<川沿いの散策路;白河市役所付近>
奥州街道(白河の道);第5回;2日目(4);関川寺から天恩皇徳寺を巡る
(クラブツーリズム)
2017年7月12日(水)~18日(木)
2日目;2017年7月13日(木) (つづき) 曇後雨
前の記事
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c5860fa139e4004b66dc016254a9f7eb
<ルート地図>
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※再掲
<ふたたび関川寺を散策>
■結城宗広と関川寺
13時00分に新駒本店での昼食を終える.
13時05分,新駒本店前に駐車している専用バスに乗車する.すぐに発車.往路を通って,13時12分,白川市役所前に到着する.すぐに下車して,13時12分,市役所前から歩き出す.
13時15分,再び関川寺跡に立っている結城宗余広と関川寺の説明を記した案内板の前に到着する(内容は掲示板参照).
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■再び小池理八供養碑
続いて小池理八供養碑の前を通過する.昼食前にも同じ場所と通過したところである.小池理八じついていは,前回の記事でも触れたので,ここでは割愛する.
<小池理八供養碑>
■関川寺鐘楼
つづいて関川寺「銅鐘」の案内板の前に到着する.町民に時報を知らせた銅鐘で,市指定文化財だという.
なかなか立派な鐘である.
”一体,どんな音色なんだろう…”
<銅鐘>
■永安杓水
つづいて永安酌水を拝観する.
道元の「水は生命なり」の教えを解説した案内文がある(下の写真).写真の写があまり良くないが,何とか読めそうである.
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■中村勘助の妻の墓
赤尾浪士の独りである中村勘助の妻の墓を詣でる.
案内板の向こうに五輪塔の他にいくつかの墓石が並んでいるが,どれが中村勘助の妻の墓石かは分からないまま,そそくさと通過する.
このあたりがツアー旅行の難点である.
<中村勘助の妻の墓>
■石碑や胸像を眺めながら…
境内にはたくさんの石碑,胸像の類いがあるが斜めに眺めなら境内を移動する.
午前中にも拝観した本堂の前を通り過ぎて,関川寺を後にする.
<石碑> <胸像>
<白河市役所から白河ハリスト正教会へ>
■付近の詳細図 (現地案内板より)
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■市役所前を通過
白河市役所前を通過する.
市役所前から,どこをどう通ったか,正確にはトレースできていないが,多分,奥州街道沿いか,あるいは奥州街道の近傍を歩いているに違いない.
本当は,どこを歩いているのか正確にトレースしたいところだが,それにはやたらに神経を使うのでシンドイ.途中から,
”道順をトレースしなくても,まあ,いいか…”
とあきらめてしまう.
<市役所脇を通過する>
■白河ハリスト正教会
どこをどう通ったかは定かではないが,13時25分,枡形跡を通過する.そして,13時28分に白河ハリスト正教会に到着する.
時間が押しているためか,ここの見学はしないで,門の外から建物を眺めるだけにとどめる.
資料1によると,「1876年(明治9年)イオアン武石定伝教者が白河を訪れ宣教を始め、翌年、教理研究会「発酵会」が発足した。1878年(明治11年)にはパウェル澤辺琢磨司祭により7名が受洗し、会名を「白河進堂会」と称した。
1881年(明治14年)、信徒の最初の永眠者埋葬を正教会略式で執行したことに対し、仏教側より告訴されて裁判となり、雑犯律違反として有罪判決が下ったが、大審院に上告し勝訴する。
1882年(明治15年)に会堂が建築され、これは現在も司祭の宿泊、集会所として使用されている。1884年(明治17年)から1891年(明治24年)までパウェル澤辺司祭が管轄として白河に居住され、教勢が著しく進展し信徒の敬愛を集める。
1898年(明治31年)、白河の総鎮守鹿島神社例祭に際し、祭費の寄付に応じなかった信徒に対し暴力事件が起こる。1912年(明治45年)、ティト小松司祭が当地において永眠され、遺体は市内の共同墓地に埋葬され、後に墓碑が建設された。
1915年(大正4年)現聖堂が建てられた。聖堂と堂内の聖像が福島県指定重要文化財になっている。」(以上コピペ)
<白河ハリスト正教会>
<天恩皇徳寺>
■天恩皇徳寺の由来
13時32分,天恩皇徳寺に到着する.
資料2には,「大同年中(806~10)に現在の寺小路付近に法相宗の僧、勝道が建てた勝道寺が前身と伝えます。
のち、平安時代末期には三十三間堂などの堂宇をもつ寺院として再興され「大白山天恩皇徳寺」と号しました。現在の地に移ったのは丹羽氏の時代とされています。
宗派 臨済宗妙心寺派」(以上コピペ)
という説明がある.
境内に入ると,「小原庄助の墓 菊池央の墓」という案内板がある.
私たちは講師の先導で小原庄助の墓に向かう.
<天恩皇徳寺入口> <小原庄助の墓案内杭>
■菊池央の墓・戊辰戦争戦死者供養碑
墓地の奥まで進む.突き当たり付近に2本の案内板と墓石群がある.
モカって左側が戊辰戦争戦死者供養塔,右側が新船具記の菊池央の墓である.それぞれの説明は下写真で示した案内板の通りである.
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■蒲生羅漢と小原庄助の墓
蒲生羅漢は江戸時代末期の画家で酒好きだった,また小原庄助は会津の塗師で酒付きだった.とっくりの上に杯を載せた墓が小原庄助の墓である(詳細な説明は下の写真をクリック).
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<中町郵便局から脇本陣跡へ>
■中町郵便局
13時37分に天恩皇徳寺を出る.
13時42分,中町郵便局の前を通過する.この郵便局を目印にして,地図の上で現在地を確認する.私たちを郵便局を半周するように右折を2回繰り替えず.曲がる度に頭の中で地図を回すが,だんだんとフォローするのがイヤになてくる.
<中町郵便局>
■脇本陣跡
13時42分,脇本陣に到着する.
現在,建物は工事中で,拝観することはできない.残念.
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■勧工場建物跡
続いて勧工場建物跡を見物する.今は加藤せともの店の店舗になっているが,鉄格子の入った窓がある重厚な建物である.
この建物の由来は下の写真のとおりである(クリック拡大).
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[参考資料]
資料1;http://www.orthodoxjapan.jp/annai/h-shirakawa.html
(つづく)
つづき記事
↓
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2719238b359cde205587adba717c3b45
「奥州街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/55f1b2dce2470adc0fd0bd872352e0d7
「奥州街道」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4c195cfa3f795ede28aa0764b57a5db3
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