津波の写真がやっとまともに見れるようになった今
再びあのときを振り返りたいと思う。
魚市場の屋上に逃げて津波の来襲を迎えたとき。
魚市場の前の道路に津波が来た時刻をデジカメのデータ
を見ながら振り返る
2011年3月11日15時32分
2011年3月11日15時34分
わずか2分であたり一面が一階上部まできています
当時は夢中だったので実際の時間は分かりませんでした。
2011年3月11日15時57分
引き波で木造の倉庫は崩壊しました。
こうして見ると凄いですね
わずか 2分で こうなるとは。
大津波警報がでたら迷わず高台に逃げましょう。
やっと冷静に自分の映した写真と向き合えます。
再びあのときを振り返りたいと思う。
魚市場の屋上に逃げて津波の来襲を迎えたとき。
魚市場の前の道路に津波が来た時刻をデジカメのデータ
を見ながら振り返る
2011年3月11日15時32分
2011年3月11日15時34分
わずか2分であたり一面が一階上部まできています
当時は夢中だったので実際の時間は分かりませんでした。
2011年3月11日15時57分
引き波で木造の倉庫は崩壊しました。
こうして見ると凄いですね
わずか 2分で こうなるとは。
大津波警報がでたら迷わず高台に逃げましょう。
やっと冷静に自分の映した写真と向き合えます。
先日気仙沼に行ってきました。
ガレキがだいぶ片づけられたこと以外何もかわっていなくて、心が痛みました。
震災当時の映像は時間がたつほど見るのがつらい・・・というのが私の実感です。
この震災で多くの人が今でも苦しんでいる事、皆が知るべき。くだらないバラエティ番組なんかながさないで、復興支援のこと、現地の今の状況、私達ができること、やるべきこと、そういうことを訴える媒体が増えることを望んでいます。
に2度も出かけてしまいました。
私はやっと当時の自分で映した写真を直視できるように
なりました。記録として残すと写していたのですがどうも
向き合えませんでした。これから自分なりの写真集を作れ
ればいいなと思っています。
町も草が大きくなったり基礎が消えたりして、あれ!ここに
何の建物があったったっけ?そんな思いの方が強く、被災直後の
悲惨な状況は逆に忘れていっているようなきがします。
ただ鹿折の駅前の船は早めに撤去してくれればいな
と思っています。ここを通るたびに心が痛む人が何人も
います。悲惨な記憶は消して未来に歩き出しましょう。
これからもふるさとの様子を伝えて行きます。
そのうち皆で再会しましょうね。
この震災で自衛隊の方々、東京消防庁の方々NPOの
方々ボランティアの方々はじめ多くの方々のお世話に
なりました。本当に心から感謝いたしております。
被災地は復興に向けてゆっくりではありますが歩み
初めています。
これからは安定した収入を得るような自立支援の方向
の支援が必要だと思います。
みんながんばって新しい生活に向けて前進しています。
これからも応援よろしくお願い申し上げます
「2011年3月11日15時34分」の写真左の家は
私の実家です。幸い父と母は出かけていて無事でした。
その後 父は老衰でなくなりましたが・・・・。
この写真を見れてよかったです。
ありがとうございました。
もしかしたら昭和機関さんのご家族でしょうか
震災後昭和きかんさんのご主人とお話をしました
そのときはお元気でいたのですが・・・。
私も三陸新聞のお悔やみ欄はみているつもり
でしたが見逃したのでしょうか。ご冥福をお祈り
申し上げます。
電話でお話したころは田中の方にいるようなこと
を言われたいたのですが・・・・。
写真はもう少し違う物もあります。もし記録として
ご希望であればブログの左側のメッセージから
書き込んでいただければご希望にそれると思います。
気仙沼も立ち上がろうと懸命にがんばっています。
オクラさんもお身体をお大事に生活なさってください。。
たぶん お話した人は兄だと思います。
亡くなったのは92歳の父です。
年末だったので葬儀は正月が過ぎてからでした。
実家の写真の件ありがとうございます。
この写真を見れただけで充分です。
時々気仙沼に帰ります。
はやく復興して元気な気仙沼に戻って欲しいですね。
私は子供が4人(30歳から22歳まで)いる
バリバリのおばちゃんですから・・・・元気ですよ。
今日は気仙沼は雪でが舞いました
寒くなります、風邪など引かぬようお過ごしくだい