犬とキャンプと写真好きな爺&婆の気ままな日誌

昔話:空襲

 爺は団塊の世代の少し前に生まれ、空襲を経験している世代ですが空襲の記憶はほとんど有りません。
 1945年春、東京大空襲の時には父は満州、姉・兄は学童疎開で家には母と私だけでした。
 焼夷弾の火災から逃れる為に母は私を負ぶって両手に風呂敷包みを持って避難したそうです。

 その時に青山墓地方面へ逃げるか又は明治神宮方面へ逃げるのかの選択が生死を分けたようです。
 あちらこちらで燃え上がるあの時の火の怖さを覚えているのは、たぶん、
後から聞かされた話しが刷り込まれたのでしょう。
 それでも、ダーク・グレーの大型輸送機の爆音が今でも好きになれないのは、
あの時のB29のせいかも知れません。

 戦後も防空壕がしばらく残っていたので、
悪戯をした時に何度か閉じこめられて暗い中で泣いたのを覚えています。

 この戦争に、今もつらく重い悲しみを抱き続けている方には申し訳が無いほど、
ささやかな爺の空襲体験です。

         

 小学校へ入学する前まで千駄ヶ谷に居て、明治神宮の森でドングリや椎の実をひろって遊びました。
木の実を食べたようですが、どんな風に食べたのか、全く覚えがありません。

 森の通路の奥のほうに銃剣を持った進駐軍の衛兵が立っている姿を遠くから見て、怖いような或いは憧れのような思いを抱いたのが不思議です。

         

コメント一覧

セーラ爺&婆
対馬丸
cooさん 貴重な話を有り難う御座います。御婆さまの対馬丸の話も、海岸で命拾いをした伯父様の話もしっかり覚えておきます。
coo
生死の分かれ目
沖縄で有名な、というのか、語り継がれている「対馬丸」という疎開船の話があります。護衛艦もついて、学童を中心に、九州に向けて出航したのですが、途中米軍の攻撃で沈没してしまった船です。私の祖母は、その船に乗る予定だったのですが、手違いだか、何かの変更だかで、その前後どちらかの船に乗ることになり、命拾いをしました。
ちなみに伯父は、兵隊に出ていましたが、海岸まで追い詰められ、皆、海に逃げたのだそうです。伯父は泳げなかったため、溺れて苦しい思いをするならここで撃たれたほうがと思い、浜に引き返したのだそうです。結果、海に逃げた方たちはそれ以上に逃げられず、引き返した伯父は撃たれることもなく生き延びました。
ほんとに不思議な分かれ目だなぁ、と思います。
セーラ爺&婆
6月23日 慰霊の日
cooさん 慰霊の日が6月23日なのは、1945年4月1日アメリカ軍の嘉手納上陸で本格的に始まった沖縄戦の組織的戦闘が終結した日だそうですね。
(今、調べました)
 疎開船の話はどんな内容でしょうか?又教えて下さい。
coo
身近な話題
戦争はもちろん体験していない私ですが、感覚的にはとても身近な話題です。
沖縄は6月に慰霊の日というのがあって、学校はお休みですがその頃には毎年戦争の話をされます。
私も家で祖母から疎開船の話を聞いたり、両親から当時の話をよく聞きました。母は今でも「米兵につかまるなら死んだ方が、と言われていたけど、実際はとても親切にしてくれた」とよく言います。
いろんな体験談を聞いていると、生死の分かれ目って、ほんとに不思議だなぁ、とよく思います。
セーラ爺&婆
母親の背中
そらにぃさん あの戦争で、そらにぃさんのご家族も大変な苦労をされたんですね。
 爺の親父さんは戦争の話をしてくれましたが、面白可笑しい話ばかりでした。苦しかった事とか、やな出来事は思い出したくもなかったのかも知れません。
 それにしても母は強し!ですね。
そらにぃ
おそらく、ウチの親父さんとセーラ爺さんは同世代だと思います。やはり、母親の背中に負ぶわれて逃げ回っていたのだとか…。
祖父は、南方に出征していて片足を失って帰ってきましたが、戦争の話などは聞きませんでしたし、聞けませんでしたね。なんだか怖くて。
セーラ爺&婆
半世紀以上も前の事
OZ様・お母様 半世紀以上も前の事を良く覚えていらっしゃると言うことは・・・
 学童疎開ならば、母様はおそらく小学生だったと思います。ご家族での疎開だとしたら、もっと幼い頃の事ですね。
何れにしても、疎開先では食べ物にしろ、生活習慣にしても自分の家に居る時とは全く違ったご苦労の連続だったと推察できます。
例えば、厠(トイレ)は住居とは別の建物で、夜暗くなってから行くのはお化けが出そうで怖かったとか、都会では蛇口をひねれば汲める水が、つるべ井戸か手押しポンプにせよ自分で汲み上げて、バケツで台所、風呂場へ運んだのだと思います。
 都会の子が田舎の子からどんな受け入れ方・扱いを受けたのか、爺は良く分かりませんが、生易しい体験ではなかったでしょう。ご苦労様でした。
セーラ爺&婆
すいとん!!!
OZ様 真岡は爺&婆の住んでいる所から車で40分の距離です。JRで行くと益子より4つ手前です。何だか不思議なつながりがありますね。
嬉しいですね、すいとんを作る方がいて下さって。
すごい偶然ですが、爺&婆は今晩、すいとんを食べました。我が家のすいとんは、爺が婆に頼んで作ってもらうお気に入りの献立です。婆はすいとんの作り方を爺の母(爺を負ぶって空襲から避難した母)から教わりました。昔のすいとんは決して美味しいものではありませんでした。先ず団子用の粉ですが、メリケン粉(小麦粉)が不足でトウモロコシをすりつぶした粉が多かったようです。勿論、OZさんのお母様がおっしゃるように具と言っても今のように美味しい野菜やお肉が入ってはいませんでした。 食べ物を通じて語り伝えるのも良いですね。お母様にも宜しく。
OZ
私の母は真岡に疎開をしていたそうです。
今から半世紀以上の前の事ですが良く覚えているそうです。何でそんな昔の事覚えているんだろう… 考えさせられます。
時々今風にアレンジした「すいとん」を作ってくれます。昔はこんなに具が入って無かったのよ~と言いながら作ってます。
かおりママさんの言うとおり次世代の子供達に伝えていく事 大事だと思いました。




セーラ爺&婆
語り伝える
かおりママ様 爺のつたない表現をとてもうまく、真摯に受けとめていただき有り難う御座います。 
 爺は若い頃の安保闘争にも関与しなかった全くのノンポリですが、その頃親しい友人と確認し合ったことは、政治的・思想的に偏向しないこと、そして万が一憲法第9条が改正されるような機運になったら敢然と立ち上がる、の二つでした。
 悲劇は、絶対に繰り返してはならない!とそれぞれの思いと言葉で語り伝えていきたいと思います。
かおりママ
戦争の話
私の祖父母は戦争体験者です。一緒に住んでいたので
よく戦争の話を聞きました。その頃は『戦争ってこわいなぁ~』くらいにしか思わなかったのですが、
子を持った今、絶対に繰り返してはならない!と
強く思います。
祖父は7年前に亡くなりましたが、今でも祖母は
戦争の話、昔の話などを聞くと話してくれます。
今の子供たちにもちゃんと伝えていくことが
大切だなぁと、改めて思いました。
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