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一碧万頃

隅田川に架かる橋② 勝鬨橋 

勝鬨橋

 隅田川に架かる橋シリーズ2回目は、隅田川橋梁の中でも有名な勝鬨橋である。

 かつては、東京湾から隅田川に入る際の最初の橋梁であったが、2014年に「築地大橋」が架橋されたため、第2番目の橋梁となった。

勝鬨橋

竣工:1940(昭和16)年6月14日

型式:3径間ソリッドリブタイドアーチ

可動部型式:シカゴ型固定軸双葉跳開橋

橋長:246.00m

幅員:22.00m

平成19年6月18日に国指定重要文化財に指定

 

  橋の名称は、日露戦争の勝利(明治38年)を記念し築地と月島間に設けられた渡し場「勝鬨の渡し」に由来している。建設の目的は、月島の交通不便を解消し、さらに晴海や豊洲地区の開発支援を行うためのものであったとのこと。

 本来は跳開橋であり、実際に稼働していたが、昭和45年11月29日を最後に開閉を中止している。ちなみに、勝鬨橋は、秋本氏による漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』でも登場した橋梁なので、こち亀ファンなら絶対に知っている橋の一つだと思われる。

 漫画『こち亀』では、「隅田川にかかる橋シリーズ」(1992年)と称して、扉絵に11の隅田川の橋梁が描かれていたのだが、なんと、秋本氏は、集英社新書として刊行した『両さんと歩く下町-扉絵で綴る東京情景』(2004年)で、この扉絵のエピソードについて、詳しく紹介している。

 この新書は、漫画ではないが、あまりに面白いので、購入したその日のうちに夜更かしして、読破してしまった。

 漫画『こち亀』は、昭和の下町の歴史を勉強するきっかけを作ってくれる漫画であり、とくに田舎から出てきて、東京の下町に住むことになった僕としては、非常に頼りになるガイド役を務めてくれた漫画でもあった。葛飾区には、主人公の両津さんの像がいくつも建っているそうだが、名誉区民級の働きだと思う(笑)。話の途中で、神田に住まいを移した両さんではあるが。

 跳梁橋である勝鬨橋は、高さのある大型船が隅田川に入ってこられるように跳梁式にしたと考えるのが一般的であるだろうし、普通にそう納得するだろう。しかし、ちょっと調査したところ、これはむしろ逆で、あまり大型船が隅田川を利用しなくなってきたため、開閉する形式にしても問題ないだろうと、跳梁式を採用したと考えられているとのことである。確かに、地上の移動が多く、開かずの踏切、いや、いつも通れない道路橋では、利用する人がさぞ困ることになる。

 勝鬨橋は、戦前では一日5回開閉を行い、戦後も昭和22年からは3回、昭和36年からは1回開閉したそうである。可動部は70秒で開き、晴海通りは約20分間交通止めになったとのこと。

 勝鬨橋のもう一つの魅力は、勝鬨橋に隣接して「かちどき橋の資料館」が設置されていることである。橋好きにはなんともうれしいはからいで、しかも、かつて勝鬨橋の跳梁部を開くために使用していた変電所を改修し、資料館としたものである。

 勝鬨橋をはじめとして隅田川の橋についての資料なども展示、公開している当資料館である。

写真右の建物が「かちどき橋の資料館」

 橋梁には、写真のような橋の上げ下げを切り抜き画にしたような図柄のフェンスを意匠に採用している。これは、橋を下げて、渡れるようにした際の図柄である。

上記の写真は全て2017年5月撮影

 さて、この橋梁を製造した業者をネットなどを使い、簡易に探ってみたところ、東京都建設局によるかちどき橋の紹介パネルの記載から、施工業者を知ることができた。実は、以前、かちどき橋の資料館を訪れた際、設計者などの展示があったことを思い出していたので、とりあえず、ネットで情報を集めてみたのである。そうしたら、展示物築地・月島側の橋脚工事、本体は銭高組、鉄骨製作は宮地鉄工所、月島側の径間の桁製作架設工事は、石川島造船所(現IHI)、中央径間の桁製作仮設工事は、神戸川崎車輌、築地側径間の桁製作架設工事は、横河橋梁であることが解った。

 また、GOOブログで勝鬨橋を当時の地図などを踏まえて丁寧に紹介している方を発見し、その方が参考したHPとして銭高組を挙げておられたので、銭高組のHPを閲覧してみたところ、銭高組のHPには勝鬨橋の名前の由来、時代背景、建設の流れなどが丁寧にかつ簡潔に紹介されており、「銭高組を主体とし、石川島造船所(現IHI)、横河橋梁製作所(現横河ブリッジ)、川崎車両(現川崎重工業)で工事を行いました。」との記載を発見した。

 よって、これらの情報を根拠にし、架橋工事を請け負ったのは、上記の会社であることをある程度確信できた。

 なお、銭高組は、隅田川の橋梁では、勝鬨橋の他、佃大橋や吾妻橋、隅田川橋梁(つくばエクスプレス)も施工している。また、江戸時代の宮大工の棟梁を祖とする歴史のある会社でもあることも知ることができた。

 ところで、この勝鬨橋、当初の計画時にあの有名なアメリカン・ブリッジ・カンパニーから援助の申し出があったらしい。しかし、それを断り、日本人の手で設計・施工したのがこの勝鬨橋であるそうだ。その出来映えは、戦後、アメリカ軍がこの勝鬨橋を見て、日本人の設計であることを信じなかったと言われるほどであったとのこと。

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2019年再訪

 どうも、ネット検索ばかりで、もやもや感があるので、先日、久しぶりに「かちどき橋の資料館」を訪れてみました。

 こちらは車いすの方でも入れるスロープがある入り口。写真の左側奥からは、階段で降りて、本館入り口に達する。

 

入り口の扉

内部も撮影して良いとのことなので、そのワンショットを紹介。

 以前訪れたときと変わって、展示パネルが変更されていた。展示物を大きく変えることができないので、パネルは時々変えて、何度来ても楽しめるようになしているのかもしれない。

展示物は、発電装置(写真)、電気設備(写真2階部)、勝鬨橋模型、映像視聴覚コーナー、資料閲覧机と資料、パネルである。

 

勝鬨橋の模型。跳梁部が跳ね上がるようになっていて面白い。ボタンを押すと橋梁が跳ね上がり船が通る。

 資料の閲覧をしたことは言うまでもない、震災復興時の橋梁図面などが複写され閲覧に供されており、結構、情報収集ができた。やはり、ある程度、原典・史料にあたりたいと思う次第である。

 

参考文献:銭高組のHP、「かちどき橋の資料館」(かちどき橋の資料館パンフレット)平成29年3月発行

勝鬨橋の設計についての当時の報告書として、以下の文献も挙げておく。

安宅 勝「可動橋勝鬨橋の設計に就いて」『土木学会年次学術講演会概要集』第1号 1937(昭和12)年

安宅 勝「勝鬨橋に就いて」『土木学会誌』第25巻第12号 1939(昭和14)年12月

伊東 孝「東京の橋 永代・清洲・勝鬨橋の重文指定を考える(1) 勝鬨橋-シカゴ市のメッセージが生きるとき」『DOBOKU技士会東京』第39号 2007年12月 

2019年12月修正、加筆 2024年2月再修正

そろそろ、アップデートも考えております。

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