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本と音楽とねこと

<性>なる家族

信田さよ子,2021,<性>なる家族,春秋社.(7.5.24)

ブラックボックスの蓋を開く。語られることなく置き去りにされたものの中に、家族の本質はある。性虐待からDV、セックスレス、不妊治療、セクハラまで。カウンセリング経験をもとに、性にまつわる力関係を読みとく渾身の論考。

 性虐待の多くが、家族も含めたドメスティックな私生活領域で起きる。

 加害者は、実父、継父、祖父、叔父、伯父、兄たちである。

 性虐待被害の最大の問題は、家族という聖域(化された場)において、加害-被害の事実が隠蔽化され、加害者の被害者への応答責任が果たされていないことだ。
 被害者が、性虐待ゆえに、ときには生涯にわたって苦しみ続けることを考えると、あまりに理不尽である。

(前略)多くの小児性愛者は、自分の子どもを対象にしないと言われるが果たしてそうなのだろうか。
 これらの疑問に対する一番確実な答えは、当事者の説明によって与えられるはずだ。「かわいがる」快楽に満ちた行為がゆめゆめ罪になるとは思いもしなかった多くの父親たちに、監護者わいせつ罪による被告として自らの行為を説明し叙述してもらいたい。それを説明責任と呼ぶ。彼らが語ることが、わけもわからず言われるまま従い、時には協力さえしてきた女性たちの「被害」に対する、ひとつの責任のとり方となるのである。
 性虐待の被害の深刻さが指摘されるが、その理由のひとつは被害者が「加害者像」を結べないことではないか。社会に適応している父親と、自分にあのような行為をした父親との乖離を埋めることができないのだ。
 いっぽうで、加害者自身は乖離することなく自身を統合できているのだろうか。そんなことを考えずに生きられるとしたら、彼らの価値観・家族観はどうなっているのだろう。価値観というほど高級なものではなく、家族は自分にとっての完全なる解放区であり、何をしても許されると考えているだけなのかもしれない。
 そんな解放区が許され与えられるはずがない。何をしても許されるのは、親によって庇護された子どもだけである。経済的に妻子を養う見返りに好き放題をするとしたら、それこそ妻や子どもの奴隷化ではないだろうか。その意味でも加害者を「バカな男」と周縁化するのではなく、彼らに語らせることが必要かもしれない。おそらく「当たり前」の世界でやった行為を言語化するのは難しいだろう。それでも、それが娘にとってどんな影響をもたらしたかを知った上で、きちんと説明すべきなのだ。それは、裁判における被告の証言が、被害者にとっては不可欠なのと同じである。彼らがなぜあのような行為をしたのかについて説明がなければ被害経験を言語化できず、被害者が自らの経験を整理できなければ、ケアも援助も始まらないのである。
(pp.48-49)

(前略)そのようにしてしか混乱を生きられなかった彼女たちが、精神障害者としてさらなる差別・偏見に晒されて、家族の世間体を守るために病院で生涯を終えたことを思うといたたまれない。父・兄・叔父・伯父・祖父にすれば、自分のものである彼女たちをどうしようが、彼らの裁量に任されているのだから、かわいがりの延長で弄んだに過ぎない。愛情というカテゴリーに入れることで自身の中で整合性が保たれ、行為を容易に「忘却」できてしまう。過去を忘れて未来に生きる父と、過去に引きずりこまれたままの娘。このような加害者と被害者の圧倒的非対称性こそが、性虐待の残酷さだと思う。
(p.52)

 しかし、人間以外の霊長類の社会においても、インセスト回避の傾向があることはよく知られている。一九世紀末の人類学者であるエドワード・ウェスターマークによるインセスト回避に関する説も実に興味深い。彼は、育児にかかわったり一緒に育った経験(親しさ)をもつ異性に対しては、思春期以降に性的な交渉を避けるようになる。このことがインセスト回避を引き起こす要因になっていると考えた。これがウェスターマーク効果と呼ばれる現象だ。
 重要なことは、サルたちには生まれつき血縁を認知するような能力はないということである。生後、子育てを通じて親と子の関係が生まれる。そして親子関係は、実際に血縁関係がなくても、子どもの性的成熟にしたがって交尾を回避するように働くのである。
 ここにあるように、サルにおいては育児行動を通じて形成される親しさ、同胞としてともに育つ親しさこそが、インセストを防ぐのである。
 これがそのまま人間に応用できるかどうかわからないが、幼い子どもの育児にかかわること、また、いっしょに「親しく」育つことが親から子へ、兄から妹への交尾を抑制するとすれば、近年のワンオペ育児に象徴されるような父親の子育て時間の乏しさが、父による性虐待の促進要因になるといえないか。またいっしょに育つことで交尾回避が促進されるなら、同胞間の情緒的つながりがあるほど、兄や弟からの性虐待の要因を遠ざけることになるのかもしれない。家族の関係性が親しさの対極である支配に貫徹されていることも、インセストのリスクとなるだろう。ひいては、女性がもっぱら育児を担い、男性は仕事に励むという性別役割分業、また性別によって教育方針を区別する子育て、つまり、「ふつう」とされる近代家族の構造そのものが、ウェスターマーク効果説によれば、インセストを発生させるリスクをはらんでいるのだ。
(pp.58-59)

 たしかに、子育て役割を放棄した父親が、娘と、インセストを防ぐ効果をもつ「親密な関係」をつくらないことが、性虐待の原因となる、そうしたこともあるのかもしれないが、もっと大きな問題は、近親者が、「性的侵襲」を「愛情」ゆえのものと合理化し、グルーミングの果てに性的虐待をしてしまうことにあるのではないだろうか。
 加害者は、「性的侵襲」が「愛情」ゆえに正当化されるものではない、自らの行為が周りに知られた場合、罪を咎められるかもしれない、そうした意識はもっているのであろう、彼らは、自らの加害行為を、しばしば、見事に「忘却」してしまう。
 しかし、「やった方」は忘れることはできても、「やられた方」は、いつまでもその記憶に苦しめられ続ける。

 性虐待は、「抑えきれない性欲」から引き起こされるものではない。
 性加害者は、狡猾に、計画的にターゲットを性搾取する。

 私は性加害者のカウンセリングをとおして、また、性犯罪者処遇プログラムの検討委員の経験から本能・衝動説は間違いであると改めて痛感する。性欲というものは社会・歴史的に変化してきたのだ。
 生身の彼らの話を聞いても、本能からはほど遠いものが見えてくる。目標設定、そのための戦略の練りこみ、実行のチャンスをうかがっていった、まるでビジネスを語るかのような言葉を伴う一種のアチーブメントとして性犯罪が浮かび上がるのだ。
 小児性愛者であれば、すでに職業選択からそれは始まっている。子どもと接触の多い職業(幼稚園バスの運転手、幼児教育関連職、塾の講師、小学校教諭、街の駄菓子屋、公園で釣りを教えるおじさん、など)を視野に入れているのだ。世の中からは批判されるどころか、時に尊敬される立場であることは言うまでもない。社会的には子ども好きのやさしいおじさん、お兄さんである
(p.70)

 年長の男性が家庭内で圧倒的な権力をふるう家父長制の下では、より子どもが性虐待の被害者となりやすい。

 家庭外(社会内)で行われている性犯罪は何度も成功体験を積むことによって成立していると書いたが、父(時には兄、祖父など)の性虐待には別の視点が必要だ。対象を変えながら行われる社会内の性暴力は、被害児の数は膨大なものとなる。しかし性虐待の場合は、同じ対象に繰り返して行使されるのである。こう書いただけでも性虐待がもたらす影響の深刻さが理解できるだろう。
 生活をともにする幼い子ども(時には妹や孫)に対しては、何をしてもかまわない。性的関心を抱きそれを実行しても許容される。なぜなら自分は父(兄、祖父)であり、より強い立場にあるからだ。力の非対称性(自分は上で相手は下)に貫かれているのが家族だという価値観をもっていなければ、そもそも最初の行為は生まれないだろう。娘(妹・弟・孫)は嫌がっている様子もないし平気な顔をしている、自分のしたことは周囲に知れることもない、二人だけの秘密だ、という暗黙の合意もできている。今夜はお風呂で、明日は皆が寝静まってから秘密めいているがゆえに快楽に満ちた行為は粛々と行使されていく。
 家族の中の力の弱い者を自分の思い通りにしてもいいという考えは、家父長的信念ともいえる。家族は力における上下関係(ヒエラルキー)によって構成され、優位な存在は劣位の者を支配してもかまわない、なぜなら家族を支えるのは自分の経済力なのだから。明治以降脈々と続くこのような考え方は、二一世紀になってぐんとソフトに変貌したけれど、現在までその根幹は変わらないままである。だから、もっとも劣位に位置する女児は、優位である男性(父・兄・祖父)に性的に支配される危険性が一番高いのだ。
 性虐待加害者もまた、市民社会においてはレイプをするような人間ではなく、仕事を通じた人間関係ではセクハラも行わず、妻に対して目立ったDVを行使するわけでもない。彼らは決して粗野ではなく、常識人であり、時には仕事もできて尊敬さえされる。しかし最も無抵抗で、一切の批判的眼差しを自分に向けるはずのない存在である自分の子ども(妹・孫)に対してだけ、かわいがりの延長としての性的接触を試みるのである。
 自分の子ども(妹・孫)にだけ限局された性的行動は、妻に対する性行為とは異なる。完全に支配し尽くせる対象への支配なのである。それを人は「狂った」「鬼畜のような」「人間じゃない」という形容詞とともに表現するが、激しい言葉はその行為の機序を見えなくする危険性がある。そこに見るべきは、家父長制のひとつの典型ではないだろうか。あからさまな権力行使ではなく、家庭の外では過剰なほどに規範的でいい人で、妻に対しても”゛あるべき夫婦〟という規範を守っている。いばりくさるような粗雑な男より、はるかに自分の方が優位だと考えている。彼らの考える男らしさは、ノブレス・オブリージュ(権力の保持には責任・義務が伴うという概念)に近い。
 権力の最高位にある者は、孤独である。そんな彼らをもっとも安心させ癒してくれるのが、もっとも劣位に位置する幼女なのである。すべての規範の外部にいる無垢な存在こそ、彼らが求めるものなのである。誰からも尊敬される父が、同時に娘の性虐待加害者であることは珍しくないのだ。
(pp.73-75)

 「色好み」の男は、過度に女性に依存せざるをえないがゆえに、女を憎む。
 そして、女から自立できない幼稚な男の心性を、ときとして女が利用する。
 「奴隷」が「子ども」を支配する、このグロテスクな構図を、信田さんは、巧みに描ききる。

 妻(女性)に依存しなければアイデンティティ確保が困難であるという男性の脆弱性は、攻撃的ともいえる性行動や買春、少女愛的性嗜好を駆動させるものと通底してはいないだろうか。風俗という金銭授受を伴う完璧にフィクショナルな世界や、少女という受動的な対象を相手にしていればプライドは傷つかず、彼らは守られながら安心して性行為ができるのだ。
 妻は決して夫の神話を壊そうとはしない。それは最大のタブーだからである。むしろ演技することで夫の脆弱な自信を支え、夫を保護する存在になるのだ。妻は時に、やせがまんのように言う。「男は手のひらで転がせばいいのよ」。この日本中に広がっている民間伝承的な格言は、女性たちの「自分が男を動かしている」という権力意識にもつながる。脆弱性の保護を女性が担うということは何を意味するのか。そこから生まれるのは、踏みつけにされ蔑まれた存在による、「男たちを生かしているのは私たち女だ」という転倒した支配意識である。
 しかしそれは、なんとみじめで悲しい自己満足なのだろう。抑圧された奴隷のような存在が自分こそが支配者なのだと信じるのは、鬱屈した日々を生きていくためのひとつの信仰なのかもしれない。
(pp.100-101)

 性暴力やDVの被害者は、加害者を嘲笑し軽蔑することで、正気を保ち、精神的に優位に立てる。
 信田さんの言葉の、なんと力強いことだろう。

 いっぽうで、離れたいと思いつつも、当面同居するしかない苦渋の選択をした女性もいる。彼女たちにとっての課題は、夫と暮す中でどうやって押し潰されずに、人間としての尊厳を守って生きるのかということである。私はそんな彼女たちにいつもこう伝える。「最大の武器は軽蔑である」と。松浦の言葉をもじれば、「嘲笑せよ、DV夫は妻を侮辱できない」ということだ。
 私の提案を受けた彼女たちの思いを代弁してみよう。
 「夫のDVでうつになったり、恐怖で硬直することもあった。しかしあの夫の言動によって支配され尽くす自分ではない。夫の頭の中を占めている、底の浅い家父長的言葉なんてすぐに暗記できるくらい単純だ。家父長的という言葉すら、たぶん夫は知らないだろう。そんなスカスカの頭の中を私は心底軽蔑している。金を出さないと言い、いくら経済的制裁をしようとしても、私の頭の中までは支配できない。DVに関する歴史的知識や構造、さらにジェンダー概念など、夫は逆立ちしても理解できないし想像外の世界なのだ。怒鳴り、物を投げ、時には蹴りかかってきたら、その瞬間は凍りつき震えるかもしれないし逃げるかもしれない。だが、それは生命維持のための正しい行動なのだ。しかし心の中では「へこたれない、くたばらないためにせせら笑う」私でいるのだ」
 松浦や私が述べる「嘲笑し軽蔑する」ことは、強制収容所で正気を保つための知恵に似ている。性暴力とDVは、被害者の価値観や尊厳まで支配し尽くすほどのインパクトをもっている。だからこそ、被害者は知識で武装し、プライドを死守しなければならない。加害者を嘲笑し、軽蔑するためにも。
(pp.138-139)

 セクシュアリティの発現に、権力とカネを介在させないこと──なぜならそこに支配と隷属の関係をつくることになるから──、この原則は、ドメスティックな私生活領域においても、いやそこにおいてはなおのこと、貫徹されなければならない。

 娘は何故いやかをわざわざ解説しなければならないのだろうか。父親は親愛の情を示すために、すでに性的成熟を遂げている娘の身体にどうして触らなければならないのか。
 娘、時には息子に対して、家族は無性化されていなければならない。笑いによって誤魔化されてきたが、それらは子どもにとって一方的に侵入される経験である。自分の身体が親によって勝手に侵襲されてしまうという感覚は、子どもの尊厳を奪う。それでも抵抗できず笑わなければならない身になってもらいたい。父親は好き放題しているだけなので性的侵襲をしている自覚などない。自分が経済的に支えているから好き放題が許される、と考えているなら、まさにそれは植民地主義であり、買春の行動そのものではないか。自分が使ったコップで娘に水をわざと飲ませてニヤニヤ笑う父に、どう説得したらいいのだろう。彼らの「イノセント」な姿を見るにつけ、女性は数でまとまり被害体験をシェアする必要があると強く思う。子どもを傷つけたらまずいという意識が少しでも生まれれば、性的侵襲をめぐる現実は少しずつ変わっていくだろう。
(p.160)

 性虐待サバイバーは、しばしば、自罰的、自傷的に性行為を繰り返す。
 しかし、それは、根本的なトラウマの克服となることはない。

③もうひとつは、ほんとうは私が悪いのだ、という認知である。ミユキさんは「自分が悪い」ことを証明するために、さまざまな自罰的な性行動が起きていたことを回想している。女性の「性依存」と呼ばれる行動のかなりの部分が、このような背景をもっていると私は思う。女性の奔放な性行動を、性的欲求の強さと結びつける見方が多い。しかしその陰に、性被害が潜んでいるかもしれないのだ。彼女の自傷的で自罰的認知が、自分を傷つけるような性行動に向かわせるのではないか。女性の(時には男性の)性依存症を性被害と関連づける必要があると思う。
(p.171)

 信田さんの叙述は、性虐待、性暴力被害の深刻さを、深く克明に描き出す。

 もうひとつの近接度は、性虐待そのものが子どもの身体への侵入であるという視点と関係する。手の指で、足指で、舌で、時には性器で加害者は子どもの身体(性器、口など)に入り込む。中には侵入のもたらす影響を計算し(自己保身のためレイプにならないよう)、身体を触らせたり、自分の性器を触らせたりする。
 相手との距離が近いだけでなく、むしろ相手が入ってくる(距離はマイナスとなる)ことによる影響をどのように考えればいいのだろう。もっとも近しい存在(肉親)が自分の身体に侵入したこと、これは外界との境界である身体そのものに加害者が侵入してしまったことを意味する。同意や合意といった判断力が形成される以前にすでに侵入されている場合(その意味するところを事後的に知るのだ)、自分の身体を加害者(相手)から分化させるにはどうすればいいのか。
 性虐待のみならず性暴力すべてが、近接度の点で他の犯罪と大きく異なる。殴られる、刃物で刺される、といった瞬間的な暴力ではない。侵入する暴力は女性(時に男性)被害者にとって自分の身体と加害者の身体との境界を破壊されることであり、相手を否定することは自らの身体を否定することと同義となる。人間関係の距離がうまくとれないことは、さまざまな問題をひき起こすことになるが、性虐待の被害は、対人関係における距離感を根底から歪ませるのではないか。
(pp.180-181)

 絶対に許されない性虐待が、ドメスティックな私生活領域においていまもなお横行している現実を、わたしたちは直視すべきである。

 水面上に顔を出したレイプと呼ばれる行為の下には、子どもにとってもっとも重要で命を委ねた存在である監護者による性暴力が潜んでいる。そのはるか下の深海では、決して娘にレイプなどせず、笑いとともに「かわいがり」と不可分な状況で行われる、膨大な数の性暴力(性虐待)の世界が広がっているのだ。水中深く行われるこれらの行為は、これまでほとんど言語化されなかった。閉ざされた空間である家族は、まるで水中のような世界だ。家族にまつわる強固な幻想によって父親(加害者)たちは守られる。何をやっても「かわいがっている」ことになり、それを告発すれば娘は過剰反応だの嘘だのと責められ、彼らは正当化されてきたのである。
(p.195)

 溺愛するとか、可愛がるといった言葉で覆い隠されてきた、性的侵襲とその深刻な害悪について、本書は余すところなく明らかにしてくれている。

目次
第1章 性虐待の背景にあるもの
娘が「かわいい」と語る父親
少女が支える家族 ほか
第2章 家族神話を生きる妻
神話を支える妻たち
セックスという名の深い河 ほか
第3章 不可視化された暴力
加害者を嘲笑せよ
マジョリティであることの恐怖 ほか
第4章 トラウマと時間
セクハラ元年、メディアの変化
トラウマと引き金 ほか


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