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本と音楽とねこと

差異の政治学

上野千鶴子,2015,差異の政治学(新版),岩波書店.(6.27.24)

「われわれ」と「かれら」、「内部」と「外部」との間にひかれる切断線。ジェンダーにも、人種にも、「差別のない区別」はなく、必ずそこに非対称な権力関係が生じる。その力学を読み解き、フェミニズムがもたらしたパラダイム転換の意義と、今後の可能性を提示する。「“わたし”はなぜ社会学するのか?」との問いに答える「“わたし”のメタ社会学」も収録。

 女と男、ヘテロとホモとバイ、コーカソイドとネグロイドとモンゴロイド、天皇と国民、日本国民と外国人等々、わたしたちは、あらかじめ名指さられた非対称的なカテゴリーをもって、世界を認識する。

 しかし、それらカテゴリー間の差異は、必ずしも自明なものではなく、境界が不明瞭で連続的なものでしかない。
 そして、カテゴリー内での差異は、往々にして無視される。

 ジェンダーに限らず、差異化は必ず「われわれ」と「かれら」、「内部」と「外部」に非対称な切断線を引くことで、カテゴリー相互の間にも、またカテゴリーの内部にも、権力関係を持ちこむ。したがって、政治的でないような差異化は存在しない。「差別のない区別」のような一見中立的な概念も存在しない。
 だが差異の政治学の指摘は、すべての「差異」の解消という単純でユートピア的な帰結をも意味しない。差異が固定的な実体でも運命でもなく、差異化という日々の言説実践が権力関係を生んでいくこと、しかもその差異化には、ジェンダーだけでなく人種や階級など多様な切断線がありうることを知れば、経験の固有性の現場から、対抗的な政治実践を生み出すこともまた可能である。「個人的なことは政治的である」というラディカル・フェミニズムの直観が示した認識は、「ジェンダー」理論の洗練と展開のなかで「遠くまで」来た。わたしたちはそこに理論の力を見てとることができる。理論もまたひとつの規制的実践、そしてフェミニズムは、何よりも対抗的な言説実践だからである。ジェンダーを分析概念としたジェンダー研究は、今や「女性」を対象とした局地的なものではなく、ありとあらゆる分野に関わる領域横断的なものとなった。人間と社会に関わる領域で、ジェンダー化されていない領域はないからである。「女性」の存在する領域はもとより、「女性」のいない領域があれば、その「不在」が説明されなければならない。そうしたなかでジェンダー中立性を装った「中立・客観的」な公的領域こそが、批判の焦点となってきた。さまざまの領域でジェンダーから超然としたカノン(正典・典範)とみなされてきた「個人」「真理」「価値」「美」などの「ジェンダー非関与性gender indifference」そのものが、ジェンダー・バイアスを組みこんで構築されたものであることを、ジェンダー研究は次々に暴いていった。
(pp.34-35)

 ジェンダー、セクシュアリティ、人種やエスニシティの差別に抵抗することは、非対称的な差異化=カテゴライズの暴力に抗うことである。

 「わたしはわたし」であり、またそうであるに過ぎず、どのような非対称的な差異のカテゴライズも拒否すること。
 そして、自己も他者も、どこまでも連続的にしてインコメンシュラブル、共約不可能な個別性をもつ存在──しかもつねに変容していく流動的な存在であることを認めよう。

 わたしのレズビアン観は、レズビアンを名のる人々との接触が深まり、歴史的な経験が蓄積するにつれ、変化してきた。たとえばレズビアンにブッチとフェム(タチとネコ)タイプがいる時には、レズビアンもまた、「性別役割分担」を模倣するのかと思った。男装のレズビアンに対しては、レズビアンは女性性を嫌悪する存在かと疑った。だが、男装もせず、タチとネコの「役割分担」もしないレズビアンとの接触がふえると、異性愛の文化規範とはべつのセクシュアリティのあり方を認識するようになった。レズビアンの中にもSMもポルノもあることを知り、フェミニストのレズビアンもいれば、フェミニストでないレズビアンもいることを知った。
 掛札はこう書く。
     私は「レズビアンとはだれか」を問うことをやめ、「私がレズビアンのひとつの現実である」ということに気づき、それを表明する手段を手に入れたのだ。[掛礼1992:215]
 彼女の「回心conversion」は、フェミニズムが「女」を他者=男によって定義してもらうことをやめ、自己定義に置きかえたプロセスを想起させる。べつな言葉で言えば「私が誰であるかは私が決める」、つまり他者の眼から見て「女らし」かろうが「女らしくな」かろうが「私は女」であり、掛札の言葉を借りれば「私が女の一つの現実である」ということを自己肯定するための試みが、フェミニズムだったのである。そして女たちが口ぐちに自分の多様なセクシュアリティについて語り始めた時、「女とはだれか」をめぐる男仕立ての神話は、うち砕かれたのだ。
 「私がレズビアンのひとつの現実である」と言い切る掛札から、わたしたちは多くのものを学ぶ。掛札が同書の中で指摘しているわたしに対する批判の多くは、当たっている。それを率直に認めることができるのも、掛札のような存在が、わたしの眼の前にあらわれるからこそである。
(pp.308-309)

 非対称的なカテゴリーに名指された者を排除する心性を、ゼノフォビア(異質嫌悪)と言う。
 そして、ジェンダーにより分断された家父長制社会において、ゼノフォビアは男のホモソーシャリティーに由来しており、その現れが、ミソジニーであり、ホモフォビアである。

 わたしが嫌悪した二つのもの、ミソジニー(女性嫌悪)とホモソーシャリティー──異質排除のマッチョ志向、すなわちファシズムに至る病──この二つが、「敵は誰か」というときのわたしの敵であり、フェミニズムの敵であった。もしこのような敵をゲイ・スタディズとフェミニズムが共通の敵として持っているとすれば、わたしたちは同じ闘いを闘うことができるだろう。
 ゲイのあいだでは、敵はホモフォビア(同性愛嫌悪)だという言い方をすることがよくある。それに女性嫌悪がふかくからんでいるとすれば、もっと広義に男性同質集団のゼノフォビア(異質嫌悪)と言ってもいい。ホモソーシャリティを維持するための他者嫌悪、異端排除が敵だとすれば、ゲイとフェミニズムは「共通の敵を持つ」と言っていいかもしれない。ゼノフォビアが女に対して向けられるときはミソジニーになり、同性愛者に対して向けられる場合はホモフォビアになる。
 ホモフォビアやミソジニーが敵だというとき、その敵は決して自分の外部にだけあるわけではない。平野広朗は『アンチ・ヘテロセクシズム』[平野1994]の中で、上野はミソジニーを内面化している、そして自分のミソジニーを克服できないでいると批判したが、もしわたしがミソジニーを克服しました、と言えば、自己欺瞞にしかならないだろう。この女性嫌悪の社会で自分の女性性と一〇〇パーセント折り合いをつけて生きることは誰にもむずかしい。ミソジニーの克服とはそのつどのプロセスであって、このような社会で「わたしは一〇〇パーセント解放されて生きています」などという能天気な発言をわたしは信じない。「女だ男だなんてこだわるのはダサイ」と思っている女は、そういう言い方で自分を劣位の性だと認めたくない、というミソジニーを表現していることになる。差別が現にそこにあるのに、あたかもそれがない真空地帯に生きているかのようなふるまいは、無知でなければ、自己欺瞞か逃避というべきだろう。
 ゲイにとっても事情は同じであろう。ゲイの闘いとは、自分が内面化したホモフォビアとの闘いでもあるはずだ。フェミニズムは、まず何よりも女にとっての自己肯定のための闘いであった。この社会に生まれ育って、ミソジニーを内面化していない女はいない。フェミニズムは、「敵は誰か」と言うとき、「そこだよ、そこにいるよ」というふうに名指すことができるような安直な闘いを闘ってきたわけではなかった。
(pp.337-339)

 1980年代、青木やよひさんを中心に、エコロジカル・フェミニズムが注目されたことがあった。
 日本のエコフェミにおいては、男性優位の政治経済がもたらした環境破壊や戦争の害悪が批判され、女性がもつ(とされてきた)自然と調和し、ケアを担う心性が高く評価された。
 また、当時のエコフェミが、イバン・イリイチの、手厳しく近代産業社会を批判するあまりに前近代を過剰に理想化する、反動的な思想、それに多分に影響されていたことも忘れてはならないだろう。
 そして、エコフェミはケアリング・ソサイエティの議論として現在に継承されている。
 フェミニズムの歴史のなかで、女性の身体性、とくに母性(産み育てる性)を重視する思潮はつねに存在したが、ケアの評価がジェンダー本質主義に陥らないよう、注意が必要だ。

 フェミニズムが問題にしてきたことはたくさんある。ゲイ・スタディズと関わるところでセクシュアリティに問題をしぼると、フェミニズムもまた女のセクシュアリティを問題にしてきた。特にセクシュアリティの歴史的・社会的な構築を問題にしてきた。フェミニズムはアンチ・エッセンシャリズム(反本質主義)の立場をとっている。セックスが自然だ、セクシュアリティが自然だ、という言葉ほどフェミニズムにとって危険な言葉はない。
 だがフェミニズムの中にも多様性があるから、本質主義者にも事欠かない。そのあいだで論争もある。わたしの立場はフェミニズムのある部分にすぎず、フェミニズムを代表しない。わたしが日本のフェミニズムを代表なぞしたら、迷惑だと思っている自称フェミニストたちがこの日本にはたくさんいることはよく承知している。
 たとえば八〇年代のアメリカにキャロル・ギリガンという人物が登場した。ギリガンは『もうひとつの声In a Different Voice』[Gilligan1982=1986]という本の著者だが、「女らしさ」の文化的なエッセンシャリズム(本質主義)を唱えた。八〇年代バックラッシュのアメリカで、家族と母性の価値を見直そうとしていたフェミニストたちのあいだで、ギリガンの著書はベストセラーになった。日本では、それによく似た役割を「女性原理」派が果たし、八〇年代エコフェミ論争と呼ばれる青木VS上野論争があった[日本女性学研究会'85・5シンポジウム企画集団編1985;青木1986;上野1986]。その中でわたしが批判したのも「女性原理」に象徴される文化エッセンシャリズムである。セクシュアリティについても同じことがいえる。掛札悠子の『「レズビアン」である、ということ』[掛札1992]が出たとき、わたしは彼女の真摯な自己探求の問いに高い敬意を払ったが、結論部に至って彼女は「自然」という言葉を使う。セクシュアリティ研究にとって「自然」「本質」「本能」は禁句である。DNAもしかり。ゲイ・スタディズが本質主義に向かうとしたら、わたしはそれについても批判的でありたいと思っている。同性愛は自然だ、さまざまに自然なセクシュアリティの一つとして同性愛を受け入れてもらいたい、という彼女の発言を見たとき、ちょっと待てよ、と思った。フェミニストは女に強いられた強制異性愛を脱自然化するために、あれほどの努力、あれほどの闘いをしてきたのではなかったのか。そのプロセスの中で同性愛者自らが同性愛は自然だと言ってしまえば、わたしたちがやってきたことは何だったのか、ということになる。掛札に対しての批判がきびしかったとしたら、セクシュアリティについての知的な探求をともにやっていこうとする同志だと思っていた彼女のような書き手が、終わりになって安易な着地点にたどり着いたことに、ブルータスお前もか、という思い、つまり期待と信頼が大きかっただけに裏切られた思いが大きかったという、その気持ちが抑えられなかったのは確かであろう。
(pp.346-348)

 近代官僚制は「公私の分離」を原則とし、自営層の解体と被雇用者化、都市化は、職住分離というかたちで公私の分離をもたらしたが、女性が私的領域に囲い込まれ、プライバシー尊重の名の下で(私生活中心主義化!)、私的領域での暴力が意図的に見過ごされてきたことは忘れてはならない。

 職場でのセクハラも、女性を「公的領域の身体」として処遇せず、私的領域で黙認されてきた暴力が公的領域でも許されるという誤認に由来する。
 もちろん、私的領域での暴力も許されるものではない。

 フェミニズムは「私的なものは私的である」ということを覆すためにこそ「私的なものは政治的である」というスローガンを立ててきた。最近のフェミニズム理論はさらに一歩踏み込んで「私的な領域とは公的に作り出された制度である」と命題化する。セクシュアリティが私的な領域に属するということは、巧妙にしくまれた罠である。つまりセクシュアリティというものは、実際には公的にコントロールされていながら私的な領域に隔離されているために、あたかも公的領域の干渉から自由であるかのような見かけを与える、そういうダブルバインドな状況に置かれている。そのようなものとして女の身体もまた、公的にコントロールされていながら、私的な領域に隔離されてきた。女の身体が、私的な、すなわち性的な身体として公的に作り上げられてきたことを示すエピソードを紹介しよう。
 セクハラの問題について論議がかまびすしかった頃、田原総一朗が、三井マリ子との対談で、「女が職場進出するのは、男風呂に女がハダカで入ってくるようなものだから、セクハラぐらいは覚悟して当然だ」と発言したことがある。つまり職場という公的な領域に女性という私的な身体が「場違い」に入ってくることに対する困惑を、田原は「男風呂」の比喩で言ったのである。もちろん、女性の身体を私的=性的な身体と見なすのは男のまなざしである。したがってこの「困惑」は男の側の問題であって、女の問題ではないはずなのだが、彼はそちらのほうは問題にしなかった。女性の性的な身体は、女性にとってはそれから逃れることのできない、身体という牢獄であった。男のまなざしは女を性的な身体という牢獄の中に閉じこめてきたのである。その性的な身体という牢獄を、美の規範によって磨き立てるために、女性はエステに通ったり、痩せたり太ったりしなければいけない。
 カミングアウトの戦略とは、公的に構成されたものとしての私的な領域から、公的な領域に領域侵犯をすることで、カテゴリーを混乱させることである。だからこそ相手は「困惑」を示すのだろう。「私的なものは私的である」とすることでこの「困惑」を封じることほど、保守的な政治はない。ゲイの人々はカミングアウトでのカテゴリーの混乱を実践している。
(pp.351-353)

 本書も、ジェンダー・スタディーズ、必読文献の一冊だ。

目次

差異の政治学
セクシュアリティの社会学
歴史学とフェミニズム―「女性史」を超えて
「労働」概念のジェンダー化

「家族」の世紀
日本のリブ―その思想と運動
「リプロダクティブ・ライツ/ヘルス」と日本のフェミニズム

男性学のススメ
セクシュアリティは自然か?
ゲイとフェミニズムは共闘できるか?―アカーとの対話
複合差別論

“わたし”のメタ社会学


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