【近現代碁の名跡を訪ねて ~ 本能寺址の碑 ~ 「三劫(さんこう)」が出来た不吉な碁 の巻】
■日海(1559~1623年)は、一世本因坊算砂。
利賢は、その好敵手の一人です。
織田信長のお声がかりで、二人が本能寺で対局した際、
<コウが3カ所にできる>という珍しい碁になりました。
対局が終わり二人が辞した後、本能寺の変が起きました。
その後、三つのコウが同時に起きる「三コウ」は
「不吉の兆し」といわれるようになりました。
「三コウ」は、コウの取り合いが際限なく繰り返されるため、
現行ルールでは無勝負と規定されています。
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当初は「本応寺」という寺号で、
1415(応永22)年、京都油小路高辻と五条坊門の間に、
日隆によって創建されたものである。
寺地は、北を五条坊門小路、南を高辻小路、
東を西洞院大路、西を油小路に囲まれていた。
かつて明智光秀が
「我が敵は、本能寺にあり」
と、備中に向かうべき兵を反転させ、
信長を襲撃した地はこのあたりである。
今はビルの間に記念の碑が二カ所、ひっそりと建つのみ。
近くには、真夏にコンコンチキチンの鳴る祇園祭の街「室町」がある。
本能寺の変 天正10(1582)年6月の早朝、京都・本能寺(現在の二条城の南東方面)にあった織田信長を、家臣・明智光秀が急襲した歴史的事件。信長は寺に火を放ち自害した。嫡男で当主の信忠も二条御新造で抗戦したが、火を放って自刃。織田政権が崩壊し、光秀を破った羽柴秀吉が豊臣政権を樹立するきっかけになった。
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★本拠地碁会の会場が自粛閉鎖となったため
わたしは3月の毎週末、京都に通いました
写真はこの時期に撮ったものです
新型コロナの状況は好転せず、悪化の一途となりました
囲碁サロン、街中の寺社境内の空気が今は懐かしい
早期再訪の日を願って、あれこれ書いていきます
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このままでは『こんな時なのに、あんな事してる、こんな事してる!』と憲兵に密告するみたいな状況になるような気がします。
マスクすらしない人や、逆にマスクさえしていれば大丈夫だと思っている人がいたり…
宣言が出れば過剰反応するし、解除されれば油断する。
このままではコロナにやられる前に心も身体もボロボロになり社会は崩壊してしまうのではないかと思います。
こんな状況で活動を続け感染者など出そうものなら、全国から非難を浴び完全に息の根を止められてしまうでしょうね。
ここはもう、来る日に備え耐え忍ぶしかありませんね。
仰せの通り。
もしかしてスペイン風邪の時も大戦の時も
こういうことだったのかもしれませんね。