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本と音楽とねこと

愛と性と存在のはなし

赤坂真理,2020,愛と性と存在のはなし,NHK出版.(6.16.24)

 性的マジョリティは存在しない。
 われわれはみな性的マイノリティである。
 ヘテロセクシャルの者も含めて。

 なるほど、そうなのかもしれない。

 性別違和とは、「身体の性別とこころの性別が一致しない状態」である。

 赤坂さんは、MtFの友人の複雑な性自認とセクシュアリティのありようを例に、そのようなナイーブな認識に異を唱える。

 複雑で同定できないものをありのままに捉えること。
 それが多様性(を認める)ということなのだろう。

 家父長制の時代、子孫を残すためのセックスは強制であり、そこに愛はなかった。
 愛が尊重される時代になって、暴力と親和的なセックスは敬遠されるようになり、性愛からの退却、ひいては少子化がとめどなく進行する。

 赤坂さんは、このことをインド人との会話から気付く。

 暴力が忌避されるのは良いことである。
 しかし、それが、性愛からの無限後退を帰結するとしたら?
 答えが出る問題ではない。

 暴力によるカタルシスに救われる人もいるのだという。

 彼女は言った。
 「セックスって本当はたいそうなことで、なかなかできないこと。誰にとってもなかなかむずかしい。それでセックスの代わりにいろいろする人たちがいる。そうしないと、セックスができない人たちが多い、とも言える。本当はすべての人にとって、セックスってむずかしいと思うのだけれど、そこをすごい強度で突破しないとだめな人たちがいる。それはひとことで言えば家族に由来する。
 セックスに極端なところがあるような子は、親がとんでもないか、しっかりしてるか、どっちか。成長過程のどこかで罪悪感や縛りを持たされる。虐待などとは限らない。抑圧でもなんでも、子どもは大人が悪いなんて思えないから、自分が悪いんだと思う。そこで存在に罪悪感を抱え込む。自分は存在する価値がない、って思う。その強固な殻を壊さなければ泣けもしない、という人たちがいる。泣くまで痛めつけられて、初めて感情が出せて、それを出してくれた人を尊く思う。感謝する。場合によっては愛する。本人を見ながら加減しながら痛めつけてくれてたってことは、痛みや暴力はコミュニケーションだったわけ。つながれたという実感が持てる。それはすごい安心なの。問答無用で従える相手に哀願するというのは、生きていることを許される喜び。
 すごい壁を壊せた後に、ものすごい快感とカタルシスがやってくる。許された感じがする。そういう仕組みなの。解放され、許された感じがする」
 もしかしたら、ものすごい量の感情解放は脳が処理しきれなくて、脳が強い性的快感と認識してしまうのかもしれない。痛みが直接快感ではないのに快楽と結びつくというのは、そういうことではないだろうか、とわたしは思った。
(pp.210-211)

 近代家族を形成したロマンティック・イデオロギー──愛、セックス、結婚を三位一体のものとみなす観念──は、その支配力を喪失した。

 人間が希求して止まない、他者との親密な安心できる関係性、刺激に充ちた、ときにはあからさまな暴力さえともなう関係性、この両者は、併存することができないものなのかもしれない。

 それよりはわたしは、セックスの相手を簡単に替えてしまいたい、と思ったことがある。親密な関係の中でひとつひとつをゼロから話し合ってつくることより。時に愛をとるよりセックスを。相手を替えて刺激を得たほうが早いと思ってしまう。
 セックスと愛を切り離そうとする。
 セックスはいつも、親密さと刺激のはざまにある。愛と刺激のはざまで揺れ動く。
 刺激が勝つと、愛を捨てかねなかったりもする。
 あきらめてしまう。性と愛の交差するところで相手をとらえることを。その魅力のすべてを、人間の可能性を、知ろうとすることを。
 それは愛の可能性を狭めることだが、忘れて、できればふつうの枠におさまりたい。
 愛の可能性を忘れてまで、人は、できればふつうの枠に収まりたいと思う。
 ふつうの枠におさまることで、不問に付される数々のメリットを享受する。なんということだろう。
 しかもごくふつうに。
 そうして自分の中の愛の可能性を殺してしまう。
 それよりは、手っ取り早く欲情したいと思ったりする。
 愛と欲情を切り離す。
 もともとずれていたんだし、と。
(pp.226-227)

「愛と性と存在のはなし」

誰もが、性的マイノリティである
「男/女」と単純に分類しがちな我々の性は、とても繊細で個別的だ。
だが今性を語る言葉は、あまりに人を対立させ、膠着させるものに満ちている。
巷間言われる「LGBTQをはじめとする性的マイノリティの多様性を認めよう」ではなく、
「そもそも性的マジョリティなど存在しない」という立場から
セクシュアリティとジェンダーをめぐる言説をあらためて見直すと、この社会の本当の生きづらさの姿が見えてくる――。
草食男子、#Metoo、セクハラやDVから、映画『ボヘミアン・ラプソディ』の大ヒット、さらには戦後日本と父性の関係まで。
『モテたい理由』『愛と暴力の戦後とその後』などの評論で、この国の語り得ないものを言葉にしてきた作家が、
具体的なトピックから内なる常識に揺さぶりをかけ、いまだ誰も語り得ない言葉で新たな性愛の地平を開く、全霊の論考。

目次
序章 マジョリティという幻
第1章 敗戦と父の不在
第2章 女性優位の言語空間
第3章 草食男子とは何者か
第4章 愛の不在、性の不在
第5章 未だ言葉がない苦しみのための言葉
終章 女と男から生まれた、すべての存在に


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