今日はあることをきっかけに、「悟り」というものをポエムティックに考えてみました。
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「悟り」というものは、もしかしたら「恋愛」に似ているのかもしれない。
追いかければ追いかけるほど意中の相手は遠ざかり、その恋を諦めて肩の力がふっと抜けた時に自分の想いが通じたりする。
また、ホームランを打つコツにも似てはいないか。
ホームランばかりに捉われて力みすぎると球は遠くに飛ばず、その捉われから脱して力みが抜けた時にきれいな弧を描くホームランを打つ事ができる。
どちらも共通しているのは、何かの「捉われ」に執着しているうちは想いが成就しないということ。
それと同じで、「悟り」に捉われているうちは人は決して悟ることができないのであろう。
昔、親から眠れない夜などは羊の数をかぞえてみたらと教えられた。
「羊が1匹、羊が2匹......」
不思議なことに、羊を数える事に集中しているうちは決して寝れはしないが、数えること自体忘れてしまった時にはぐっすり眠りについていた。
これも、どことなく「悟り」に似てはいないか。
「悟り」を求めて修行しているうちは決して「悟り」に到達できないが、その「悟り」や「修行」自体をも放下し切った時、人は自ずから「悟り」の境涯に遊戯することになるのであろう。
また、人は本能的に「悟り」を自分の外に求めたがる。
自分の外に「悟り」という未知の世界を設定し、その世界に辿り着くため修行というプロセスを経ると考えてしまう。
すでに仏(悟り)という大海に身を投げ入れていることにも気付かずに。
「証中にいながら迷い、迷中にいようとも諸仏」という言葉は、まさにこの事を指して言うのであろう。
「悟り」とはこれ如何
誤解を恐れずに極論すれば、もしかしたらその「問い」の設定自体が間違っているのかもしれない。
その「問い」の設定自体が、「自己」と「悟り」とを初めから切り離して捉えるきっかけとなり、「はるかに法の辺際を離却」する「悟に大迷なる衆生」を地でいく行為につながるからだ(参照:『正法眼蔵』「現成公案」巻)。
まさに「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」のみで良いのであり、「魚鼓鳴れば斎堂、鐘鳴れば法堂」に赴く日常底にこそ「悟り」の境涯が敷衍されているのである。
改めて、「悟り」とはこれ如何
この発想自体に罪はない。なぜなら、仏教はその発想からでしか始まれないからだ。
大事なことは、その「問い」の設定がミスリードする落とし穴に気付けるか否かだと思う。
いくら宗祖が日常底の真義を説いても、誰もみなその言葉の意味を汲み取ることなく、「悟り」を外の世界に求めて身と心の一致を計ろうとしない。
日常底以外のところに、万華鏡の如くの「悟り」の境涯が別に存在するとでも夢見てしまうのだろうか。
行住坐臥の日常底からしか両祖の「悟り」の意味は見出せない事を我々は看過してならないのだ。
注) あくまでもポエムティックなノリなので、軽く読み流して下さい
一押し頂けたら幸いです
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新年早々、管理人様の仏道への想いを感じる記事を拝見することが出来、大変にすがすがしい気持ちを抱くことが出来ました。
このような直截な語りが仏教者に求められているように思います。
いやぁ、ちょっとしたきっかけがあってこの記事を思い立ちました。
誤解を招く表現が多々あり、改めて「不立文字」の意味を再考させられました。
今年も宜しくお願いします。