京都•左京区 フェルデンクライス/アート/ダンサブルな暮らし

身体と芸術、社会とのつながりを実践しながら研究活動を行う。
発達教育学/ソマティクス教育/表現文化

【京都・伏見区】6月11日(土)フェルデンクライスと知的障がい者支援~ケアする人のからだの時間~

2011-06-11 | Specials(ワークショップ/体験会)

今日は、ベテスダの家へ現任研修に出かけます。”ケアする人のからだつくり”について日々感じていることの発表と普段メンバーと行っているフェルデンクライスの動きのレッスンをスタッフにも体験してもらいます。

レッスン後に実際にメンバーがどんな感覚や気持ちになるのかを感じてもらう日にしようかなと計画しました。

 

自分自身が、ケア現場でケアされる人のよきメディアになりたい!と思うようになりました。その為には、相手が自分の意志や感情の表現が容易ではない時でも、自分の体がチューニングされていて、自由に動ける状態であるならば

相手をより感じ、ケアされる人の動きや心を私の体を通して反映できるのではないか?と予測しました。そんな、身体感覚をケアする人が身につけておけば、その人はきっとケアする人の体と一体となって自分をより深く表現できるのではないかな?

 

楽器でいったらケアされる人が演奏者で、ケアする人は楽器。そんなかかわり方をみなで身につけられる研修にできたらよいな~。

 

研修でどんなコメントや体験が生まれたかは、又報告しますね。

 

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お気軽にどうぞ。お待ちしてま~っす。

ではでは、素敵な週末を~♪

 

ケア現場でのひとり言

自問:ケアする人もケアされる人も本当にその場を自分の意思で生きているのかなぁ?

メンバーを支援する上で、もちろんこの人は、どんな障がいがあって、病気を抱え、好きなことはこれ、嫌いなことはこれと理解していることはとても重要なことだと思う。でも、その基本からいつも離れない、ずれない生活というのが本当に人生を共に歩んでいることになるのだろうか?とふと思う事があります。

いつもの散歩ルート、いつもの作業、いつものケアメンバー。メンバーが安心して、自信をもって社会と繋がっていくことへの支援だと分かっていても、いつものルーティーンを変わらず支援することに疑問を持つことがあります。だって、普段の生活って同じ事がおこる環境って皆無に等しいのだもの。そういった同じルーティーンが当たり前におこる疑似環境をメンバーのために作る事のみが果たして本当の支援といえるのだろうか?

 

『かわいい子には旅をさせろ!?』(ちょっとちがうかな?)

言い換えると、支援しているようで、この人はこういう人なので、これを行っていれば安心。といったような情報を全て理解している人が隣に存在しないとメンバーは、社会と関われないということになりうる!?のではないでしょうか。

 

 

 

これは、メンバーにとって危機か幸運か?

 

 

 

私は、危機であると思う。そのメンバーを理解している人しか彼らと関わる事が出来ない。という結果に陥らないだろうか。これは、本当にメンバーが独立するための支援なのだろうかと自問自答する。

もちろんメンバーにとって安心できる居場所は必要であるし、信頼できる人は、私たちが暮らす中で何ともいえない心地よさを与えてくれる。日常生活の中で、決まった習慣や一日の流れがあることは、個々の生活をより自信をもって社会と関わるために必要だとも思える、、、。

う~ん。でも、大好きなメンバーには、安心して暮らして欲しい!+個々に独立できるような生活支援もしたい。

 

彼らの意思を本当に読み解く存在ってなんだろう。それは、周囲の人や支援者が限られた感情表現と意思表示を示す彼らの『メディア』になることではないだろうか?

では、よりよいメディアにというのは、どんな存在で、どうすればよいのだろう?彼らの意思表現と社会とをつなげるメンバーのメディア=支援者。音楽でいえば楽器が支援者で弾き手がメンバー見ないな関係かな~。メンバーが好きな曲を自由に弾けるような整った楽器になろう!

今のことろの答え:ケア現場にたつケア現場の人のための身体感覚つくりをしてみよう。メンバーが自分の意思を私たちの体を使って、さらに自分を表現できるように。スタッフは、自分の体をいつでもチューニングして、メンバーのための体つくりをしたらどうだろう?そんな、ケアする人のからだの時間をもてたらいいな~        

  

2011年5月



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