リトアニア第二の都市 カウナス の閑静な住宅街 ・・・
カウナスが首都だった時代 (1919年ー1940年 ) 、
ここに日本領事館が置かれていました。
その建物はいま 「杉原記念館 」 となっています。
杉原 千畝 (すぎはら ちうね 1900年1月1日ー1986年 )
日本の外交官。
第2次世界大戦中、
杉原千畝は赴任先のカウナス日本領事館で、
リトアニアに逃れてきたユダヤ人の求めに応じ、
独断で日本通過のためのビザを発給 ・・・
(杉原記念館に展示されている写真 )
多くのユダヤ人がこのビザにより、
ユーラシア大陸そして日本を経由し、
カリブ海のオランダ領 キュラソー に渡りました。
世界が2度の大戦を体験した20世紀 ・・・
その幕開けの日である 1900年1月1日に
この世に生を受けた杉原千畝 ・・・
ビザという手段で戦争に抗ったその生き様は、
杉原千畝の宿命だったのでしょうか。
注: カウナスの日本領事館は1941年に閉鎖。
その後 杉原千畝は、
プラハ 、ケーニヒスブルグ に赴任する。
2015年に公開された日本映画 『杉原千畝 』 は、
多くの日本人に彼がとった人道的行為を
あらためて思い知しらせました。
この映画の惹句にはこんな言葉が綴られています。
『激動の第二次世界大戦下
日本政府に背き
命のヴィザを発行し続け
6000人にのぼる
ユダヤ難民を救った男の
真実の物語 』
(原文のまま )
映画の中で、
杉原千畝の親友の妹であり妻となった幸子は、
『千畝 (ちうね ) 』 という名前を正しく読めた
初めての人物 ・・・
また、リトアニアでは 『千畝 』 を音読みし、
現地の人から 『センポ 』 と呼ばれていた ・・・
などのエピソードも描かれています。
杉原記念館には、
当時の資料と写真をはじめ、
杉原千畝が 『命のビザ 』 を書いた机や、
『命のビザ 』 そのものが展示されています。
壁には日本地図が貼ってあり、
ここを訪れる日本人が自分の出身地に
日の丸のピンを刺しています。
心なしか、杉原千畝の出身地である岐阜県に
多くのピンが刺さっているように思いました。
2015年、
杉原記念館を訪れた人の数は約1万5000人 ・・・
そのうち1万3500人が日本人だそうです。
JFK-World
この映画、そして千畝の劇を観て感動した者の一人です。
杉原記念館を訪れた人の数は約1万5000人、
そのうち1万3500人が日本人とは驚きました。
私は岐阜出身ですが、私が18歳で上京するまで
郷里で千畝のことは全く知られていませんでした。
外務省が正式に彼のことを認めて謝罪したのは
まだ近年のことですものね。
これで千畝氏のことを知ることができて良かったと思いました。
昔、奥様が「徹子の部屋」に出演した時、たまたま見て、このような人が日本にいたのかと驚きました。それから、随分経ち、映画化されました。
勇気の人ですね。
そして報いを求めぬよう」 ・・・名言ですね。これからよろしくお願いします。
世界の画像を多く撮られて。それだけ世界
を周られたのでしょうね。
杉原千畝氏は長男の高校の先輩です。この学校
は自由な校風で自立 自律が素晴らしい学校
でした。
今になって杉原氏の功績が認められて.晩年は
寂しい人生だったと。
映画も観ましたタイトルの続きは「人の世話をするよう
そして報いを求めぬよう」小池東京都知事の言葉に
も。
画像の数々、リトアニアの方にどれだけ愛された方
かを思いました。ありがとうございました。