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本と音楽とねこと

女ぎらい──ニッポンのミソジニー

上野千鶴子,2018,女ぎらい──ニッポンのミソジニー,朝日新聞出版.(6.26.24)

ミソジニー。男にとっては「女性蔑視」、女にとっては「自己嫌悪」。皇室、婚活、DV、自傷、モテ、東電OL…社会の隅々に潜み、家父長制の核心である「ミソジニー」を明快に分析した名著。文庫版に「セクハラ」と「こじらせ女子」の二本の論考を追加。

 ミソジニーとは、男にとって、(女好きの)女ぎらい、女性蔑視のことであり、女にとっては、自己嫌悪を意味する。

 上野さんが、ミクロ・ポリティクスのなかにミソジニーを見いだしていく、その鋭敏さには類を見ないものがある。

 男たちよ、おまえたちは、目の前にいる個別の女に欲情しているのではなく、女とその属性を表象する記号に欲情しているに過ぎない。
 このことが理解されない限り、男という病──ポルノグラフィやら買春やらの問題は解消しない。

 女好きの男が女ぎらいだと言えば、矛盾して聞こえるかもしれない。ミソジニーという英語は訳しにくい。ミソジニーの代わりに、女性憎悪ということばもあるが、もし女好きの男がウーマン・ヘイティングだと言えば、読者はもっと面食らうだろう。
 「性豪」と呼ばれる男性を思い起こせばよい。かれらは「モノにした」女の数を誇るが、逆に言えば女と言えばだれにでも発情するほど、あるいは女体や女性器に、あるいは女性性の記号やパーツに自動反応するほど、条件づけされた「パブロフの犬」であることを告白しているも同然だろう。かれらが反応しているのは、女ではなく、実のところ、女性性の記号なのだ。でなければどんな女でも「女というカテゴリー」のなかに溶かしこんでしまえるわけがない。
 男性の自己省察の学問である男性学の成果のひとつ、森岡正博の「感じない男』[2005]には、「男はなぜミニスカに欲情するのか」、いや「自分という男はなぜミニスカに欲情するのか」という自問自答がある。ミニスカという記号に、それを身につけているのが女性であるか男性であるかを問わず(実は男性であることを知っていたにもかかわらず)反応してしまったフェティッシュな自分の欲望について、正直に告白する。フェティシズムとは換喩的な関係によって、欲望の対象が置きかえられる記号的な操作のことを言う。男の欲望は断片化された女の記号にたやすく反応してしまえるほど、自動機械のようなフェティシズムを身体化しているように見える。誤解を避けるために付け加えれば、フェティシズムとは、動物的なものではなく、高度に文化的なものだ。「パブロフの犬」でさえ、お約束を「学習」した結果なのだから。
(pp.12-13)

 男は、女を支配することで、自らの矮小な自尊感情を充たす。
 しかし、自らが支配しているはずの女に、とくに性欲の充足を依存していることが、彼らをいらだたせ、理不尽な女性憎悪を生み出す。
 他者を支配することに居心地の悪さなり嫌悪感なりを感じない、幼稚、未成熟な心性が、ミソジニーの根底にある。

 奥本大三郎[1981:162]は、吉行を「まぎれもなく女性嫌悪思想の系譜に連なる作家である」と書く。「しかし、女性嫌悪思想の持ち主というのは、どうしても女に無関心でいられないのが、その弱点なのである」とかれは付け加える。そして吉行に女性の読者が増えていることをさして、「何だか猟師の鉄砲に小鳥が止まったような具合である」と揶揄する。
 奥本は女好きの男のミソジニーをずばり指摘するが、その謎を解くなら、男性として性的主体化をとげるためには女という他者に依存しなければならないという背理に、かれらが敏感だからだ、と言うべきだろうか。べつの言い方をすれば、自分を性的に男だと証明しなければならないそのたびに、女というおぞましい、汚らわしい、理解を超えた生きものにその欲望の充足を依存せざるをえないことに対する、男の怨嗟と怒りが女性嫌悪である、と。
(p.14)

 男たちは、貨幣、権力、威信の獲得レースに血眼になる。
 まるで自らの序列上の位置に己の存在証明すべてがかかっているかのように。

 そして、男は、貨幣と権力になびく女を「所有(モノに)する」ことで、ホモソーシャルな男の内集団内での威信を獲得する。

 愚かなラットレースが続く限り、女(という記号)のモノ化、商品化、客体化、他者化は終わらないことだろう。

 貫かれること、モノにされること、性的客体となることを、べつの言い方で「女性化される(feminize)」とも言う。男性がもっとも怖れたことは、「女性化されること」まり性的主体の位置から転落することであった。
 ホモソーシャルな連帯とは、性的主体と認めあった者同士の連帯である。「おぬし、できるな」とはこの主体成員のあいだの承認を言う。「よぉーし、おまえを男の仲間に入れてやろう」という、盟約のことである。この主体成員のあいだでは、相互を性的客体にしかねないホモセクシュアルなまなざしは、主体のあいだに客体化が入りこむことによって「論理階梯の混同」を侵す結果になる。したがって性的主体のあいだで互いを客体化する性的まなざしは、危険なものとして、禁忌され、抑圧され、排除される。
 もともとホモソーシャルがホモセクシュアルと区別しにくいという事情が、この排除をことさらに苛烈なものにする、とセジウィックは指摘する。自分のなかにあるものを否認する身ぶりは、まったく異質なものを排除することにくらべて、よりいっそう激しいものにならざるをえない。かくして「あいつ、おかまかよ」という表現は、男のあいだでは男性集団の成員資格失墜を意味する、最大の悪罵となる。男に値しない男を男の集団から放逐する表現が、「おかま」――「女のような男」という女性化のレトリックをともなっているのは象徴的である。逆に、「おかま」が自分たちの集団に潜在していることの怖れは、自分がいつ性的客体化されるかもしれない、という主体位置からの転落の恐怖でもある。だから、男の集団のあいだでは、「おかま」狩りがきびしくおこなわれることになる。これを同性愛嫌悪と言う。性的主体としての男性集団の同質性を保つには、それが不可欠だから 
 かくてホモソーシャリティは、ホモフォビアによって維持される。そしてホモソーシャルな男が自分の性的主体性を確認するためのしかけが、女を性的客体とすることであ裏返しに言えば、女を性的客体とすることを互いに承認しあうことによって、性的主体間の相互承認と連帯が成立する。「女を(最低ひとりは)モノにする」ことが、性的主体であるための条件である。
 「所有(モノ)にする」とはよくも言ったものだ。「男らしさ」は、女をひとり自分の支配下に置くことで担保される。「女房ひとり、言うこと聞かせられないで、何が男か」という判定基準は今でも生きている。女を自分たちと同等の性的主体とはけっして認めない、この女性の客体化・他者化、もっとあからさまに言えば女性蔑視を、ミソジニーと言う。
 ホモソーシャリティは、ミソジニーによって成り立ち、ホモフォビアによって維持される――ここまでは、セジウィックがその卓抜な論理で、わたしたちに教えてくれたことである。
するだろう。
 以上をカタカナことばではなく、平明な日本語で言えばこうなる――男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた男と女とを排除し、差別することで成り立っている。ホモソーシャリティが女を差別するだけでなく、境界線の管理とたえまない排除を必要とすることは、男であることがどれほど脆弱な基盤の上に成り立っているかを逆に証明するだろう。
(pp.32-34)

 「ホモソーシャリティは、ミソジニーによって成り立ち、ホモフォビアによって維持される」。

 男にとっての異性愛秩序とは何か?それは男が性的主体であることを証明するための装置だ。異性愛の装置のもとでは、男と女とは対等な対にならない。男は性的欲望の主体、女は性的欲望の客体の位置を占め、この関係は男女のあいだで非対称である。異性愛秩序とは、男は同性の男を性的欲望の対象としてはならず、男でない者(つまり女)だけを性的欲望の対象としなければならない、という「命令」のことだ。裏返しに言えば、男によって性的欲望の対象となった者は、「男でない者=女」にされる。それが男であるときには、その者は女性化される、つまり「女のような男」とされる。ここでは「女」とは定義上、「男」の性的欲望の客体のことにほかならないからだ。したがって男の性的欲望を喚起しない女は、定義上「女でない」ことになる。
 ホモソーシャルな集団とは、このように「性的主体」であることを承認しあった男性同士の集団をさす。女とはこの集団から排除された者たち、男に欲望され、帰属し、従属するためだけに存在する者たちに与えられた名称である。それなら、ホモソーシャルな集団のメンバーが、女を自分たちより劣等視するのは当然であろう。
 女とは「男ではない者」に与えられた「徴つき」の名称であり、それは男に与えられたありとあらゆる美徳や名誉から差別化して、カテゴリー化されなければならない。女とは、男とちがって「勇敢でない者」「たくましくない者」「指導力や決断力のない者」「怯懦な者」「つつましい者」「無力な者」、すなわち「主体たらざる者」に対して与えられた名称であり、これらすべての「女らしい」属性は、男の支配の対象にふさわしくつくりあげられた属性だと言ってよい。
 だからこそ、異性愛秩序の核心に女ぎらいがあることはふしぎではない。なぜなら自分は女ではない、というアイデンティティだけが、「男らしさ」を支えているからだ。そして女を性的客体としてみずからが性的主体であることを証明したときにはじめて、男は同性の集団から、男として認められる、すなわちホモソーシャルな集団の正式のメンバーとしての参入を承認される。輪姦が性欲とは無関係な集団的な行為であり、男らしさの儀礼であることはよく知られている。
(pp.285-286)

 ミソジニー──女性蔑視は、女性崇拝と表裏一体である。

 男が男として性的に主体化するために、女性への蔑視がアイデンティティの核に埋めこまれている――それがミソジニーだ、と論じてきた。ホモフォビアもまた、女との境界をゆるがす不安への恐怖として理解できる。自分は「女のような男」ではない、と男は証明しつづけなければならないからだ。
 だが、このミソジニーにもアキレス腱はある。母である。自分を産んだ女をあからさまに侮蔑することは、自分の出自をあやうくすることになる。ミソジニーには実のところ、女性蔑視ばかりではなく女性崇拝というもうひとつの側面がある。これは矛盾だろうか?
 この矛盾が矛盾でないことを説明してくれるのが、性の二重基準(sexual double standard)だ。
(pp.47-48)

 性の二重基準とは、男向けの性道徳と女向けの性道徳とが違うことを言う。たとえば男は色好みであることに価値があるとされるが(吉行淳之介や永井荷風のように)、女は性的に無垢で無知であることがよしとされる。だが、近代の一夫一婦制が、タテマエは「相互の貞節」をうたいながら、ホンネでは男のルール違反をはじめから組みこんでいたように(守れないルールなら、最初から約束なんかしなければよい)、男のルール違反の相手をしてくれる女性がべつに必要となる。
 その結果、性の二重基準は、女性を二種類の集団に分割することになった。「聖女」と「娼婦」、「妻・母」と「売女」、「結婚相手」と「遊び相手」、「地女」と「遊女」・・・・・・の、あの見慣れた二分法である。生身の女には、カラダもココロも、そして子宮もあればおまんこもあるが、「生殖用の女」は快楽を奪われて生殖へと疎外され、「快楽用の女」は快楽へと特化して生殖から疎外される。この境界を乱す子持ちの娼婦は、気分を削ぐ存在だ。
(p.49)

 女をあるがままのただの女として受容することなしに、蔑視することも崇拝することも、女をめぐる貨幣、権力、威信の獲得ゲームに執心する男の欺瞞の現れでしかない。

 ヘテロセクシャルの男は、自らが女と取り結んでいる性関係が、児童性虐待者のそれと同質のものであるのかもしれないことに思いをいたすべきであろう。

 児童性虐待者は、少数の特殊な人々ではない。いな、数の上では少数でも実際には浮上しないだけで少数かどうかはわからない――かれらの経験は、けっして「特殊な経験」ではない。
 自分の欲望のために、同意を得ずに(すむ)無力な他者の身体を利用し、それに執着し、依存し、相手をコントロールしつづけようとし、その相手から自尊感情や他者への信頼や自己統制感などを奪い、あまつさえ相手がそれをのぞんでいると信じたがり、誘惑者に仕立てるという関係は、強姦やセクハラにも、DVにもあてはまる。それのみならず、そのまま異性愛の男女のあいだに、あてはまる。伏見が、「二十八歳、男性」の「少年愛者」と自分との差は「紙一重」であり、境界線が引けないと語るように、かれらの性欲、性行為、性関係は、限りなく「ふつう」の性関係に近い。「ふつう」のというのは、「男性支配的な」という意味だ。
(p.98)

 父が母に向けるミソジニーを内面化した女は、自傷的に自らのカラダを売る。
 父を侮辱し父に復讐するために。

 飯島は富裕な産婦人科開業医の娘として育った。権力的な父は「何かにつけて『だから女はダメなんだ』という言い方で母に対していた」。彼女にとって「女とは厄介な存在そのものであり、軽べつすべき下級の存在だった」。
 「おんな性を嫌悪し、おとしめる心は父によって造られ、母から娘にひき継がれる」[飯島2006:12]
 父親を嫌悪し、母親に批判的だったはずの娘は、長じてのち、「父に対する母の関係のひき写し」のような関係を、結婚相手とのあいだで反復する。
 「私を駆り立てたそもそものエネルギーは、自分の受けている性差別、性抑圧(中略)から抜け出たいという所にあったはずなのに、その中身は女忌避と男なみになることへの願望だった。(中略)自己への欠落感情が私を、憎しみへ、誤った向上心へ、同性に対する蔑視へ、そして性行為へと駆りたてた」「飯島2006:20]と彼女はふりかえる。
 こういう父に対する反発と侮蔑は、自傷系の「援交少女」こと、一〇代の売春少女たちのなかにも見いだすことができる。彼女たちは父親の世代の「客」を「父の代理人」として、その男たちの陋劣で卑小な性欲の対象に自身を供し、父に所属しながら父がけして汚すことのできない「娘の肉体」を、どぶに捨てるようなやりかたでかれらに汚させることをつうじて、父に復讐しているのだ。その「復讐」が「自傷」や「自罰」をつうじてしか遂行されないところが、絶対的に弱者である娘の選択肢の狭さなのだけれど。
 こういう機序を「否定的アイデンティティ形成」と呼んで、早くから指摘したのは、社会心理学者のエリク・エリクソンである。かれは、青年期の「アイデンティティ拡散症候群」のなかで、一部の少女が売春行為に走ることで、「何ものでもない自分」を──たとえ逸脱的であれ──罰されることによって「何ものかである自分」としてうちたてようと絶望的な試みをすることに気づいていた。そしてその娘たちの多くが、聖職者や教師など権威的で抑圧的な父親を持つ家庭の出身者であることにも。彼女たちは、自傷や自罰をつうじて、自分を無力化した父親にリベンジしていたのだ。
(pp.188-189)

 自傷行為としての売春は、自罰、他罰の両面で現れる。

 自発的な売春を自己処罰的な自傷行為として解釈する見方は、援助交際の少女の分析にも共通する。その解釈も、家族関係のうちにとどまる。父に愛され、期待された娘は、父に同一化しようとするが、父の娘はしょせん父の娘であって、息子ではない。自分が不完全な父にしかなれないことを知って、娘は父との同一化を妨げる女性身体を罰しようとする。この場合、売春は「自罰」である。他方、父に支配され、父を嫌悪した娘は、父に所属するはずの自分の身体をすすんで「汚す」ことで、父を裏切り、父にリベンジしようとする。この場合は売春は「他罰」である。だがこのような自罰も他罰も、娘自身の自傷行為をつうじて達成される。
 「父の娘」は、母の無力さや依存を嫌悪する。だが、母と同じ身体の持ち主である娘け母と完全な分離ができない。母の夫への依存が、母自身のセクシュアリティの封印から成り立っていることを知っている娘は、母の隠された欲望を読みとって、禁止を冒すことで母の欲望を代行的にかつ戯画的に果たそうとするが、それもまた母へのリベンジを意味している。九〇年代の援助交際の少女たちの背後に、二世代にわたる女性のセクシュアリティの抑圧を読みとったのも、速水由紀子だった。
 家庭のなかでもっとも弱者である娘の攻撃は、直接、強者である父や母には向かわない。弱者の攻撃はさらに弱く抵抗しない自分自身、なけなしの自分の領地、身体やセクシュアリティへと向けられる。息子の攻撃性が、もっと単純に他罰や他者への傷害行為へと向けられるのとは対照的である。こうして自分の身体をドブに捨てるように男にくれてやる性的逸脱(そのなかに売春行為も含まれる)は、摂食障害やリストカットなどの自傷行為と同じように解される。
(pp.222-223)

 買春男の、娼婦や愛人への心情、態度には、ミソジニー、恋愛への偽装、自らの財力と威信の誇示等が表れている。
 吐き気がするほど気色悪い。

 だが、娼婦の側にある憎しみとはべつに、男は娼婦を憎まずにいられない。桐野は同じように、主人公のひとりに言わせている。
 「体を売る女を、男は実は憎んでいるのよ。そして、体を売る女も買う男を憎んでいるの」〔桐野2006:下332]
 女を性器に還元しながら、その女に依存せずには自分の欲望を満たすことができない男の性欲の自縄自縛の構造を、だれよりも呪詛しているのは男自身だろう。
 このなかに男のミソジニーの謎のすべて──ミソジニーはもともと男のものだ──が含まれている。吉行淳之介を思い起こせばよい。女に深く依存しながら、そのことによって女を憎まずにいられない男。それが、まちがって「女好き」と思われているミソジニーの男だ。
 自縄自縛の呪詛を、男は娼婦に向ける。徹底的に利用しながら、その存在を公然と認めることができず、侮蔑し、嫌悪する。見たくないものを見ないですますように、半ばは必要悪と認めながら、隠そうとする。「慰安婦」制度を含めて、買春は、男にとってよほどばつの悪いものらしい。
 他方で、娼婦がカネのためにしか自分と交わらないことをとことん承知しながら、カネで買えない女の「情」をカネで買おうとする。娼婦の「身の上話」は、あまりにありふれた手管のひとつにすぎない。プロの娼婦は、セックスにセックス以外の物語を付加価値としてつけようとする。遊郭の「粋人」は、「遊女の恋」をカネで買う、という背理を生きる。このゲームに熟達しているのが、プロのホステスやホストだ。
 セレブの男は、高級コールガールを呼んだり、モデルやタレントの女をカネで買おうとするが、それも自分の性欲につけた値段と思えばわかりやすい。かれらは、付加価値のある女にしか欲情しない(と自分に言い聞かす)ことで、自分の性欲がタダの男の性欲とは違う(高級なものである)ことを、自分と他の男)に証明しようとする。
女の側から見れば、事情はもっとよく理解できる。自分を高く売るという点では、終身契約だろうが、一回契約だろうが、同じことだ。セレブ妻になりたいと思う女は、そのことで「男が女に与える価値」を過大評価していることになるし、過大評価しているからこそ、たとえDVに遭ったとしてもその地位を降りられない。降りたら最後、自分が何者でもなくなるとおそれるからだ。
(pp.236-237)

 女が、女を記号化し性的客体として他者化する男のまなざしから解放され、自己嫌悪をせずに生きる方途はあるのだろうか?

 女がミソジニーを自己嫌悪として経験しないですむ方法がある。それは自分を女の「例外」として扱い、自分以外の女を「他者化」することで、ミソジニーを転嫁することである。そのためには、ふたつの戦略がある。ひとつは特権的なエリート女、男から「名誉男性」として扱われる「できる女」になる戦略、もうひとつは、女というカテゴリーからドロップアウトすることで女としての値踏みから逃れる「ブス」の戦略である。いわば、「成り上がり」の戦略と「成り下がり」の戦略、と言おうか。
(p.249)

 しかし、これでは、女性たちが分断統治されるだけだ。

 上野さんは、なによりも、男自身がミソジニーから解放されるべきであると指摘する。

 だが、森岡の指摘する男性の自己嫌悪には、たしかに男性性の根幹に触れる深度がある。彼は男性性と暴力との結びつきを語るが、暴力とは恐怖という名の防衛機制を解除した他者身体との過剰な関係を意味する。それは他者身体との関係である以前に、まず第一義的に自己身体に対する暴力的な関係でもあろう。それは身体の安全を顧みない無謀さや勇気としてあらわれる一方で、アルコール中毒やドラッグ嗜癖のような緩慢な自殺としてもあらわれる。他方で身体への過度の配慮は、「怯懦」「女々しさ」「懦弱」など、「男らしさ」の欠如と見なされる。どちらにころんでも、男には「自己嫌悪」が待っている。男にとっては男であることも男でないことも、 どちらも苦痛に満ちた経験であるだろうことが、見てとれる。
 男性の自己嫌悪とは他者化した身体からのリベンジだ。そんな男性が、ミソジニーを超える方法はたったひとつしかない。それは身体を他者化することを止めることだ。言いかえれば、身体および身体性の支配者としての精神=主体であることを、止めることだ。そして身体性につながる性、妊娠、出産、子育てを「女の領域」と見なすのを、止めることだ。もし森岡のように男も「丸ごとの自分」を受けいれたいと思うなら、身体ぐるみの自己と和解することだ。身体の欲望とその帰結に向きあい、身体の変化につきあい、身体を介する親しみを貶めないことだ。身体はだれにとっても思うようにならない最初の他者であり、その他者の他者性を受けいれることは、身体を介してつながる他の存在を、支配や統制の対象としてでもなく、脅威や恐怖の源泉でもなく、丸ごと受けいれることにつながるはずだ。その「他者」の中心に女がいる。すなわち男が主体となるための核心に、「女(と女のような男)」の他者化と排除を置くことを止めることである。
(pp.298-299)

 まったく同感だ。

 男が、ホモソーシャルな内集団内でのつまらぬラットレースから降り、「男らしさ」の呪縛から抜け出すこと、そして女の身体を他者化することをやめること、それができない限り、ミソジニーの根絶はありえないだろう。

目次
「女好きの男」のミソジニー
ホモソーシャル・ホモフォビア・ミソジニー
性の二重基準と女の分断支配―「聖女」と「娼婦」という他者化
「非モテ」のミソジニー
児童性虐待者のミソジニー
皇室のミソジニー
春画のミソジニー
近代のミソジニー
母と娘のミソジニー
「父の娘」のミソジニー
女子校文化とミソジニー
東電OLのミソジニー1
東電OLのミソジニー2
女のミソジニー/ミソジニーの女
権力のエロス化
ミソジニーは超えられるか
諸君!晩節を汚さないように―セクハラの何が問題か?
こじらせ女子のミソジニー


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