浄土真宗親鸞会 三河HSJ

三河の学徒が集うブログです。なぜ生きる(人生の目的)などについて語っていきたいと思います。(浄土真宗親鸞会)

現生十種の益 大満足の楽しい心

2009年08月07日 22時54分56秒 | Weblog
先日、豊橋市民文化会館で高森顕徹先生の蓮華の五徳の御講演を
聞かせて頂きました。

正信偈の正信、正しい信心、真実の信心をあらわす蓮華。

その蓮華の五徳の一花多果の徳では、現生十種の利益が教えられています。

 蓮の花のような正しい信心の花が心に開いたその時から、十種の益を獲る。

その二つ目は至徳具足の益と教えて頂きました。

 信心獲得すれば大満足の絶対の幸福になるのは至徳具足するからだ。

 至徳とは無上の幸福、

大無量寿経には

「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。
まさに知るべし、この人は大利を得とす。
すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」

 南無阿弥陀仏を聞信の一念、無上の功徳(至徳)を具足すると釈尊は仰います。

 この無上の功徳とは南無阿弥陀仏のことです。

 正信偈では

「帰入功徳大宝海」

と仰り、

 御文章には、

「それ、南無阿弥陀仏ともうす文字は、そのかずわずかに六字
なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには
無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり」

 と教えられています。

 南無阿弥陀仏の大宇宙最高の宝を頂くのですから、大満足の楽しい心、

絶対の幸福になるのです。

 

大谷大学 人間学 なぜ生きるのか?

2009年08月06日 22時08分07秒 | Weblog
 五木寛之氏が執筆活動を一時休止して学んだ龍谷大学は
西本願寺(浄土真宗本願寺派)の大学ですが、
 東本願寺(真宗大谷派)の大谷大学では、
親鸞聖人の教えから「なぜ生きるのか?」を学べるのでしょうか?

受験生が大谷大学2010年入試資料を読んでいましたので、
見せてもらって、何気なく大学案内のパンフレットをめくると

まず表紙の裏には、
………………………………
「何のために生きるのだろう」「生きることって何だろう」
誰もが一度はふと立ち止まって考える、人間の根元的な疑問。
大谷大学の学びは、この「人間が生きること」の意味を問い、
考えることが基盤となっています。
かつて親鸞やブッダが、同じように生きることを問い続けたように、
「なぜ生きるのか?」から「どう生きるのか」を見つけていくことは、
簡単に答えの出せるものではありません。
だからこそ、奥深く、探求していく魅力にあふれています。
あなたがこれからの人生を、確かな足取りで歩んでいくために、
人間を考えるこの学びが、支えとなっていくことでしょう。
………………………………
と書かれてあります。

文学部には9学科あるようですが、「人間とは」「自分とは」という
根元的な問いを探求する「人間学」が全学科の学びの根幹
と銘打ってあります。

 その大谷大学の人間学とは?

………………………………
勉強に励むことも、社会に出て職に就くことも、決して人生の目標ではありません。
あくまでも、それは、生きるための手段。
さまざまな選択と、体験を積み重ねて、人はどう生きていきたいのか、
自分はどう生きるべきなのかを探りながら見つけていきます。
正しい答えなど、そこにはありません。
答えを求め続けるのが、「人生」であり、
答えを見つけるために「問う」ていくのが「人間学」なのです。
………………………………
と記載されています。

なぜ生きるのか?
正しい答えを親鸞聖人は教えられていないのでしょうか?
答えを求め続けるのが「人生」なのでしょうか?
それが親鸞聖人の教えなのでしょうか?


 高森顕徹先生監修の『なぜ生きる』はじめに、には、

………………………………
「人生に目的はあるのか、 ないのか」
「生きる意味は何なのか」
 人類は今も、 この深い闇の中にある。
 どこにも明答を聞けぬ中、 親鸞聖人ほど、 人生の目的を明示し、 その達成を勧められた方はない。
「万人共通の生きる目的は、 苦悩の根元を破り、 ”よくぞこの世に生まれたものぞ”の
生命の大歓喜を得て、 永遠の幸福に生かされることである。 どんなに苦しくとも、
この目的果たすまでは生き抜きなさいよ」
 聖人、 九十年のメッセージは一貫して、 これしかなかった。
まさしく人類の迷闇を破る、 世界の光といわれるにふさわしい。
 人気テレビ番組 『知ってるつもり!?』 では、 戦後出版された本の中で、
一番多く語られた 「歴史上の人物ベストワン」 と紹介された。
それほど有名で、 強い関心を持たれている聖人だが、 その思想はアキレルほど
誤解曲解されていることに驚く。
”それは親鸞学徒の怠慢だよ”
といわれれば弁解の余地はないが、 今は猛省して奮起を誓いたい。
 悲しい誤解の一つをあげれば、 「平生業成」 という言葉であろう。
「平生業成」 とは、 親鸞聖人のすべてを漢字四字であらわした、 いわば一枚看板
とされている言葉である。 「平生」 とは 「現在」 のこと。 人生の目的を 「業」
という字であらわし、 完成の 「成」 と合わせて 「業成」 といわれる。
「平生業成」 とは、 まさしく、 人生の目的が現在に完成する、 ということだ。
 親鸞聖人の特色が 「平生業成」 といわれるのは、 聖人ほど人生の目的と、
その完成のあることを強調された方はなかったからである。
 それが今日、 「あなたの平生業成が悪かったからだ」 とか 「私の平生業成が
よかったから」 などと、 日常行為のことのように使われたり、 聖人の生命が
公然と誤用、 蹂躙されては、 浅学非才をかえりみず親鸞学徒は、 悲泣して
立ち上がらずにおれないのである。
………………………………

とあります。

五木寛之氏と『人生の目的』 『なぜ生きる』

2009年08月05日 08時09分55秒 | Weblog
五木寛之氏と言えば、『人生の目的』という著書がある。
経歴を読めば執筆活動を一時休んで、京都龍谷大学で親鸞聖人の
教えを学んだとされている。
龍谷大学とは浄土真宗本願寺派の大学である。

その成果は、『人生の目的』に次のように述べられている

●人生に決められた目的はない、と私は思う
●「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」
 と言ってもいい、私はそう思う。
●人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものだろう。
     (『人生の目的』p274)
 
親鸞聖人の教えを学んでも、人生の目的は教えられていないのだろうか。

対照的な本が高森顕徹先生監修の『なぜ生きる』である。

 人はなんのために生まれ、生きているのだろうか。
 なぜ苦しくても自殺してはならぬのか。

「人生の目的」は何か。
 親鸞聖人の答えは、ゆるぎなき確信と勇気を持って、簡潔であざやかである。

「苦しみの波の絶えない人生の海を、明るくわたす大船がある。
その船に乗り、未来永遠の幸福に生きるためである」

 主著『教行信証』の冒頭に、つぎのように記されている。

 難思の弘誓は、難度海を度する大船、無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり(『教行信証』)

「弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大船である。
この船に乗ることこそが人生の目的だ」

 全人類への一大宣言といえよう。

 人生の目的は「苦界をわたす大船に乗ること」とはどんなことか、本書のテーマであるが、一言で言えば、
「苦悩の根元である無明の闇が破られ、〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟と生命の大歓喜を得ること」である。

聖人の著書は決して少なくないが、これ以外、訴えられていることはない、といっても過言ではなかろう。                 
               (『なぜ生きる』p114)