持った者より一つ目を好み、一つ目の方が神と一段親しくなれると書いている。これと、神の贄となる魚を通常の魚と区別するために片目にすることが紹介されている。

静岡には、人身御供や人柱の伝説が多い。例として、富士[要曖昧さ回避]吉原市の三股淵(みつまたふち)あるいは三俣淵(と表記される)、浮島沼の人身御供や磐田市の見附天神の人身御供がある。これらの生贄伝説は非常に有名で、民俗学者の中山太郎や神話学者の高木敏雄といった著名な学者らの著書[8][9]でよく紹介されている。 ただし、本の中で語られる伝説はところどころ異なっている。 1967年5月15日に発行された「広報ふじ 010号」[10]3頁では、三股淵の人身御供について触れている。三股淵の付近では毎年6月28日に祭りを行うが、人身御供を伴う祭りは12年毎に行う。これは大蛇の怒りを鎮め大難を防ぐために行うと書かれている。なお、人身御供となる者の条件、人身御供の儀式について、その詳細は書かれていないが、「東海道の伝説」関西通信社1964年、「史話と伝説」松尾書店1958年、「伝説富士物語」木内印刷合資会社1952年には、その詳細が書かれている。まず生贄となる者の条件は、15~16の少女で処女、「東海道の伝説」にのみ美女という条件が付加されている。また人身御供の儀式は、生贄に選ばれた少女が、生きたまま淵に投げ込まれるか、生贄自らの入水(じゅすい)の形を取ると書かれている。なお、中山太郎の日本巫女史大岡山書店1930年においても吉原の人身御供について語られている。内容は既述の三冊に書かれている内容とほぼ同じである。 また、相違点については、広報ふじ「ふじ 010号」3頁では人身御供を伴う祭が12年毎行われていると書かれているが、他の四誌については人身御供を伴う祭が年毎(毎年)行われていると書かれている点、「伝説富士物語」以外の四誌は、巫女が人身御供になるという点、人身御供を捧げる相手の名前が単なる大蛇ではなく、竜神である点、などである。 「東海道の伝説」においては竜神という名称以外に、生贄を捧げる相手が神であると明記されている [11][12][13]。

中山太郎の「日本巫女史」大岡山書店1930年3月20日発行247頁―250頁の「第二節 人身御供となった巫女」では巫女が人身御供となったと考えられる事例をあげている。中村太郎は、巫女が人身御供になる理由として、250頁「而して斯く巫女が人身御供となったのは、それが神を和める聖職に居った為であることは言うまでもない」と述べている。なお、同書250頁では「旅人を人身御供とした神事は、尾張國府宮の直會祭を始めとして、各地に夥しきまでに存していた。此の理由は祭日に人身御供となることを土地の者が知るようになり、これを免かれんがために、外出せぬようになったので、かく旅人を捕へることになったのであるが、それを國府宮の如く有名になると、同じく旅人が相警めて通行せぬようになるので、尾張藩では藩命を以てこれを制止したことさえある。旅行者も最初の者か第三番目の者か、女子か男子か、その神社のしきたりで、種々なるものが存していた」と記している。神に近い存在であるから巫女を生贄にする点と旅人を生贄とする点は甚だ近い。なぜなら折口信夫の論じた「まれびと信仰」では、外界から来た客人を神もしくは神の使者として扱うからである。

磐田市の裸祭りは台風大雨洪水となっても決行される。これは人身御供の儀式が決まった日時に遅延なく行わなければならなかった名残である、と「遠江の伝説」に書かれている[14]。なお、人身御供の風習を止めた勲功をたてた犬の悉平太郎は、多くの場合「早太郎」と呼ばれ、これは悉平太郎の故郷である駒ヶ根市も同様である。

人身御供は、神が人を食うために行われるとも考えられているが、神隠しと神が人を食う事との関連を柳田國男は自身の著書「山の人生」にて書いている。柳田國男によれば、日本では狼は山神として考えられており、インドでは狼が小児を食うという実例が毎年あり、日本には狼が子供を取ったという話が多く伝わっているという。これが山にて小児が失踪する神隠しの一つの所以であるとも考えられる[15]。

青木純二の「アイヌの伝説」では、神話学者高木敏雄が早太郎童話論考にて分類した人身御供伝説の形式以外に特異な展開を見せる伝説が書かれている。即ち33頁―36頁「娘を奪う山の神」、52頁―56頁「火の神の使い」、80頁―81頁「雪の中に咲く百合の花」、82頁―84頁「白神岬の祟」などである[16]。これがその他凡百の人身御供伝説と異なるのは、勇者や僧侶が人身御供となる犠牲人を助ける展開がなく、人身御供の儀式が決行され、しかもその後に後味の悪い結末が用意されている点である。例えば、「火の神の使い」では神の怒りを鎮めるための人身御供が行われたにも関わらず、神の怒りが鎮まらず、村人が全員死んでしまう。それに反して「娘を奪う山の神」は、人身御供の儀式が行われ一応成功に終わるものの、人身御供となった女性の恋人が自殺する。「白神岬の祟」は、ある権力者が恩恵を得たいがために人身御供の儀式を行い、呪いの起因をつくることになる。

松村武雄は「日本神話の研究」の126頁にて、穀物の豊かな収穫を確保するための呪術として犠牲人を殺す民俗が行われていたと書いている。なお、同頁にて中島悦次の「穀物神と祭祀と風習」を紹介し、その中で柳田國男の「郷土誌論」を参考にした「オナリ女が田植えの日に死んだというのは、オナリ女の死ぬことが儀式の完成のために必要であったことを意味する」との文章を引用している。また、197頁にて人身御供伝説の分類を行っている。そこでは、八岐大蛇退治神話における奇稲田姫を含めた八人の犠牲者は、司霊者―巫女であったと述べている。その他の人身御供伝説については、毎年一人という条件があるだけで、生贄となる者の合計などは定まっていないと記している。また、207頁にて、水の神、田の神に実際に女性を生贄としてささげた習俗があると記している[17]。松村武雄は、人身御供伝説の分析について「日本神話の実相」[18]においても記述している。

ちなみ、高木敏雄の「日本神話伝説の研究」には、487頁―531頁に「人身御供論」、532頁―538頁に「早太郎童話論考」が書かれており、「早太郎童話論考」では人身御供伝説の形式と分類を明らかにしている。高木敏雄自身は、日本国内で多くの人身御供伝説があると認識した上で国内での人身御供の存在そのものには懐疑的であるが、490頁にあるように「人身御供そのものが過去の事実として信ぜられている。すべての民間伝説はその伝承地の民間においては、必ず事実として信ぜられるものであるから」と、磐田市の見付天神の人身御供を例にとって述べている。また、493頁にて天野信景の塩尻の一部を訳し、次のように記述している。「…和州長谷修正の終に鬼を追う事あり頃年我熱田の神宮寺にても正月此事をはじめ侍る是は路人を執促するに非ず夫路行の旅人を捉え侍るは湖南九江の淫祠に似たり追儺は人を以て神を祭るにあらざれども世俗人は人を牲(ニエ)とする様にかたる…」。これにより、当時の俗世間の人々が追儺に人身御供を用いていたと勘違いしていたことがうかがえる。

何故人身御供が起こったのか、その謎について、高木敏雄は「日本神話伝説の研究」501頁―502頁にて、考えを述べている。「凡ての水界と空中界と、まだ人類の勢力範囲に成っていない陸界の一部分とは、神の領分である。人類社會(會=会)の發(發=発)展はこの神の領分の縮小壓(壓=圧)迫である。領分の縮小圧迫は神に対する侵害である。この侵害に對(対)して、神は相當(当)の防禦(禦=御)手段を取ることもあれば、相當(當=当)の犠牲を人類から得て満足することもある。この場合に人の生命又は身体が犠牲にされると、其處(處=処)に人身供犠という現象が生ずるのである。併しこの如きは、人類史上現象として餘(余)りに一般的で」

そして、早太郎童話論考で扱っている邪神や夜叉に女子や男子の生贄を與(与)える神話と異なる人身御供の話を同書502頁より述べている。「此種の犠牲は、人類社会と利害を異にする、あるいは反対にする、廣(広)い意味でいえば、人類社会の外にある邪神に対する犠牲であって、内にある神、即ちある種族またはの守護神、小にしては所謂鎮守の社に鎮りまし鎮りまして、そのと親密なる親子主従のような関係を持っている神に対する犠牲とは全然その性質が異なっている。後者の祭祀は、年々定まった季節又は月日に行なわれる。慣例により神聖となった、厳重な、時として面倒臭い儀式の下に行なわれる祭祀である。この祭祀の一個の必須条件として人身供犠が行なわれるが、最も狭い意味においての人身御供で、人類の宗教史上の現象として甚だ重要なるものの一つである」 この形式で行われた恐れのある祭祀が、坂戸明神の人身御供の儀式であると同書(高木敏雄「日本神話伝説の研究」岡書院1925年5月20日発行525頁―527頁)の中で高木敏雄は述べている。

「坂戸明神の話に移る。久しい間の伝承で神聖にされた、馬鹿にできぬ儀式がある。祭祀の儀式としての人身御供の存在説を主張する者の提供した、或は寧ろ提供し得る證據物件の中で最も有力なるものである。 爼(マナイタ)と庖丁(ホウチョウ)、それから生きた實(実)物の人間、考えたばかりでも身の毛が立つ。爼と庖丁とが、果たして人間を神に供えた風習の痕跡だとしたらどうだ。犠牲を享ける神は、鎮守の社に祀られる神である。捧げるものは氏子のである。捧げられる犠牲は、氏子の仲間から取らなければならぬ。人身御供という風習の言葉の中には、久しい間の慣例と云うことの意味が含まれているではないか。鎮守の社の祭祀は、年毎に行われる儀式である。人身御供と云うことが此祭祀の恒例となっている以上は、春秋二度とまで行かずとも毎年一度か少なくとも二三年に一度位は行わなければなるまい。凡ての伝説は、毎年のこととしているではないか」

※「広報ふじ1967 ふるさとのでんせつ」1967年5月15日発行3頁で語られる「生贄の淵」の人身御供を伴う祭りは12年毎に行われると書かれており、諏訪神社で行われていたとされる人身御供の儀式は3年毎であったと考えられているため、人身御供を伴う祭りが、必ずしも毎年あったとされているわけではない。

528頁では、人身御供伝説が史実とした場合の問題点をあげている。 528頁「普通の場合に神前へ供える物は、生贄でも果穀でも調理したものでもすべて、再び神前から下げられて、信者の口に入るとか、河へ流されるとか火に焼かれるとかする。若し肉体を具えぬ神の祭壇に人を供えるとしたら、この人を殺す役目に当たる者のことも考えねばならぬ。殺す儀式のことも考えて見ねばならぬ、殺した後の死骸の始末は、更に重要な問題として考えても貰わねばならぬ」 また、530頁では人々が人身御供と人柱を混同していたことが述べられている。ただし、高木敏雄の行った人身御供と人柱の定義が通説であるかは不明である。高木敏雄によれば、人柱は神に捧げるものではないため、神に捧げるという意味で差し出される生贄は、人身御供ということになる。530頁「時々人柱として河の神に人身御供に捧げられる」

なお、南方熊楠の「南方閑話」[19] では神に捧げられる生贄が人柱として紹介されている。

「日本伝説の研究」では、自然現象の脅威に対する人々の崇拝の念と想像により、猛獣が人を捕ることを「神が人身御供を要求するもの」と考えられた、と書かれている[20]。

ちなみに、多くの人身御供伝説では、生贄の対象が女性である場合が目立つ。しかし、中山太郎の「日本巫女史」251頁、高木敏雄の「日本神話伝説の研究」533頁―534頁によれば、生贄に男子の場合があることがわかる。

 

 

脚注[編集]

1.           ^ Niños momia, Sacrificados en Salta, National Geographic Channel(スペイン語)

2.           ^ ヨハン・ラインハルト|ナショジオピープル|番組紹介|ナショナル ジオグラフィックチャンネル

3.           ^ 百科事典マイペディア「人身供犠」 2010年5月

4.           ^ 『広辞苑』(第5版) 1998年

5.           ^ 陳舜臣『中国五千年』(上)51頁

6.           ^ 『新編 柳田國男集 第七巻』 筑摩書房 1978年 p.251 - p.252

7.           ^ 柳田國男「日本の伝説」三国書房 昭和15年1940年12月20日95頁―96頁

8.           ^ 中山太郎「日本巫女史」大岡山書店1930年3月20日発行247頁―251頁333頁―338頁347頁

9.           ^ 高木敏雄「日本神話伝説の研究」岡書院 1925年5月20日発行487頁―531頁532頁―538頁

10.         ^ 鈴木富男(駿河郷土史研究会長)「広報ふじ1967 ふるさとのでんせつ」富士市役所 昭和42年1967年5月15日発行3頁

11.         ^ 小笠好恵「東海道の伝説」関西通信社1964年10月1日発行40頁―46頁

12.         ^ 松尾四郎「史話と伝説」松尾書店1958年9月5日発行221頁-224頁

13.         ^ 小長谷宗芳「伝説富士物語」木内印刷合資会社1952年8月発行168頁-179頁

14.         ^ 小川有言「遠江の伝説」安川書店 昭和17年1942年11月1日発行166頁―167頁

15.         ^ 柳田國男「山の人生」実業之日本社 昭和23年1948年5月15日発行148頁―149頁 郷土研究社版 昭和11年1936年1月28日発行「山の人生」が原本

16.         ^ 青木純二「アイヌの伝説」第百書房 大正15年1926年5月14日発行33頁―36頁52頁―56頁80頁―81頁82頁―84頁

17.         ^ 松村武雄「日本神話の研究 第三巻」培風館 昭和30年1955年11月10日発行126頁197頁207頁

18.         ^ 松村武雄「日本神話の実相」培風館 昭和22年1947年6月10日発行155頁―156頁158頁

19.         ^ 南方熊楠「南方閑話」坂本書店出版部1926年3月20日発行61頁―96頁

20.         ^ 藤澤衛彦「日本伝説の研究 第一巻」大鐙閣 大正15年1926年7月5日発行序2頁―3頁

21.         ^ 後藤樹史. “古代の不思議 マヤの聖なる泉”. 不思議館. 2013年6月29日閲覧。

 

 

(4)人柱 Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%9F%B1

 

人柱(ひとばしら)とは、人身御供の一種。大規模建造物(橋、堤防、城、港湾施設、などなど)が災害(自然災害や人災)や敵襲によって破壊されないことを神[* 1]に祈願する目的で、建造物やその近傍にこれと定めた人間を生かしたままで土中に埋めたり水中に沈めたりする風習を言い、狭義では古来日本で行われてきたものを指すが、広義では日本古来のそれと類似点の多い世界各地の風習をも同様にいう。

 

概要

この慣わしを行うことは「人柱を立てる」、同じく、行われることは「人柱が立つ」ということが多い。人柱になることは「人柱に立つ」、強いられてなる場合は「人柱に立たされる」ということが多い。後述するとおり、ここでの「柱」は建造物の「柱」とは違うので「立てる」という表現は本来的でないにもかかわらず、連想が強く働くためか、慣習的に使われている。「人柱が○本立つ」という表現も同じ。

史実はともかくとして、人柱の伝説は日本各地に残されている。特に城郭建築の時に、人柱が埋められたという伝説が伝わる城は甚だ多い。また、城主を郷土の偉人として讃える為、「人柱のような迷信を禁じ、別の手段で代行して建築を成功させた」という伝説が残っているものもある。また、かつてのタコ部屋労働に伴って生き埋めにされた労働者も人柱と呼ばれることがある。工事中、労働者が事故死した場合に慰霊と鎮魂の思いを籠めて人柱と呼ぶ場合もある。

この場合の「柱」とは、建造物の構造のそれではなく、神道(多神教)において神を数える際の助数詞「柱(はしら)」の延長線上にある語で、死者の霊魂を「人でありながら神に近しい存在」と考える、すなわち対象に宿るアニミズム的な魂など霊的な装置に見立ててのことである。こういった魂の入れられた建造物は、そうでない建造物に比べより強固に、例えるなら自然の地形のように長くその機能を果たすはずであると考えられていた。この神との同一視のため、古い人柱の伝説が残る地域には慰霊碑ないし社(やしろ)が設置され、何らかの形で祀る様式が一般的である。

上記の例とはややニュアンスが異なる人柱も存在する。上記のタコ部屋労働の人柱のように不当労働や賃金の未払いから「どうせなら殺してしまえ」という理由で人柱にされてしまった例や、炭鉱火災が発生した際、坑内に残る鉱夫を救助することなく、かえって酸素の供給を絶つために坑口を封鎖したり注水する殺人行為を「人柱」と称することもある(北炭夕張新炭鉱ガス突出事故など)。小説などのフィクションにおいては、城の秘密通路を作成した作業員を秘密隠蔽のために全員殺害し、その死体を人柱に見立てるといった例もある。

 

人柱伝説の考察[編集]

南方熊楠は自身の著書『南方閑話』にて、日本を含めた世界で数多に存在する人柱伝説について紹介している。書かれている人柱の呪術的意図に関しては、62頁の「ボムベイのワダラ池に水が溜らなんだ時、村長の娘を牲にして水が溜まった」とあるように人柱により何らかの恩恵を求めたものや、64頁の「史記の滑稽列伝に見えた魏の文侯の時、鄴の巫が好女を撰んで河伯の妻として水に沈め洪水の予防とした事」、68頁の「物をいうまい物ゆた故に、父は長柄の人柱 ― 初めて此の橋を架けた時、水神の為に人柱を入れねばならぬと関[要曖昧さ回避]を垂水村に構えて人を補えんとする」、68頁の「王ブーシーリスの世に9年の飢饉があり、キプルス人のフラシウスが毎年外国生まれの者一人を牲にしたらよいと勧めた」とあるように人柱によって災難を予防、もしくは現在起こっている災難の沈静化を図ったもの、69頁の「大洲城を龜の城と呼んだのは後世で、古くは此地の城と唱えた。最初築いた時下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒヂと名づくる娘が当って生埋され、其れより崩るる事無し」、71頁の「雲州松江城を堀尾氏が築く時成功せず、毎晩その邊(辺)を美聲で唄い通る娘を人柱にした」、87頁の「セルヴイアでは都市を建てるのに人又は人の影を壁に築き込むに非ざれば成功せず。影を築き込まれた人は必ず速やかに死すと信じた」とあるように人柱によって建築物を霊的な加護によって堅牢にする意図があったことが明らかとなっている。神話学者の高木敏雄によれば、建築物の壁などに人を生き埋めにし人柱をたてるのは、人柱となった人間の魂の作用で建物が崩れにくくなる迷信があったからだという。

なお、南方熊楠は『南方閑話』の92頁において座敷童子は人柱となった子供の霊であると書いている。そのほか、罪人が人柱となる話や、82頁にあるようにある特殊な境遇の人間の血を建物の土台に注いだら建物が崩れにくくなるといった人柱同様の迷信が存在していたことも語っている。

もっとも興味深いのは、人柱の呪術的意図が変化することを語っている点である。78頁の「晝間仕上げた工事を毎夜土地の神が壊すを防ぐとて弟子一人(オラン尊者)を生埋した。さらば欧州がキリスト教と化した後も人柱は依然行なわれたので、此教は一神を奉ずるから地神抔は薩張り(さっぱり)もてなくなり、人を牲に供えて地神を慰めるという考えは追々人柱で土地の占領を確定し建築を堅固にして崩れ動かざらしむるという信念に変わった」

上記のようにその時々により、人柱の意味合いも変化していくことがわかる[1][2][3]。

布施千造は、1902年(明治35年)5月20日に発行された東京人類学会雑誌第194号の「人柱に関する研究」303頁―307頁[4]にて、「人柱の名称」「人柱の方法」「人柱の材料」「人柱の起源」「人柱の行われし範囲」「人柱と宗教の関係」について書いている。「人柱の方法」については、自動的なものに、「名誉を遺さんとして人柱を希望するもの」「他人の為、水利を計らんとして身を沈むる者」とあり。他動的なものに、「突然拿捕せられて強制を以って人柱とせらるる者」「止を得ず涙を呑んで埋めらるるもの」とある。

逆に最近の研究では、特に城郭建築の人柱においては否定的な見解が多く、井上宗和は、「城郭建築時の人柱伝説が立証されたケースは全くない。人柱に変えてなんらかの物を埋めたものが発見されることは存在する」と述べており、興味本位の出版物を除くと、城郭の人柱については全否定されている。(井上「日本の城の謎」祥伝社文庫)

逆に北海道常紋トンネルの人柱のように、タコ部屋労働で苦役の末に死亡した作業員を埋めたものについては、北海道開拓の苦労を偲ぶ目的で研究が多く行われている。

 

物証のある人柱[編集]

考古遺物を始めとする科学的物証が、部分的にではあっても存在する人柱伝説。伝説と物証がある人柱。語り継がれている事柄が全面的に証明されたわけではないが、人柱が立ったことや立った場所などを史実と認めることができる事例である。

 

猿供養寺村の人柱

鎌倉時代のこと[5][* 2]、越後国頸城郡の猿供養寺村[5](現・新潟県上越市板倉区猿供養寺)[* 3]を訪れた遊行僧が、地すべり被害の絶えなかった土地の人々のため、自ら人柱となって災禍を止めた[5][6]。この話は長らく伝説とされていたが、1937年(昭和12年)3月10日、地元・正浄寺裏の客土中から大甕に入った推定年齢40歳前後の男性人骨(脚が太く腕は細いことから旅人であり肉体労働者ではなかったと思われる)が座禅の姿勢で発見され、史実であることが確認された[5][6]。

 

吉田郡山城の人柱代用の百万一心碑

毛利元就が築城した時、石垣がたびたび崩れる為、巡礼の娘を人柱にする話が持ち上がった。ところが元就が人命を尊重して人柱を止めさせ、「百万一心」の文字を石に書いて埋め、築城を成功させたというもの。吉田郡山城築城開始直後の1524年のことか。詳しくは百万一心の項目を参照。

 

江戸城伏見櫓の人柱

かつての江戸城伏見櫓(現在の皇居伏見櫓)は、徳川家康が伏見城の櫓を解体して移築したものと伝えられているが、1923年(大正12年)に発生した大正関東地震(関東大震災)で倒壊し、その改修工事の最中、頭の上に古銭が一枚ずつ載せられた16体の人骨が発見され、皇居から人柱かと報道されたこともあり大騒ぎになった。伝説を信じれば、1603年~1614年の慶長期築城の時、伏見城の櫓を移築した後で人柱を埋めたことになる。

江戸城研究家たちの間では、人柱とするには余りにも粗末に扱われていることや、伏見櫓を解体修理した結果伏見からの移築物ではないことが明らかであることが分かっているため、人柱説には否定的である。徳川家康の慶長期築城以前に、城内にあった寺院の墓地の人骨であろうとされており、『落穂集』などの史料には、慶長期築城以前には、複数の寺院が城内にあり、慶長期築城の時に全て移転させられたことが明確だからである(鈴木理生・黒田涼・井上宗和らの説)。

一説には、皇居と深い関わりにあった黒板勝美は宮内省から調査依頼を受け、実地見聞を1時間半程度行っただけで人柱否定説を打ち出してそのまま公的調査は終了したといい、その後、中央史壇などで供犠の話題で特集が組まれた。喜田貞吉は黒板の発言の矛盾を指摘し、批判するとともに、人柱の文化的な意味について考察を広げようとしていた。1934年(昭和9年)には坂下門近くでも5人の人骨と古銭が発見されている。なお、見つかった遺骨は震災の混乱の中、芝・増上寺で手厚く供養されたという。

 

常紋トンネルの人柱

難工事の末、1914年(大正3年)に開通した常紋トンネルは、1968年(昭和43年)の十勝沖地震で壁面が損傷したが、1970年(昭和45年)に改修工事が行われた際、立ったままの姿勢の人骨が壁から発見され、出入口付近からも大量の人骨が発見された。タコ部屋労働者(略称:タコ)が生き埋めにされたことについて、当時のタコやその他関係者たちの証言もあったが、特殊な状況を示す遺骨群の発見によって、かねてより流布されてきた怖ろしげな噂のうち人柱の件は事実であったことが証明された。

 

伝説の域にある人柱[編集]

茨田堤と強頸・衫子

『日本書紀』「巻第十一の十 仁徳天皇(仁徳天皇11年10月の条)」の伝えるところによれば、暴れ川であった淀川の治水対策として当時は広大な低湿地であった茨田(まんた、まんだ。のちの河内国茨田郡[まんたのこおり]、現在の大阪府守口市・門真市の全域、寝屋川市・枚方市・大東市・大阪市鶴見区の一部に及ぶ範囲)に茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、次に難波堀江を開削して流水を茅渟の海(ちぬのうみ。現在の大阪湾)に落とす工事にかかったが、茨田地域にどうにもならない絶間(たえま。断間とも記す。決壊しやすい場所)が2箇所あって万策尽きてしまった[7][8][9]。そのような最中のとある夜、天皇は夢枕に立った神から「武蔵国の人・強頸(こわくび)と河内国の人・茨田連衫子(まんたのむらじ ころもこ)の2名を人身御供として川神に捧げて祀れば必ずや成就する」とのお告げを得、かくしてただちに2名は捕らえられ、衫子は策を用いて難を逃れたが、強頸は泣き悲しみながら人柱として水に沈められたため、堤は完成を見たという[7][8]。江戸時代の『摂津名所図会』によれば、強頸が人柱にされた「強頸絶間」の跡は絶間池(非現存。大阪市旭区千林)として残っていた[7]。現在は千林2丁目の民家に「強頸絶間之址」の碑が建っている[7]。

 

出典[編集]

    1. ^ 南方熊楠 『南方閑話』 坂本書店出版部、1926年3月20日。
    2. ^ 『南方熊楠全集 第2巻 南方閑話・南方随筆他』 平凡社
    3. ^ 高木敏雄 「人柱――埋められた人間の霊魂の作用で、工事が堅固になるという思想らしい」『日本神話伝説の研究』 岡書院、1925年5月20日、530頁。
    4. ^ 東京人類学会雑誌 第194号 「人柱に関する研究」 1902年(明治35年)5月20日、303-307頁。
    5. a b c d “地すべりと人柱伝説”. (公式ウェブサイト). 独立行政法人 土木研究所 土砂管理研究グループ 雪崩・地すべり研究センター. 2012年10月14日閲覧。
    6. a b “板倉区の文化財 : 人柱塔人骨”. (公式ウェブサイト). 上越市. 2012年10月14日閲覧。
    7. a b c d 三善貞司 (2009年6月27日). “荒れる淀川鎮める生贄に 工事成功へ天皇にお告げ”. 大阪日日新聞(ウェブサイト)新日本海新聞社. 2012年10月14日閲覧。
    8. a b “61.強頸絶間跡碑”. (公式ウェブサイト)大阪市. 2012年10月14日閲覧。
    9. ^ “日本書紀 巻第十一の十”. 岩倉紙芝居館(個人ウェブサイト). 個人. 2012年10月14日閲覧。
    10. ^ “千貫石ため池”. 先人が残した歴史的水利施設土地改良区(全国水土里ネット)(公式ウェブサイト). 2011年8月3日閲覧。
    11. ^ 農林水産部農村計画課 (2011年3月10日). “岩手県-農業農村整備かみしばい「千貫おいし」”. 岩手県(公式ウェブサイト). 岩手県. 2011年8月3日閲覧。
    12. ^ [1]肥後国くまもとの歴史 多良木町百太郎溝入口旧樋門2014年2月26日閲覧
    13. a b 下島朗. “人柱/用語解説辞典”. NTTPCコミュニケーションズ. 2011年1月31日閲覧。
    14. ^ 韓国で行われた「人柱」の初証拠、新羅時代の遺跡で人骨発見 AFP(2017年5月16日)2017年5月16日閲覧

 

 (引用終わり)

 

 

このように、日本の神道は、ニムロドの悪魔教の3要素「太陽信仰」「蛇(竜)信仰」「人の生贄(人身御供、人柱)」が含まれており、古代の地球の世界的な悪魔教の影響が顕著であると考えられます。

 

この悪魔教の影響を色濃く受けた日本の神道は、明治以降に神仏分離により仏教から完全分離され、天皇を現人神とする国家神道が強制的に作られました。

そして、欧米財閥の操り人形であった伊藤博文はプロシアの宰相ビスマルクに傾倒し、プロシアのヘーゲル哲学右派と国家神道を融合させた「神道帝国」を作り上げ、極東で戦争を継続しました。

幕末から第二次世界大戦にかけてこれらを背後で操ったのは、世界的な金融権力を握る欧米の財閥連合体を支配する秘密結社、つまりアダムスキー氏の言われるサイレンス・グループでした。

 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« No.2地球の戦争と悪魔教: ア... | トップ | No.4地球の戦争と悪魔教: ア... »
最新の画像もっと見る

金融権力、地球の戦争と悪魔教: アダムスキー氏の解説に基づく考察」カテゴリの最新記事