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私とサッカーとVAMOS OBが国立競技場で大活躍

2015-02-08 18:07:38 | 自分史
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草田の時代は、高円宮杯の全国大会が2001年平成13年12月9日のマリノス追浜戦の延長の末に負けて今シーズンは終わり、歴史に残る年となりました。そして、正月を迎え新しい年の始まりと思ったら、テレビでVAMOS出身OBが7人も活躍している岐阜工業高校チームが、平成13年度の全国高校選手権で大ブレイクしています。
1回戦、明徳義塾3-0、2回戦 南宇和3-0、3回戦 市立船橋 2-2PK7-6、準々決勝 四日市中央工4-1と大進撃の活躍で、準決勝の国立競技場の舞台に立つことになりました。そのチームの中には、VAMOSのOBが、GK荻晃太(甲府ヴァンフォーレ)、DF熊崎貴之(神奈川教員)、ボランチ福井淳平(大阪教員)、2年松井義隆(FC岐阜セカンド)、MF 山崎和博、古田晋一郎がレギュラーで出場して、交替で2年白木達也の7人の選手が活躍していました。そして、昨年の2014年のクラブワールドカップ選手権で活躍した、オークランドシティ―の岩田卓也が、当時は骨折して出場できなかったのですが、本来であれば、岐阜工の選手の11人の内の7人がレギュラー出場し、1人交代で出場するというVAMOS出身選手のチームだったのでした。
準決勝の前橋育英戦を応援に国立競技場に行きました。そして、2-1と素晴らしい勝利を飾り、決勝に進むこととなり、東京に泊まり明くる日の強豪国見との決勝戦を応援しました。試合は国見の勢いを止められずに1-3で敗れましたが、岐阜県のチームとして、全国民から注目されることになり、そのチームの中に、VAMOS出身の選手が活躍してくれたことを大変うれしく、応援しながら感激しました。
昔を思い返すと、この学年のVAMOS時代は、東海大会のクラブ選手権ではベスト8まで進み、高円宮杯に於いては3位となるが、全国大会に出場できませんでした。
その後に、岐阜工へ進み、たくさんのVAMOSから育った選手が、当時の大野聖吾監督の指導に花を咲かせて全国の大舞台で活躍してくれました。
これも指導者として喜ばしいことです。

つづく

私とサッカーとVAMOS キャプテンを変えた

2015-02-02 16:13:43 | 自分史
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つづき、ヴェルディ戦で付け加えたいことがあった。前半スタート直ぐに左DFの小寺が負傷退場して小坂に替えたが、不安げにプレーしていることから、後半スタートから、また佐藤に切り替えたのです、その佐藤がスピードを生かして攻守にわたり大活躍してくれたことも引き分けにつながった大きな要因であった。ブロックリーグ2位通過。さあ~これからだ。
死闘を戦い抜いて決勝トーナメントまでに、1日の休みがありました。
体を動かすために、浪江駅の近くの、運動公園でトレーニングです。レギュラーは、軽く体を動かし、控えはゲームをしてゲーム感を付けようと思うのですが、この学年は、こういう時でも目いっぱいトレーニングをしないと気が済まない選手が多く、コントロールが難しい熱い奴ばかりです。
楽しくリラックスしたトレーニングでは、体を動かした気がしないようです。30分はゲームを入れて、自主トレの後ホテルの社長の運転するマイクロで戻りました。
スタッフも夜には、コミュ二ケーション兼ねて、おいしい店へ行っては、試合の反省しながら、明日への活力としていました。浪江町のいい思い出です
次の対戦相手は、FC東京です。
2001年8月15日は、東京に帰る車の渋滞があり、Jヴィレッジへ行く国道が非常に混んでいました。いつものスケジュールより遅くなり、時間がおしたことから、慌てながら試合に入ったこともありました。また、このチームの悪いところの、初戦や休み明けの試合がいつも良くないことです。尚且つ風が強く、風下からのスタートです。VAMOSが優勝チームかと思われたほどでしたが、またしても、良いのか悪いのか分からない内容となってしまいました。
FC東京は、しっかりつないでくる、まとまったチームです。すごい相手ではなかったのですが。
前半の風下で右ワイドのクロスがミスキックのような、風に乗りロングシュートとなりゴールした。
後半に入ってもVAMOSの攻めのリズムが悪く、またしても失点して、0-2の負けとなったのです。非常に悔やむ敗戦でした。
大会関係者からは、「ヴェルディ戦の疲れがあったんだな」と言われたのでした、残念な負けとなったのです。
私の反省として、自分の自信のなさがここに出たのかもしれないと思っています。
試合前の、ウォーミングアップで慌てさせたこと、ハーフタイムの時に、もっと方向性のある強い言葉をかけるべきだったと思っています。後半リズムを変えられたのではないかと調子の良い佐藤を使うべきだったかなどが反省です。
FC東京は、決勝まで進み準優勝しました。
この大会の選抜である、メニコンカップカップには、ウエストとしてGK水崎、DF青山、FW津田の3人が選抜されました。テレビ、新聞などの取材もあり、注目を浴びました。
名古屋の瑞穂の会場で、西軍の劣勢の中で、チームを引っ張って大活躍をした青山がMIPを獲得したのです。その時に鹿島アントラーズからオファーがあったのですが、その後に前橋育英へ進みました。

最後の第13回高円宮杯全日本(U-15) サッカー選手権大会にも出場することになりました。
新幹線に乗って岡山へ、在来線に乗り換え、瀬戸大橋を渡り、宿舎に到着。トレーニングに向かいます。大会関係の先生の中学校でのトレーニングとなりました。全運動部が部活を辞めて、運動場を空けてもらい、部活の生徒がまわりを囲む中で注目されながらのトレーニングとなりました。今日はリラックスして、楽しく遊戯感覚で終わるつもりでしたが、さすが全国大会に来るチームは違うと思われる練習をしなければと思い、しっかりトレーニングを1時間することになりました。これも思い出です。
会場は、香川県の丸亀市の中でそびえ立つ、大きな立派な素晴らしい競技場でした。
2001年平成13年12月8日の1回戦、相手は小倉南FC。小学生の時に優勝して、その時からクラブを立ち上げたチーム。どんなチームか分からずにゲームは始まる。クラブ全国のヴェルディより強いうまいチームだと思った。うちの守りが、相手のドリブルでどんどんかわされる。ペナルティーの中でも、誰もがスイスイ抜いてくる。これは「うまい」と自分も驚くチームでした。攻められっぱなしで前半1点を失い、どれだけ入れられるか心配でしたが、相手のシュートが何本もポストやバーに当たり、GK水崎がファインプレーの連続、DFも食い下がるようになり、後半に草田が得点して同点となり、相手のドリブル力にピンチが続くそんな中で逆襲から立道が勝ち越しのシュートを決めたのでした。良く勝てたよ。
試合後に相手監督が、更衣室まで来て、「強いですね、さすが全国のチームは違いますね」と賛辞を頂いたのです。負けておかしくないゲームでしたが、我がチームの凄さを感じたところです。
そして同じ会場で、次の日の2回戦は、横浜マリノス追浜でした。両チームに攻めのリズムがあり、素晴らしい攻め合いが続き、お互いに得点できなく延長戦となり、後半にビッグチャンスがあったが、シュートが決まらず、その逆襲から、相手に決勝点を奪われ敗戦となって、このチームのシーズンが終わったのでした。
この大会は、対戦相手のマリノスが優勝しました。

このチームでは、私の大仕事があったことを付け加えます。
3年になって、このままではいけないぞという危機感を感じ、キャプテンを交替したのです。
1年の時から技術のあるキャプテン原田であったが、ゲームメイカーとして、不調だったこともあり、この大切な時期に判断しました。
自分の経験からDFの中心の選手になるのが、バランスがいいのではないかと提案しました。
そして、選手の同意から、青山がキャプテンに選ばれたのです。
原田もプレッシャーを感じ、自分のプレーにも精彩がなく、落ち込んでいる時でもあったので、このままでは大会に入れないと思い決断したのです。
それから青山が、チームの中心となり、責任ある守備をしてくれました。チームの先頭となってプレーをしてくれました。そして、その後には、オリンピック代表にはなれなく残念でしたが、日本代表オールジャパンになったVAMOS唯一の選手です。これからの更なるチャレンジに期待しています!
また原田も、その後になって、自信を回復して、重責がなくなり、のびのびとプレーができ、ゲームメーカーとして攻めの中心で流れを作ってくれました。それからの活躍に嬉しく思いました。



私とサッカーとVAMOS 初めてのJヴィレッジ

2015-01-30 19:24:24 | 自分史

2001年、平成13年度は、私もこの選手のやる気につられるように、練習のアイディアが生まれ、レベルを上げるために、もう一つ課題を与えてみようとチャレンジできた年でした。

第16回日本クラブユースサッカー選手権U-15 東海大会に出場しました。
東海大会に向けての作業として、個人評価を作ることです。本人が自分の良さが分かることと、仲間にも知ってもらって、チームの戦術となるように、選手が良いパフォーマンスをゲームで発揮してもらうための仕事です。
1回戦三好(グランパス)に2-0、2回戦城内(三浦カズの出身クラブ)に1-0、準決勝清水エスパルスに2-1、決勝は、ジュビロ磐田に0-1の2位となり(おかしい時のVAMOS) 初めてのJヴィレッジ(福島県)へ久々のクラブ全国大会に出場することとなったのでした。

抽選(私がJFLへ行って引いてきました)して、1次のグループが決まります。
シードのヴェルディのグループに入りました。次に、後から聞いた九州のVAMOSと言われる佐賀のヴァレンティア、最後に何とエスパルスが入ったのです。死のDグループとなったのです。そして、宿舎も抽選があり、よりによってJヴィレッジから車で1時間程かかる、今は名前が知られた、浪江町のホテルとなったのでした。真っ青です。
大変お世話になり、宿舎や町の環境は良かったのですが、会場までの移動で行き帰りに2時間もかかることになりました。早く出発して、帰りは遅くなることになる。
前々回に話した、私自身の迷いであるJへの意識があった時の全国大会となりました。
そんな中でしたが、自分を奮い立たせて最大の努力をしました。
宿舎でのミーティングの前は、皆と離れて集中したいので1人で喫茶店に行き、スタートメンバーを決め、控へ選手を決め、今日ミーティングで話す内容をレポートにびっしりメモリ、約30分間の作業をしてみんなの元に戻ってミーティングです。そして、今日の試合に向けて選手に分かるように熱く語ります。そして、昼食をとり、時間に合わせて移動します。ウォーミングアップも、私が率先してやりました。アップ場からピッチの移動に荷物運びなども手伝い、選手と一緒でした。そして、試合前の準備などをしたら、やることはやった、さあこれからが、本番です。試合の間が、私の大きな大仕事です。タイムアップまでの時間は、私の判断で良くも悪くもなる可能性があるので、最大の集中力をもって試合にあたります。外見は、普通の紳士です!

この大会関係者から、当時には、トップのJリーグオールスターカップがあり、そのハーフタイムの映像に、このU-15大会から将来のJ リーガーのこの年代のチーム、みたいな特集を組みたいという事で、参加チームの中から、J下部としては、ヴェルディ―を、町クラブからはVAMOSということになり、試合後の選手が取材を受けたり、監督の指導方針や、この年代は何が大切ですかといったことなどを個室でインタビューを受けることになったのでした。
グループ1回戦ヴァレンティア1-0「最初のゲームはいつも良くない入りでした」、2回戦エスパルス0-0「終始VAMOSの攻勢が続くものの得点できず」、2試合の結果は、VAMOS1勝1分け、エスパルス1勝1分け、ヴェルディ1勝1敗です。
3戦目のヴェルディとの試合が始まります。引き分け以上で、2位となるVAMOSです。
前半スタートから、ヴェルディ―の喧嘩のようなゴールに迫り狂うような猛攻撃を受けながら、カウンターからパスをつなぎ、津田が左45度からのクリーンシュートが決まり先制、そして木内のフレーキックから草田が競り合いオウンゴールをさそい、前半に2点奪ったのです。それからは、更に荒れ狂うようにヴェルディはガンガン攻め込んで2点返されるが、最後まで踏ん張り、引き分けたのです。
これで、死のグループを2位で抜け出ました。
この試合で、大会関係者からVAMOSの評価が上がり、この試合でDF青山が、この年代の日本代表に選ばれたのでした。
決勝トーナメント進出です!

私とサッカーとVAMOS ダイナミックなチーム

2015-01-29 17:11:44 | 自分史

佐村の次の年となる
2001年・平成13年度のVAMOSも自慢できる思い出のチームでした。
この頃私は、前年度のU-15 チームが最後の大会が終わった時点で、次のU-15(その時点U-14)に指導者をバトンタッチするという形で、チームの代表をいつも受け持っていました。
この年に練習場も各務原の金属団地から、土日は美濃のゴルフ場に変わりました。遠くなりましたが、ゲームをやるには、正規のサイズで出来たので、後から思えばこれも良かったと思います。
VAMOSU-12 からの選手も多くゲームメーカーのテクニシャン原田、美しい放物線を描いたようなミドルパスから一気に逆サイドへの展開ができるボランチの立道が中心となってゲームを作る。DFには、中央にセンスのある木内、右サイドにオーバーラップの得意な平工(各務原高→関西大、おばあちゃんが全国大家出場記念に白地の青い文字の大きな横断幕を作ってくれました)です。平工は練習会場が近いこともあり、毎回早く来て一人でもゴールを組み立て、自主練をしていました。愉快な奴でしたが、練習熱心でもありました。後、FW野村、MF粂野、DF古田、DF佐村龍などがチームの一員です。
そう言えば、この学年のセレクションの時に、一宮市の名神高速の一宮サービスエリヤ付近の丹陽小のDF青山、FW草田、MF田口、DF佐藤、DF松本が来てくれました。そして、もう一人一宮から矢島が来て、本当に能力の高い元気な6人が集まったのです。
DFセンター青山=甲府ヴァンフォーレ→来季はタイのチームへ(前橋育英高→清水エスパルス、オリンピック代表候補、日本代表) FW草田=中京大中京高→中京大→一宮市役所=VAMOSスタッフ、MF田口=やまが整形外科勤務、VAMOSトレーナー、MF矢島(各務原高→岐阜経済大)
中学生から加わった者では、GK水崎(グランパスY)、古田(熊本大津高→鹿屋体育大)、谷尻(元VAMOSスタッフ) DF小寺(グランパスY) 小坂(大垣北) MF左大山(各務原→岐阜経済大)、FW津田(グランパスY→グランパス→徳島ヴォルティス)などがあつまっていました。
このチームは、みんなに活力があり、元気があり、吸収力があり、練習で力を抜かないことと、チャレンジ欲がある選手の集まりのようでした。中心になる選手が率先して練習に取り組む姿勢が全員を動かしたのでしょう。
指導者として、楽しくてしょうがないという感じでした。
アイディアがいっぱい出ました。
選手達も楽しそうに、“生き生き”“伸び伸び”とサッカーに打ち込んでいる様子は、この一年私の喜びでもありました。
もう一つ、このチームは、いままでにないVAMOSのサッカーでした。
豪快でパワフルなチームですが、繊細な部分もありました。
良い時は素晴らしく圧巻なすごいチームですが、時として、なんかおかしい時は、皆がおかしくなるようなところもありました。
だけど1人1人のプレー技術はしっかりしていました。
守りが強く、守りからの攻めには、素晴らしいものがありました。
もう少し、取れる時に得点ができれば、全国NO.1に輝いたチームだったでしょう。
うまさがあり、高さがあり、速さもある。相手からは、驚異的なチームだったと思います。
VAMOSが初優勝した時の初代のチームに匹敵する力がありました。
この年は、次につづく

私とサッカーとVAMOS 指導者として苦しんだ時

2015-01-27 12:08:03 | 自分史
私のサッカーは、23歳から27歳までの永大サッカーでの経験が大きい、特に25歳からの2年間の時に出会ったセルジオ越後の影響が大きかった。
指導している時や、いろんな人と酒を飲みながらサッカーの話になると、いつもセルジオの話を口にするぐらい、私には、いつもセルジオがいた。
試合前のミーティングでも、セルジオだったらどう言うだろうか、前半の終わりになると、このゲームをセルジオだったらどのように分析するだろうか、それをどのようにハーフタイムで話をするだろうか、練習の時でも同じように、いつもセルジオだったらと思う自分がいた。
永大(日本リーグ時代のチーム)の時に、セルジオからいろんなものを吸収できた、個性を伸ばす・生かす大切さ、自分が自分の技術・能力を伸ばす、自分の意思・意見を持つ、指導者の立場と仕事、試合の時の相手の見方、天候によるサッカー、コンディションの持って行き方、マインドコントロール、試合の時の自分の立場、仲間の使い方などなど、たった2年間の間であったが素晴らしい経験ができた。
私がVAMOSを作り指導するようになって、セルジオが乗り移っているかのように、私が目指すサッカーができていた。
選手を見る目も自分では、満足している。
良い選手が分かる個性が分かる。
どのようにアドバイスすればいいか、どのように選手をサポートすればいいかも分かる。
全国大会の時の試合で、前半のゲームを見て、ハーフタイムに戦術を変える支持を出すと後半がらっと変わったチームになり、勝利したことも何回かあった。
VAMOSの試合を見ながら良く感じるのは、楽しそうに、面白く、夢中になってゲームをしている様子を見ていると、良いサッカーしているなと楽しくなる。
指導者として、俺は全国でNO.1だ。誰にも負けないと思っていつもやっていた。
俺は天才かと心の中で思う事もあった。
しかし、1992年平成4年に創立して、全国大会に平成5年にクラブ大会に出場、平成6年に、クラブ大会優勝、高円の全国にも出場ベスト8、平成7年は、クラブ東海で最後の最後に逆転負けで出場できない。
しかし、次の平成8年には、クラブ全国大会で決勝まで進み2位となった。
あくる年から、会場が平成9年からJヴィレッジに代わるが、それから4年間東海大会では、後一つの所でJヴィレッジをいつも逃していた。
それから確かにJ下部が充実して、力を付けてきたことは確かだが、全国大会に行きたかった。
その間に、高円の全国には、この前紹介した3位になった実績はあるものの、高円東海の当時は、各県2チーム出場だと3チーム全国に行けると可能性があった。
東海の当時のJ下部は、グランパス、エスパルス、ジュビロ磐田・浜松・沼津などがあった。
クラブ全国大会(東海4チーム)に出れない、J下部(全国)が自分にとってちよっと違うサッカー(日本サッカー協会マニュアル)で、能力が高く、なかなか勝てないという気持ちがどこかに自分にあったのが、迷いとなったのかもしれない。Jに勝てないと、自分の中で苦しんでもがいていた時でもあった。

そんな気持ちを少し晴らしてくれたのが、2001年、平成13年の素晴らしいチームでした。
また次の時に、話をします。