英国も含めた全世界で新型コロナが猛威を振るい始める前の今年1月31日午後11時(日本時間2月1日午前8時)英国がEUを正式離脱した瞬間、ロンドン・ダウニング街の首相官邸の壁に投影されていたカウントダウンの時計には「00:00」が表示された。
この「00:00」という数字は英国のリセットを意味したもののようだ。
ビッグベンの鐘の映像と共に、録音された鐘の音が鳴らされ、英国国旗ユニオンジャックを手に議事堂前の議会広場に集まった人々から大歓声が上がった。
EU離脱を歓迎し、お祭り気分のロンドン市民
(AFPのネット上の記事から画像を引用)
これに先立ち、同日午後10時には、事前に録画されていた演説の中でボリス・ジョンソン首相が「これは終わりではなく始まりだ」(EU27カ国との関係を断つことは)「国家として本当に再生し、変わる瞬間」と演説。
47年間EUの加盟国であった英国が何故敢えてEUからの離脱を選択したのか。
EU離脱によるマイナス面よりも離脱によるプラス面の方が大きいと判断した、少なくとも英国の過半数の人々にとり、EU残留によるデメリットは受け入れがたいものだったということなのであろう。
英国がジョンソン首相のいう「国家として再生し、変わる」ため、EUから離脱することを選択した最近の事情をみてみることに。
今回、谷本 真由美氏(NTTデータ経営研究所にてコンサルティング業務に従事、ロンドン在住)の「Why UK left EU ?」(Wireless Wire News 2020年10月16日付)という記事が非常にわかり易く現地事情を紹介しているので、その記事から引用抜粋し、解釈を加えてみた。
■EUとはそもそも何だったのか
第二次世界大戦後、疲弊したヨーロッパでは、地域内の関税を下げて経済を活性化させ再興をはかること、軍事同盟を結んで米国と協力した上でドイツの再軍事化を防止し、ソ連に対抗する、という目的でEUの前身であるECが1967年に誕生。
それに先立ち、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)が1952年に設立され、1958年には更に領域を拡げて、EEC(欧州経済共同体)となり、EURATOM(欧州原子力共同体)が創設され、1967年にこの三共同体の主要機関が統一されて欧州共同体ECが誕生というのが歴史的経緯だったようだ。
当初の加盟国はベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、ルクセンブルグ、オランダの6ヶ国だったが、その後新たに、デンマーク、アイルランド、英国、ギリシア、スペイン、ポルトガルが加盟し、1986年までに12ヶ国に拡大。
ECからEUへ
1970年代の経済危機による「ECの停滞の時代」を経て、統合の遅れに対する危機感から、1985年ドロール委員長のイニシアティヴにより1992年までに域内市場統合の完成を目指す「域内統合市場白書」が採択。
その間、1990年にミッテラン仏大統領とコール独首相が、EMU(経済通貨統合)を形成して一気に政治統合まで実現するとの共同提案を行い、1991年12月のEU創設のための「マーストリヒト合意」につながり、92年12月に調印。
95年1月のオーストリア、フィンランド、スウェーデンの新規加盟を得て15ヶ国となり、その後東欧も国々が加わり2019年の英国離脱時には加盟28か国。
EUの人権規約が大きな柱となる。それによって民族や人種差別を禁止し、EU国籍ならどの加盟国にも住め、その国の人と同じように、無料の病院や無料の学校を使う権利もあり、公営住宅に住み、生活保護や子ども手当をもらうことができ、銀行の口座も開け、当然会社で働くことも可能とした。
事実上、EU加盟国同士国境がない状態にするのがEUだった。
■英国への移民が急増した2000年代
EUは域内の国籍を持った人間ならどの加盟国に住み働いてもよく、ビザは不要というルールを決めていたため、働く気のある人、優秀な人は、ビザを取る必要なく好きな国で働け、お金がある人は、好きな国に別荘や家を買って住むことなども簡単になり、当初は人が動くと経済が活性化するはずであると思われた。
特に英国の失業者が増加した2008年のリーマンショック後は、それより少し前に新たに加盟した東欧などの「貧乏な国」から「金持ちの国」英国に大量に移民が来て、英国人の雇用を脅かす現状であると感じるようになった。
2007年にEUにルーマニアやブルガリアなど「貧乏な国」も加盟することとなったが、ルーマニアやブルガリアの平均月収は4−6万円、田舎に行くと現金収入が殆ど無いに近いこともあるそうなのだ。
ブルガリアでは野菜や豚を飼育し、一族が食べる肉は、年に一回潰す一頭分の豚で、現金収入は月に5,000円ぐらい、などといった具合。
一方、ドイツや英国のような「金持ちの国」に行けば、5倍、10倍のお金を稼ぐことが出来る。英国は最低賃金で働いても月に25万円ほどは稼げ、「ロンドンなどの大都市の路上で物乞いをやると、一日に10万円ぐらい稼げることもある」などのジョークも。
一ヶ月に3万円ぐらいの子ども手当をもらったら(自分の国では、それは店員の一ヶ月分の給料に当たるので)ルーマニアで浮浪児を探して英国に送り、子供手当を送金するというビジネスをやる人まで現れるなどの弊害が起こるようになった。
「子ども手当」という制度では、日本でもこれに類した悪用事案として、民主党政権時代の2010年「子ども手当554人分申請、在日韓国人『タイで養子』、尼崎市は受け付け拒否」などと言う噴飯ものの事案もあったそうだ。
引用:
「働く気がない人も、やる気のある人も、貧乏な人も、英国やドイツにどんどん移動してしまい、その結果何が起こったかというと、英国には一年に18万人ものEUからの移民が増え続け(EU域外からの難民などを合わせれば30万人といわれる)、全員が帰国するのではないため人口が移民によって増加していた」
ルーマニアとブルガリアからは年に5万人ぐらいの移民が来た。英国統計局によれば、英国在住のポーランド人の人口は2004年には6万9千人だったのが2011年には68万7千人に増加。
EU域外の移民も合わせると、年間30万人もの移民が来るようになっていたそうだ。
英国への移民が増えたのは2002年以後で1980年代には移民の数はマイナスで、英国から(米国などに)流出する人の方が多かったのだそうだ。
英国の人口増加は移民の増加と、移民の出生率の高さに依存するようになった。統計局によれば、2015年英国人口は一年で50万人増加。その3分の2は移民の増加によるものだった。今後25年の間に人口は970万人増加し、その51%は移民による増加と予測されていたそうだ。
この970万人という数字は英国の現在の人口の約14%にあたる数字だった。
2013年には英国で生まれる子供の26.5%は母親が英国以外の国の生まれだった、つまり英国の4人に一人の新生児の母親は英国人以外の女性だったそうで、これは実は大変な数字である。
ロンドンなど大都市ほどその割合が高く、例えば国民投票で投票率が英国一低い59.2%、残留移民が53%というロンドンのNewhamは(オリンピック会場のあるところ地域で、金融街の近くにある地区)英国以外で生まれた母親の割合が76.1%と英国一だった。
移民は出生率が高く、人口増に貢献していた。英国生まれの女性の2013年の合計特殊出生率は1.79で(2012年の1.9より低下していた)一方英国以外の国で生まれた女性の2013年の合計特殊出生率は 2.19だったそうだ。
英国の人口は2019年現在で 6680万人(出所:英国国民統計局)。
英国人女性の特殊っ出生率1.79と移民女性2.19の差は実は大変な差なのだ。
特殊出生率は理屈の上で、2以下ならば人口は減少し、2以上ならば人口は増加するという理屈なのでこのままいえけば、英国人女性から生まれる子供の数は累積的に減少、移民系女性から生まれる子供の数は累積的に増加するということを意味している。
因みに日本の人口は2020年1月1日現在で1億2602万人 で前年同月に比べ30万人の減少(-0.23%)に転じている。(日本の人口として最も一般的に用いられる国勢調査では、外国人も含めた人口が把握されている)
それまで父が英国市民である場合のみ子女も英国市民権が付与されたが、1981年英国国籍法により母が英国市民である場合にも子女が英国市民権を付与されるようになったのだそうだ。
英国国籍法改正の目的を1984年の英中共同声明に先立ち、英国領香港生まれの華人に英国の永住権を与えないようにするためであるとする批判があったが香港出身の人物は1962年英連邦移民法で既に永住権が自動的に与えられないようになっており、この点は1981年英国国籍法で変更されたことではなかったらしい。
この辺りの事情は日本における外国籍の中長期滞在者の人口に対する割合が増加する問題とも似ている。
日本も英国と同じく出生地主義ではなく血統主義をとり、両親のどちらかが日本国籍の場合は子供は日本国籍を選ぶことが出来る。(外国籍を選んだ場合は重国籍は日本では認めていないため、日本国籍は喪失となる)
移民女性の特殊出生率は2以上で英国人女性は2以下で、しかも新生児の4人に一人が移民女性から生まれた子供であるという数字が意味していることは、このままでいけば、未来には「英国人と移民系の人口比率はある時点で逆転する」つまり英国は移民系の人々の国化、米国のような多民族国化する可能性が浮上していたということを意味している。
②EUへの分担金の不公平さとEUの役立たなさ
「金持ち国」はお金を出すばかりで、「貧乏な国」に、補助金などの名目で吸い取られてしまう、という不満。例えばスペインやギリシャの高速道路は、ドイツや英国が出したお金で作られていたそうだ。
英国はEUにお金を出しているのに、EUからの補助金や研究予算で賄われた英国の科学技術研究はたった8%でしかなく、産業技術分野でEUはあまり役に立たないという意見が出ていた。
③EUの肥大化~馬鹿馬鹿しい法律による足かせ
関税障壁を撤廃して、域内の経済を活性化することがEUの目的であったため、EUは役所として肥大化してしまい、次第に、わけのわからない法律を作るようになったといわれており、こうした法律の少なからぬものには実現性がなく、各国の事情を反映していないため、ビジネスや法務にとって大きな足かせになっていた。
例1:EUのデータ保護指令というIT関連の規制。データセンターの個人データはEU域外に保存してはならないといっているがしかし現在はクラウドやインターネットの発達で、データは世界各地に保存されており全くナンセンスなのだが、そういう規制に対応するために、テック業界の人々は困っていたのだそうだ。
例2:英国で話題になる「EU人権規約」という法律。EU域内で守られるべき人権を規定したものなのだそうだが、その内容があまりにも理想的かつ大雑把なので、それを悪用して訴訟を起こす人々もおり、会社や役所は困り果てていた。例えばパブで転んで怪我したのはEU人権規約違反だから5億円払え、といった具合。
離脱を促す大きな(EU加盟の)マイナス面として挙げられていたものとして例えば以下のようなものが挙げられていた。
④治安悪化によりシリアなどのEU域外からの難民がEU内に押し寄せたこと。その一方で、旧東ドイツ出身のドイツのメルケル首相などは4年前「移民100万人の受け入れ」を表明しその際に使った「Wir schaffen das(私たちにはできる)」というフレーズを翌年3月に「私は今でも『私たちにはできる』と確信している」と言い換えながら繰り返した。英国とはこうした国々と立場が決定的に異なるものとなった。
メルケル首相は「これは私たちの歴史的な義務であり、グローバリゼーションの時代における歴史的な課題です。ここ11カ月の間に私たちはすでに、実にたくさんの成果を出してきた」と表明したが、その実態はどうであったか。
ドイツの治安、EU全体の治安は極端に悪化したのが現実だった。
メルケル首相はその後「組織的なテロ攻撃のほかに、警備当局に知られていない犯人による脅威が新たに出現する」ことへの対策として「亡命希望手続きの最中に何か問題があれば、その時点で当局が気づけるような早期警戒体制が必要だ」とも警戒を述べた。
安全面の脅威に対し「市民の安全を守るために必要な対策をとる。(移民の)社会融和の課題を真剣に受け止めている」と対応を約束したものの、メルケル首相の選択はやはり現実路線ではなく、ドイツ国内やEU内の世論ではむしろ現在ではその反動として「メルケル後」の転換を検討中。
そして新型コロナの影響でEUの各国は国境を厳重化する事態となり、国同士の命運が決して一蓮托生ではないことを皮肉にも顕在化させることとなった。
英国は米国同様、究極の選択として「自国ファースト」という現実路線をいち早く国民自らが選んだ。
EUがメルケル路線全盛期の4年前の2016年6月23日の国民投票では英国の投票者の51.9%がEUからの離脱を選択したのであった。
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