五木寛之氏と言えば、『人生の目的』という著書がある。
経歴を読めば執筆活動を一時休んで、京都龍谷大学で親鸞聖人の
教えを学んだとされている。
龍谷大学とは浄土真宗本願寺派の大学である。
その成果は、『人生の目的』に次のように述べられている
●人生に決められた目的はない、と私は思う
●「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」
と言ってもいい、私はそう思う。
●人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものだろう。
(『人生の目的』p274)
親鸞聖人の教えを学んでも、人生の目的は教えられていないのだろうか。
対照的な本が高森顕徹先生監修の『なぜ生きる』である。
人はなんのために生まれ、生きているのだろうか。
なぜ苦しくても自殺してはならぬのか。
「人生の目的」は何か。
親鸞聖人の答えは、ゆるぎなき確信と勇気を持って、簡潔であざやかである。
「苦しみの波の絶えない人生の海を、明るくわたす大船がある。
その船に乗り、未来永遠の幸福に生きるためである」
主著『教行信証』の冒頭に、つぎのように記されている。
難思の弘誓は、難度海を度する大船、無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり(『教行信証』)
「弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大船である。
この船に乗ることこそが人生の目的だ」
全人類への一大宣言といえよう。
人生の目的は「苦界をわたす大船に乗ること」とはどんなことか、本書のテーマであるが、一言で言えば、
「苦悩の根元である無明の闇が破られ、〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟と生命の大歓喜を得ること」である。
聖人の著書は決して少なくないが、これ以外、訴えられていることはない、といっても過言ではなかろう。
(『なぜ生きる』p114)
経歴を読めば執筆活動を一時休んで、京都龍谷大学で親鸞聖人の
教えを学んだとされている。
龍谷大学とは浄土真宗本願寺派の大学である。
その成果は、『人生の目的』に次のように述べられている
●人生に決められた目的はない、と私は思う
●「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」
と言ってもいい、私はそう思う。
●人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものだろう。
(『人生の目的』p274)
親鸞聖人の教えを学んでも、人生の目的は教えられていないのだろうか。
対照的な本が高森顕徹先生監修の『なぜ生きる』である。
人はなんのために生まれ、生きているのだろうか。
なぜ苦しくても自殺してはならぬのか。
「人生の目的」は何か。
親鸞聖人の答えは、ゆるぎなき確信と勇気を持って、簡潔であざやかである。
「苦しみの波の絶えない人生の海を、明るくわたす大船がある。
その船に乗り、未来永遠の幸福に生きるためである」
主著『教行信証』の冒頭に、つぎのように記されている。
難思の弘誓は、難度海を度する大船、無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり(『教行信証』)
「弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大船である。
この船に乗ることこそが人生の目的だ」
全人類への一大宣言といえよう。
人生の目的は「苦界をわたす大船に乗ること」とはどんなことか、本書のテーマであるが、一言で言えば、
「苦悩の根元である無明の闇が破られ、〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟と生命の大歓喜を得ること」である。
聖人の著書は決して少なくないが、これ以外、訴えられていることはない、といっても過言ではなかろう。
(『なぜ生きる』p114)