教育のとびら

教育の未来を提言 since 2007
presented by 福島 毅

最近感じること

2008-12-30 | マインド、メソッド、ツールなど
例えば100年に一度の経済危機といわれている中で、政策がうまく決定していかなかったり、日本で合意形成や議論が収束していかないのはなぜなのだろう?

まず、合意形成ということについて論じてみる。
例えば数人の中であるテーマについて合意形成をとるにはどうするか。まずは、テーマについて各人の理解がなくてはならない。特に構成メンバーごとに意味解釈が異なるのではなく、基本線については共通理解が図られていなくては議論がかみ合わない。各人が違う解釈をしていては次元の違う空論ばかりが交錯しあい、話し合いは進まない。議論の中で使う言葉の定義なども確認しておかなければならない。
そのようなことをしながら、やっと議論は始まる。何が焦点で何が目標か。政策ならば誰に対して何を行っていくべき政策なのか。そのためには何を優先させて何を犠牲にしなくてはならないのか。そういったトレードオフについても一歩ずつ同意しながら進めていかねばなるまい。

多数決は一見、正しい民主主義のように報じられる。しかし一方で多数決を取る時点で合意に至る深い議論がなければ力で押し切る中途半端な結論・政策が行使されることになるのだ。

テレビ番組で、討論はよく行われる。擬似投票などのようなシステムを入れるものもある。もちろん、バラエティーとして展開されているものが多いから、最終的な結論というのも議論がつくされてよく寝られたものとは言えない。それより気になるのが、結局議論の平行線ということがおおく、最低限の同意がどこにあるのか疑問が残るケースが多いことである。それがよく言われるところの「国民の目線に立てていない」ということなのだろう。それに対して国民も嫌気をさしているので、選挙の投票立率などもあがっていかない。

次に、日本が政策的に閉塞状況にあるひとつの理由について考えてみる。
一つの例として諫早湾の干拓事業についてあげたい。この政策については、住民の間でも賛否両論がある。その割合もほぼ互角といわれている。住民はさまざまなチャンネルから経済や環境についての情報を得る。そのことと自分たちの周りの生活について考え、そしてそれぞれに意見を発信する。もちろん、その背景には主張を裏付ける相応の理由が付加されていることだろう。その場合、為政者は何を基準にどういう態度をとっていくべきか悩む。止めるか進めるかのどちらかの選択をしなければならないが、勢力が拮抗している案件について、どちらを優先すればいいのか・・・結局、問題先送りで停滞というケースになっていく。

そのほかにも似た例は相当みられる。日本国民ひとりひとりが持つ情報量は日々増えている。さまざまな価値観に基づき、さまざまな立場で、さまざまな意見をぶつける。それ自身は健全なことであろう。問題は、双方の主張に隔たりがあるとき、何を基準にどういう優先順位で、どこを目標にしていくかを希望をもちつつ語れるリーダーというものが出なくなってしまったことである。(出にくくなっているだけかもしれないが・・・)

グローバル化する社会と多様化・複雑化する社会。複雑な条件をクリアしながら正確・迅速な列車ダイヤを組むのが難しいように、今の社会の未来ダイヤを組むことは決してやさしいことではない。また世界同時不況のような目に見えないカオスがいつ襲うかもしれない恐れが一層希望を持てなくしている。

そこで提案したいことは、知恵の結集であり、迅速で柔軟な考え方と実行力である。
一人のアイデアで世界が変わることはありえないが、ちょっとした提案が波及していく可能性もまたあるのではないか。車が停車するときのダブルウインカーやエスカレーターの右空けなどは、あらかじめ決められていたルールではない。誰かが始めた一歩だったはずである。それが社会的合意を経てマナーになったし、それが多くに支持され使われている。同様の変化というものもこれからあるかもしれない。そのためには、希望ある実践というものに対して、皆が早く同意して真似できる土壌をつくっていかなくてはならないだろう。

社会は刻々と変化しているが、われわれ人類は今、地球環境・地球資源(持続的発展)という限界をみつつ、価値観の転換点にいるものと思う。その問題解決をしていくには、「問題解決」の仕組み自体を共有しなくてはならないはずなのである。
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