【近現代碁の名跡を訪ねて ~ 「本因坊」起源の寺 の巻】
■現在の本能寺から御池通を東に歩き、鴨川を渡る。
しばらく行くと、平安神宮のある岡崎周辺に出る。
この地は、院政時代には六勝寺といって、
「勝」の字のつく六つの皇室の御願寺が建ち並んでいた。
16世紀後半に全て廃絶となり、今は美術館を集積する文化の街に。
桜の季節、一段と艶やかさを増し、平安朝の春景色も
この様にあったのか、と想像をめぐらすことができる。
疎水に枝を差し出した落花の舞、その華やかさを堪能したい。
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■さて、この鴨川左岸の東域は、観光寺院ではない信仰の寺が点在する。
むろん拝観料も観光バスもなく、境内参拝は自由である。
寂光寺は、東大路通に出る手前、仁王門通の南側に境内を持つ。
山門をくぐると左手に、大きな本因坊の碑が見える。
開山日淵上人の法弟で、二代目住持の日海(にっかい)は
寺内の塔頭・本因坊に住む僧侶だった。
碁の名手にして、向かうところ敵なしの大才。
今のアマ五段格とも六段格とも見える信長が5子で指導を受け、
当時の流行語「名物」をアレンジして「名人」と呼んだ最初の人物。
信長に比肩する棋力の秀吉、家康も「家庭教師」に重用し、
官職と扶持米を与え、囲碁発展の礎とした。
算砂が、世阿弥や千利休の如き権力の懐刀だったという説も
あながち的外れではなかったろう。
日海は、本因坊算砂(さんさ)を名乗り、一世本因坊となる。
本因坊家は江戸・下町に置かれ、他の家元も近くに出来た。
以後、世襲制の家元は公儀の後ろ盾で発展する。
世襲制といっても、棋力のある者が本因坊を襲名し、
跡目を継いでゆくという実質「実力制」であった。
<各地の神童が、殿様の眼に留まり、推挙されて江戸に出る>
という流れは、政治と芸道との深い関係があったからこそ。
封建時代のがんじがらめの身分制度にあって
出自を問わず立身出世できる数少ない「夢の世界」が
そこには確かにあったのである。
▼「御城碁」は年一度、寺社奉行の呼び出しにより将軍に技量を披露する場
家元所属棋士で七段上手の者に出場権のある最高峰の選抜大会だった
本因坊家 信長・秀吉・家康の三英傑に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系。本因坊の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来する。江戸期には囲碁四家元及び将棋方三家にあって、常に筆頭の地位にあり、日本各地の俊才が集まる最大にして最強の勢力だった。道策・丈和・秀和・秀策・秀甫・秀栄ら「時代の最強者」が有名だが、昭和13年に二十一世本因坊秀哉が名跡を日本棋院に譲渡し、家元制から実力制に移行した。本因坊戦は、新聞社を新たなスポンサーとして、昭和16年から始まった最初の大きなプロ棋戦として今に至っている。
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