風車ビルだより

今は風車のない風車ビルからの風だより

手榴弾消火器

2011年06月25日 | 全般
古い消火器・具の類はかなり見ているはずだが、これは初見。

投擲型の消火具は今でも作っているメーカーはある。大道芸的なデモンストレーションをするとそこそこ売れるものらしい。
これはそうしたものの先駆か。

木箱に文字は彫り込み象嵌してある。中をあけると丸い瓶が3個。如何にも吹き硝子のフラスコの口をうんと短くしたような瓶だ。薬剤の保護のためだろう塗りたくった塗料があちこちはがれている。持ち重りがするので、取り落として割りそうだ。
製造年は廿四年とある。昭和24年か、福井大震災が昭和23年であるから残っていても不思議はないのか。62年前のものであった。




ナージャの村

2011年06月18日 | 本/映画
6/16(木)にテアトル・サンクで「ナージャの村」の上映会があった。

ネットのレンタルビデオ屋で散々探して見つからなかった映画の一つだ。ここでやっていたとは。夕食にレトルトカレーをかきこんで出かける。
客はまばらだ。主催者側とその知り合いらしい人たちが目立つ。昼間の上映会はもっと盛況だったという話だが。

1994年頃の映像らしいが、水道もない。電気もない、従ってテレビもPCもない村暮らしだ。
村民は6家族。子供がいるのはナージャの家族だけ。
牛や馬や鶏、ヤギ、犬・猫。乗り物は自転車と馬車。馬は荷を運び、畑を耕す。
ベラルーシの草原地帯、冬は厳しく、川まで凍る。でも老婆は春になったら畑に種をまくのだと待っている。
何を植えよう、死ぬまで働かなくっちゃ。

何の映画かと思えるほどだ。エコライフ礼賛?
この村は放射線に汚染され立ち入り禁止の村だ。立ち退きを拒否した人たちだけが住んでいる。
よく原発推進派の人たちはいう、電気がなくてもいいのか?と。(全く問題のすり替えだと思うのだが。)ここでは原発のすぐ近くで、こんな生活が続いていたのだ。原発の作った電気は村を潤すことなく、都会へ、工業地帯へと送られていたのだろうか。
チェルノブイリの事故からはさらに時は停まったろう。

ともかく生きていくための仕事はどっさりあるし、老人たちは腰がすわり、その言動はユーモラスでさえある。でもナージャの両親は子供の教育を考えれば悩ましい。18才の長女は町で学校に行き、週末に帰る。息子は中学生くらいの歳にみえる。その下に女の子が3人、ナージャは一番下だ。とうとう母親は町に部屋を借り、子供たちと引っ越す。週末にはみんなで村に帰ってくる。

この映画では老人たちには思いを語らせている。若い世代には意識的に語らせていないような気がする。聡明できびきびした感じの長女や、息子はここの生活をどのように受け止め、感じているのか。
さらに十数年が経ち、ナージャも既に大人だ。彼らの今が知りたい。

意識的にフクシマと重ね合わせないようにする。重ね合わせるには、例え私の中だけにせよもう少し時間がいる。



6月の花

2011年06月13日 | 動植物
福島県いわき市小名浜。A社工場付近


この川を津波が上がってきて車が逆さに残っていたそうだ。
屋根を修復中の家が目立つ。川沿いに少し行くと海岸に出る。そこでの傷跡はもっと生々しい。


6/2-5 福島 メモ

2011年06月06日 | 国内旅行
昼過ぎから激しい雷雨になった中、高速に向かう。北陸道が雨飛沫にけぶり視界がわるい。新潟まで土砂降りだった。磐越に入りそのままいわきまで走る。福島県はだだっ広く山また山だ。7時半過ぎホテル到着、小名浜の宿は作業服の人達でいっぱいだった。県外ナンバーの車ばかりだ。
翌三日朝、A社の工場へ入る。津波は敷地の際まで来たがぎりぎり被害は免れたという。実験の動画と写真撮影、打ち合わせ。四時半頃工場を出て会津に戻る
会津の東山温泉に泊まる。翌朝、鶴が城と飯盛山により福島市へ。福島駅近くで夫の甥の結婚式。久しぶりのメンバーで呑み直し。
5日は福島市黒岩で一つ確認、その後夫は田村市へ。私は三春のハ-ブ園に降ろして貰い時を過ごす。昼食後一気に帰途。