五木寛之氏 7月31日中日新聞 「親鸞」に下記の文章があります。
「ひとつ、ききたい。そなた、念仏すれば本当に浄土に往生できると思うておるのか」
善信はゆっくりと腰をおとし、遵西と顔をならべてしゃがみこんだ。おだやかな声でいう。
「わたしは浄土にはいったことがありません。ですから、師の言葉を信じるしかな
いでしょう。信じるというのは、はっきりした証拠を見せられて納得することでは
ない。信じるのは物事ではなく、人です。
その人を信じるがゆえに、その言葉を信じるのです。
わたしは、法然上人をひたすら信じている。
ですから、そのかたの教えられるとおりに念仏して、浄土に迎えられると信じているのです」
「では、そなたはなぜ法然を信じるのだ」
「法然上人が、わたしを信じてくださっているからです。
わたしのような者を、しっかりと信じてくださった。
だからわたしも法然上人についていくのです」
………………………………………………………………
歎異抄第2章を思い起こします。
関東の同朋たちには、一番信用できるのが聖人であり、
どうもいま一つハッキリしないのが阿弥陀仏の本願なのである。
親鸞さまが、法然、善導、釈尊の教えは“まことだ”と言われるから、
彼らは「弥陀の本願」を信じているのだ。
その弥陀の本願に疑惑が生じ、疑い晴らそうと来た人たちに、
何の証明も解説なしに、彼らの最も曖昧な「弥陀の本願まこと」を大前提に、
話を進められているからである。
これでは話し方が逆ではないか、と思う人があっても決しておかしくなかろう。
だが一方、弥陀の本願に相応し救い摂られた親鸞聖人には、
何よりも疑いようのない明らかな“まことが、
「阿弥陀仏の本願」のみなのである。
大海の水に宿った月の如く、いかに怒涛逆巻くとも、
月は、流されも、壊れも、消え去ることもない。
たとえ釈尊、善導、法然にウソ偽りがあろうとも、
弥陀の本願と直結された聖人の「本願まこと」の信心は、
微動だにもしないのだ。
「弥陀の本願まことだから」と、何のためらいもなく言えたのは、
鮮明無比な他力至極の信心だったからにほかならない。
高森顕徹先生 『歎異抄をひらく』p191~
………………………………………………………………
五木氏の描いた親鸞聖人の信心は、人を信じている信心であり、
人や物事を信じるのは他力の信心、真実の信心、正信ではありません。
弥陀の本願まこと、心を弘誓の仏地に樹つのが他力の信心、
真実の信心、正信です。
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「ひとつ、ききたい。そなた、念仏すれば本当に浄土に往生できると思うておるのか」
善信はゆっくりと腰をおとし、遵西と顔をならべてしゃがみこんだ。おだやかな声でいう。
「わたしは浄土にはいったことがありません。ですから、師の言葉を信じるしかな
いでしょう。信じるというのは、はっきりした証拠を見せられて納得することでは
ない。信じるのは物事ではなく、人です。
その人を信じるがゆえに、その言葉を信じるのです。
わたしは、法然上人をひたすら信じている。
ですから、そのかたの教えられるとおりに念仏して、浄土に迎えられると信じているのです」
「では、そなたはなぜ法然を信じるのだ」
「法然上人が、わたしを信じてくださっているからです。
わたしのような者を、しっかりと信じてくださった。
だからわたしも法然上人についていくのです」
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歎異抄第2章を思い起こします。
関東の同朋たちには、一番信用できるのが聖人であり、
どうもいま一つハッキリしないのが阿弥陀仏の本願なのである。
親鸞さまが、法然、善導、釈尊の教えは“まことだ”と言われるから、
彼らは「弥陀の本願」を信じているのだ。
その弥陀の本願に疑惑が生じ、疑い晴らそうと来た人たちに、
何の証明も解説なしに、彼らの最も曖昧な「弥陀の本願まこと」を大前提に、
話を進められているからである。
これでは話し方が逆ではないか、と思う人があっても決しておかしくなかろう。
だが一方、弥陀の本願に相応し救い摂られた親鸞聖人には、
何よりも疑いようのない明らかな“まことが、
「阿弥陀仏の本願」のみなのである。
大海の水に宿った月の如く、いかに怒涛逆巻くとも、
月は、流されも、壊れも、消え去ることもない。
たとえ釈尊、善導、法然にウソ偽りがあろうとも、
弥陀の本願と直結された聖人の「本願まこと」の信心は、
微動だにもしないのだ。
「弥陀の本願まことだから」と、何のためらいもなく言えたのは、
鮮明無比な他力至極の信心だったからにほかならない。
高森顕徹先生 『歎異抄をひらく』p191~
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五木氏の描いた親鸞聖人の信心は、人を信じている信心であり、
人や物事を信じるのは他力の信心、真実の信心、正信ではありません。
弥陀の本願まこと、心を弘誓の仏地に樹つのが他力の信心、
真実の信心、正信です。
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