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孤立不安社会──つながりの格差、承認の追求、ぼっちの恐怖

石田光規,2018,孤立不安社会──つながりの格差、承認の追求、ぼっちの恐怖,勁草書房.(7.9.24)

人とつながっていても不安がなくならない。つながる機会の多さと裏腹に増してゆく不安。現代社会の孤立問題を多角的に読み解く。

 前近代の村落社会においては、身分と役割が固定されており、イエとムラにおける生存のための共同体慣行は、人間関係を選択する余地を著しく制限するとともに、共同体の成員それぞれに強い「承認」を与えた。
 こうした承認を、石田さんは、「同調的承認」と呼ぶ。

 近代社会においては、工業化、ポスト工業化、すなわち農業中心の経済社会から製造業、建設業、そして金融、サービス産業中心のそれへの変動が進行する。
 それは、自営業者とその家族従事者中心の社会から被雇用者とその扶養家族中心の社会への変動でもあり、人びとは、血縁、婚姻縁、地縁のつながりを喪失していく。
 その背景には、価値意識のとめどない個人化──他者との干渉的侵襲的関わりを嫌いプライバシーを重視する──があった。

 そして、石田さんの言う「獲得的承認」──自らの魅力資源で他者の役割期待に応え承認を得ていく──が求められる時代が到来する。

 人びとは、「獲得的承認」が得られずに、「孤立」することを強く怖れる。
 なぜなら、「孤立」は、自分になんの魅力もないことを自他に示すものであるからだ。

 学(校)歴、収入、資産、職業、乗っているクルマ等を自慢する人がいる。
 その者たちは、そのようなもので承認を得ようとする浅はかさ、浅ましさを、(わたしのような者に)バカにされているのがわからないのだろう。
 「実家が太い」という(聞いてもいないのに)わけのわからない自慢をする人もいるが、それは、その人が、獲得できる承認の資源をなにひとつ持ち得ていないことを示している。
 哀れ、である。

 学歴、職業、収入等ひけらかすの論外だとしても、承認の資源はそうした経済資本、文化資本、職業特性等により不平等に布置している。

 人びとの選択により成り立つ関係は、コミュニケーションの不透明さと同時に、もう一つの帰結をもたらす。すなわち、つながりの業績主義的選別を通じた格差化である。人びとが自らの必要性を軸に、関係を選ぶようになれば、相手の欲求を満たす資源をもつ人びとにつながりが集中し、そうした資源をもたない人びとは関係から排除される。量的データを用いた分析では、つながりの業績主義的選別の実態が明らかになった。
 学歴や収入に恵まれる人は、友人関係が豊富かつ多様なうえ、孤立に陥るリスクも少なかった。婚姻についても同様であり、学歴や収入の高い男性ほど未婚者、離別者が少なく、学歴の高い女性は離別者が少なかった。加えて、同類結婚の分析から、つながりの業績主義的な選別を通じて、新たな身分集団が形成される可能性も見出された。その一方で、下層の人びとは分断され、つながるきっかけを見失っている。
 「選択的関係」の主流化は、私たちの心に「選ばれない恐怖」を植え付け、つながり獲得の行動へと駆り立てる。その一方で、選択のなかに埋め込まれた“選別性〟は、「選ばれる資源」をもたない人びとを振り落としてゆく。かくして人びとは孤立の恐怖に取り込まれてゆくのである。
(p.76)

 他者の承認を得られず孤立した人びとは、自己決定・自己選択・自己責任でそうなったわけではない。
 孤立の責を自己に帰しさらに苦しむのは、不幸の極みである。

 第二章でも指摘したように、孤立者は、経済的資源や人的資源に恵まれない人が多い。失業→離婚→ホームレスのように排除が連鎖することは、社会的排除の研究では、もはや常識と言ってよい。諸資源に恵まれない人生を歩んできた人が、世の中に失望し、援助をもらっても仕方ないと考えるようになったとしたら、果たしてそれば正常な判断゙に基づいた、自己決定による゙援助拒否”と言えるだろうか。
 同じことは男性にも当てはまる。男性がもともと関係的資源に恵まれないことは、さまざまな研究で指摘されている(たとえば石田 2011)。その原因としてあげられるのが性別役割分業システムである。男性に競争社会=企業で勝ち抜く強さを求める性別役割分業システムは、彼らから弱さの表出や援助の表明といった手段を奪ってしまう。その結果、彼らは高い孤立のリスクにさらされる。関係からの忌避が性役割構造に埋め込まれているとしたら、果たしてそれは正常な判断による自己決定と言えるのだろうか。
 近年の自己決定(権)にかんする論考において指摘されるように、自己決定はきわめて社会的な概念である。人は真空状態で世の中に存在するわけではない。したがって、「決定しないこと」を含めて諸個人の物事に対する決断は、彼ら彼女らのおかれているさまざまな状況に規定される。自己決定の原理を絶対視しすぎると、自己決定の社会性は無視され、多くの決定があたかも真空状態でなされたかのような錯覚が引き起こされる。この錯覚は、諸個人にもたらされるさまざまな帰結は自己決定により導かれたものであり、その責任は決定の主体である自身が取らなければならない、という新たな錯覚を呼び込む。
 しかしながら、人は遭遇するすべての局面で、行動を選択決定しながら人生を歩んでいるわけではない。むしろ、流れに任せていたらいつの間にかそうなっていたということもあるだろう。人生の指針の提示を指向した「キャリア・デザイン」研究でも、節目において決断し、その後安定して流されてゆくキャリアが推奨されているほどだ(金井 2002)。
 自己決定の原理には、そのような隙間を許容せず、人生のすべてを選択決定のプロセスで解釈し、現状を自己決定の帰結=自己責任と捉える側面がある。そうなると、弱者に現状を甘受させ、強者に弱者の状況から目をそらせる装置として働いてしまう。つまり、自己決定の原理はブルデュー(Bourdieu 1979=1990)の述べる「象徴的支配」の道具として働く危険性があるのである。
 以上の事実に鑑みると、孤立を自己決定の産物と見なす姿勢は、人間の尊厳の確保どころか、特定の属性の人びとの社会的排除につながる危険を孕んでいる。したがって、私たちが人間の尊厳という観点から孤立死を縮小させたいと考えるならば、孤立をも自己決定・自己責任の問題として解消させる現代社会の仕組みにもっと目を向けなければならない。そうすることによって初めて、監視的側面での対応を超えた孤立死対策が見えてくるはずである。
(pp.100-101)

 石田さんは、『首都圏住民の仕事・生活と地域社会に関する調査』のデータにもとづき、親の社会経済的地位、本人の地位、親との関係が、現在の「孤立」(しているかしていないか)に影響していることを明らかにする。


(p.130)

 さらに、親の養育方法や自身の生活態度は、それぞれの社会経済的地位に強い影響を受けていた(グレーの矢印)。親の社会経済的地位は、子の養育に使いうる資源および養育方法の違いを生み出し、子の対人志向や生活態度に影響を与える。また、行為者自身の社会経済的地位は、彼ら・彼女らの生活態度に影響を与える。親または自身の社会経済的地位に裏打ちされた養育方法や生活態度は、結果して、行為者の孤立のリスクを拡大してゆく。
 かくして、孤立に対する根深く、重層的な排除の構造が明らかになる。すなわち、親子の経済資本(経済力)、人的資本(学力)に加えて、文化資本(養育指針、生活態度)が相まって、社会経済的地位の低い人びとを孤立に貶めてゆく。ここから、現代の孤立現象には、生活態度レベルにまでおよぶ象徴的支配がしみこんでいる、と言えよう。
(pp.130-131)

 これでも、「孤立は自己責任」と言えるだろうか?

 バリー・ウェルマンの「コミュニティ解放論」、クロード・フィッシャーの「(親族・近隣関係希薄化の)友人・知人補完説」は、ともに、都市住民の友人・知人との関係が選択的に取り結ばれ、脱地域化していることを明らかにするものであった。

 以上の知見から、郊外住民のサポート関係についてまとめてゆこう。郊外住民の近隣からのサポートの受領状況を見ると、彼ら彼女らの多くは近隣を頼りにせずに過ごしていることが明らかになった。日常の用事や病気の時のケア、相談を近隣に求める人は少なく、気晴らしの交流を行う人も半数程度である。また、日ごろ親しくし、頼りにしている家族・親族、友人・知人の布置を見ると、家族・親族は近隣に集中し、友人・知人は中距離に拡散していることが明らかになった。ここから郊外住民のサポート関係および「一定以上の濃密さをもつ関係」について、次のようにまとめることができる。多くの郊外住民にとって、地理的に近接した「一定以上の濃密さをもつ関係」は家族・親族にとどまる。「愛情」という純粋性に裏打ちされた家族・親族関係は、情緒面・道具面において、高いサポート役割を担っている。
 一方、「一定以上の濃密さをもつ関係」としての友人・知人は、地理的に拡散している。近隣の人びとは郊外の住民にとってサポート源でもないし、およそ四割の人びとは友人としても認識していない。第2節でも確認したように、「一定以上の濃密さをもつ関係」としての地縁は、互助関係、親密な関係のいずれの面においても劣化している。関係の選択化・純粋化が進んだ時代において、純粋性に裏打ちされた「一定以上の濃密さをもつ関係」は、住居をともにし地理的近接性も確保された家族・親族と、距離は離れても情緒的にはつながっている友人・知人とに棲み分けられているのである。したがって、そこに地縁が入る余地は少ない。
(pp.163-164)

 したがって、「地域ぐるみ」で孤立を解消しようとしても、その効果が薄いことは明らかである。

 以上の知見から、関係が選択化するなか、感情を基軸として結ばれるようになった「一定以上の濃密さをもつ関係」は、同居あるいは近場に住み全人的なサポートを提供してくれる家族・親族関係と、その外縁にあり、気晴らしや感情の共有を軸に成り立つ友人・知人関係によって構成されている。したがって、そこに地域や近隣の文字を見出すことは難しい。
 第1節で述べたように、高齢化の進展、単身世帯の急増、財政の逼迫により地域の互助に対する期待は年々高まっている。にもかかわらず、互助を期待しうる「濃密な関係」は、地域や近隣には見られない。つまり、孤立への打開策として、近隣に期待するのは難しいということだ。これが量的データで鳥瞰的にあぶり出された地域の実情である。
 私たちは、地域への目線を希釈化させ、個人の生活を優先するシステムに、もう数十年もつかり続けてきたのである。地域の人とつながらない選択肢が用意されるなかで、あえて煩わしいものとかかわろうとする人はまれだろう。(後略)
(p.166)

 マーク・グラノヴェッターの「弱い紐帯の強さ」学説の検討も興味深い。

 Sさんの事例と同様に、Mさんにも孤立からの脱却のきっかけとして、弱い紐帯の働きかけがあった。弱い紐帯は、強い紐帯ほど行為者のことを知らないからこそ、ふだんあまり見られたくない面を見せることができる。「相談」というと、一見すると、強い紐帯が重要な役割をもつように感じられるが、強い紐帯であるがゆえに、相談できないケースも少なくはないのである。
 人間関係が選択化してゆくなか、私たちは関係を選ぶ自由と引き換えに、選ばれる責任を負うようになった。選ばれることを意識する私たちは、゙自らを選んでもらいたい゙強い紐帯に対してほど、見栄を張り、本音を出せなくなる可能性がある。弱い紐帯の問題解消効果は、今後、さらに大きな力を発揮しうると考えられる。
 しかしながら、弱い紐帯といえども、そう簡単に出会えるとは限らない。Sさんのように積極的に出かけていける人ならまだしも、孤立する人の行動力は総じて弱い。行動力が弱っているからこそ、孤立しているとも言えよう。
(p.222)

 生活に、人生に行き詰まった人が、「助けて」と言えないのはなぜか、それが、「強い紐帯」しかもちえていないゆえとしたら、「弱い紐帯」をつくり出すための仕掛けを、地域社会、学校、職場等でつくっていくことが期待される。

 本書は、学術研究と日常的な問い、実践とがうまくつながった良作と言えよう。

目次
はじめに
序 章 孤立不安社会の到来――個人化の果てに
 1 孤独・孤立を不安視する社会
 2 「選択的関係」の主流化と孤立不安社会
 3 つながり格差の発生
 4 自己決定と関係性の再編
 5 私たちの人間関係
 6 本書の構成
第1部 選ばれない不安
第一章 選ばれない不安、毀損される承認――婚活を事例として
 1 私たちの人間関係――序章を振り返って
 2 変わりゆく承認
 3 承認の獲得としての婚活
 4 コミュニケーションの当惑
 5 婚活の明暗
 6 婚活の果てに――承認獲得競争の顛末
第二章 つながり格差の時代――迫り来る孤立の恐怖
 1 格差化するつながり
 2 人間関係の効用
 3 つながり格差の実態 1――恵まれる上位層、排除される下位層
 4 つながり格差の実態 2――同類的集団の形成
 5 「選び、選ばれる関係」の不透明さと恐ろしさ
第2部 選ばせられる孤立
第三章 孤立と自己決定の危うい関係
 1 孤立する自由と不安定化の狭間で
 2 孤立死とその対策
 3 孤立者を支援することの難しさ
 4 孤立死をめぐる自己決定問題
 5 孤立と自己決定の複雑な関わり
 6 孤立死問題への対応と善き社会に向けて
第四章 私たちの人間関係にひそむ象徴的支配
 1 孤立を促す生活態度への着目
 2 自己への関心と親による面倒見――分析モデルの提示
 3 分析に用いる変数
 4 自己への関心、親による面倒見は孤立と関連するのか――計量的分析
 5 孤立をめぐる重層的な排除――本章のまとめ
第3部 つながりづくりの困難
第五章 つながる地域は実現するのか――地域社会の関係性
 1 つながりを望まれる地域
 2 研究のなかでの地域のつながり
 3 量的調査から見る地域のつながり
 4 現代社会の近隣関係
第六章 なぜ私たちはつながらないのか――都市郊外の研究から
 1 コミュニティの十字架を背負って
 2 郊外都市多摩市の概要
 3 コミュニティセンターの概要
 4 住民が織りなす「コミュニティ」
 5 つながる地域を実現するために
終 章 孤立不安を越えて
 1 これまで見てきたこと
 2 孤立からの脱却――弱い紐帯再訪
 3 孤立不安社会からの脱却
補 論 SNSとつながり――ケータイ、スマホによる「自由からの逃走」
 1 情報通信機器と人間関係
 2 「選択的関係」の主流化
 3 常時接続の時代
 4 グレーゾーンの撤廃
 5 これからの関係性
あとがき
文  献
索  引
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