「ドラフト」と聞いて、ある年代の方にとって思い出すのはやはり1978年の「空白の1日事件」でしょう。
1977年、プロ野球ドラフトの目玉だった法政大四年生の江川卓さんを、指名順1番となったクラウンライター・ライオンズ(現;埼玉西武ライオンズ)が指名しました。
この年の4年前の1973年のドラフト会議でも目玉だった江川卓さん(当時;作新学院高)は読売ジャイアンツ入団を熱望し、阪急ブレーブス(現;オリックス・バファローズ)からの1位指名に対して入団拒否し、ここでもクラウンライター・ライオンズ入団拒否を明言しました。その理由として、クラウンライター・ライオンズの本拠地が福岡県であり、「九州は遠い」と首都圏から遠いことを挙げました。
ちなみに、江川卓さんは当時、ジャイアンツでなくても、ヤクルト・スワローズ(現;東京ヤクルトスワローズ)か大洋ホエールズ(現;横浜DeNAベイスターズ)といった首都圏のセントラル・リーグからの指名であれば入団するつもりだったそうです。
ということは、パシフィック・リーグで、東京・後楽園球場を本拠地にしてた日本ハムファイターズ(現;北海道日本ハムファイターズ)と、川崎球場のロッテ・オリオンズ(現;千葉ロッテ・マリーンズ)が指名していたとしても入団はしていなかったでしょう。ただ、そのときの入団拒否理由は何になっていたのでしょうか。
江川卓さんは結局、浪人して翌年(1978年)のドラフトを待つことにします。ですが、そのドラフト前日の「空白の一日」を使ってジャイアンツが江川卓さんと契約。これが問題視され、ジャイアンツがドラフトをボイコットすることになります。そして、そのドラフトでは阪神タイガースが江川卓さんを指名しますが、当時の金子鋭コミッショナーによる「強い要望」を受け、これまた、キャンプイン前日の1979年1月31日にタイガースが一度入団契約を交わし、同日中にジャイアンツの小林繁さんと交換トレードをすることが発表されます。
記者会見の場で次々の質問を重ねてくる記者たちに対して、ここでも江川卓さんの迷言「興奮しないで」が飛び出します。
正確には、「まぁ、そうムキになって質問されても困るんですけどねぇ。興奮しないで、抑えて、抑えて」でした。だが、冷静を装う江川の言動が、逆に記者たちから反感を買ってしまう。
一方で、小林繁さんは、「阪神にお世話になることになりました。同情はしてほしくありません。ぼくは野球が好きですから」というコメントを残したことで、ドラフト史上最大の「憎まれ役」となってしまいました。
その10年前のこと。
1969年のドラフトでは、当時、大学球界の花形スターだった早稲田大の荒川堯さんは、義父の博さんがコーチを務めるジャイアンツか、自身の本拠地ともいえる明治神宮球場を本拠地とするスワローズ以外は拒否という姿勢を明確にしていました。しかし、ドラフトではホエールズが指名。荒川堯さんは球団拒否を崩すことなく、交渉は平行線になりました。
このときの荒川堯さんは、「ドラフトに反抗するのは僕だけではない。自分が思ったとおりに生きられないなんて」と、ドラフト制度の矛盾を攻め、自分の思いが叶わないことを語っていました。
そして、1970年1月5日、荒川堯さんは犬を連れて散歩中に二人組の暴漢に襲われた、棍棒状の凶器(一説には野球用バットといわれる)で殴打され、後頭部および左手中指に亀裂骨折となりました。
この事件は荒川事件と呼ばれ、事件の後遺症によって尭のその後の選手生命にまで影響が出た。
その後、ホエールズがスワローズへの移籍を前提とした契約を持ちかけ、次のドラフトでジャイアンツかスワローズに指名される保証はないと考えた末にこれを受け入れ、同年10月7日にホエールズと契約。12月26日にスワローズへの移籍が発表されました。
しかし、事件の後遺症と思われる視力低下に悩まされ、実働5年でユニフォームを脱いでいます。
さて、ほかにも自分の希望する球団に指名されなかった選手は数多くいますが、1985年のドラフト会議で注目された甲子園最大のスターがPL学園高・清原和博でした。清原和博さん自身はジャイアンツ入団を熱望し、ジャイアンツも指名するものと思われていました。ところが、ジャイアンツが指名したのはPL学園高の桑田真澄さん。清原和博さんは6球団に指名され、クジで交渉権を獲得したのがライオンズでした。TVカメラの前で、涙ぐむ姿が記憶になります。
当初、社会人野球入りも噂されましたが、清原和博さんがライオンズに入団する決意を動かしたのがお母さんの、「あんたが勝手にほれて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい」でした。
この言葉を原動力に、ジャイアンツを見返してやろうと思い、1987年の日本シリーズでジャイアンツと対戦し、違った涙を流すことになり、その後はジャイアンツへのFA移籍も含めて、波乱な人生となります。
人生を左右するドラフト会議。指名された球団に入団した方がよかったのか、自分の希望をとおし続けた方がよかったのかは、わかりません。
ちなみに、2010年のドラフト会議でバファローズの監督として抽選クジを引いた岡田彰布さんは、1位指名の入札を3回も外し、後藤駿太選手を「外れの外れの外れ」で1位指名しました。タイガース監督時からクジ運がありませんでしたが、選手として選ばれる立場だった頃は、「抽選で人生が決まる理不尽さを感じていた」と語っています。
そこで、「ドラフト指名が競合したら球団名が書かれた封筒を箱に入れて、選手本人がクジを引けばいい」と提案していました。
これで必ずしも指名される選手の希望どおりとはなるわけではないでしょうけど、(ある意味)自分で選んだ結果なら外れても(ある程度)納得できる気持ちはでてくるかもしれません。
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